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NPOの存在意義は、"課題解決をすること"なのか。

(一度書くととまらない。。一昨日ふらりと本郷のスタバで、カタリバ常務理事、SVP Tokyoの代表理事を勤めていた拓也さんにお会いして、人生論を話したからか、またまた生き方論を考えてしまっている・・・。)

はー、NPO法人という団体の<存在意義>はなにか。
株式会社とも違って、わざわざ狭間に立とうとするこのポジションは、常に明確な存在意義が求められている気がする。自分たちで課題を定義できなれば、存在意義さえないような気もしてくる。

実際、こう何度も聞いてきた気がする。
「先は長いとしても、もし仮に課題が解決したら、うちの組織はなくなるだろう。究極、この組織がなくなることが、一番ハッピーな世の中だと定義できるだろう。」と。

美しい。だけど本当にそうなのだろうか。
疑い始めたのは、今年から同じ学校に毎週毎週通ってから見えてきたものだ。学生時代のインターンを通じて100校くらいは学校に行ったけれども、どれも単発。多くても数回、ほとんどが一度きりの関係だ。ワンショットの場合は、自然と、その多くのサンプル数から現象を抽出し、共通点・課題を見つけようとすることになる。自分は、この過程で、<自己肯定感と意欲の低さ>などの生徒たちの課題に気づいた。

でも毎週学校に行っていて、課題を解決するために関わるというスタンスの危うさに気づいた。「相手を変えたい」と思って向き合うと、その前提条件が邪魔をしてしまって、相手のほかのところが見えにくくなる。実際、いい授業ができなくて、一向に生徒の名前が覚えられなくて、全然自分にも関心をもってもらえなくて、自分なりに苦戦した。
つまり「変えなければならない相手」は、それは私が決めたことであって、本当にそうではないのかもしれないというこだ。「変えなければならない相手」ではなく「相手を変えたいという自分がいる」ことが事実であって、その行為は、自分の解へ導こうとする強い意図をもつ。
きっとそれを教育とされてきた部分もあるんだろう。でもそれは大げさに言えば、「富国強兵」が大切だとされていた社会では規律訓練に勤しみ、戦争が正義だとされていた社会では戦争に加担する思想を子どもたちに支持させることになった。教育は誰のためにあるのか。社会を動かす道具じゃないはずだ。

「教育」という視点に立ったとき、私たちの役割は「相手を変えたい」という自分の意図を正当化し、目的に導くことではなく、子どもたち一人一人が自分の生きる目的や生き方を選択していくプロセスを、豊かさで支えることだと思う。

半年間の生徒との関わりは、NPOという立場に立脚するとき前提とされている、もはや存在意義とイコールにある<課題>という言葉に対して疑うということを教えてくれた。ありがとう!
そして私たちは、<課題>に取り組むためではなく、<教育>をするために、<教育>に取り組むために、ずっと子ども時代を支えたいと思う。そしてそれは、間違いなく現在の学校を構成する教師以外の外部の、第3者のかかわりが必要だ。
だから、これからは堂々と、課題を解決することがNPOの存在意義ではないと、そして私たちはありたい未来はあるけど、その障壁として課題はたくさんAGENDAとして提示していくけど、課題解決型ではないと言いたいな。課題解決型ではなく、プロジェクト型NPOとでもいうのかな〜(笑)

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