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前橋から銚子への遠回り(その3/思川駅に寄る)

 その駅の名は「思川(おもいがわ)」と言う。地図で見ると、両毛線が栃木市街地につまみ上げられるように大平町のあたりから北に偏向し、再び東に向かってはやや南下し始めるその途上にある。駅の名もいいが、場所もいい。周囲は明らかに田園地帯であるのが見てとれる。前橋、桐生、足利と朝からいくつか市街地を通り抜けてきたので、ぼちぼち田舎くさいところを走りたくてたまらなくなっているのである。
 だだっ広い風景の中の農道同然の道には目標物もなく、少々道に迷いかけながらなんとか辿り着いた思川の駅は、果たして、絵に描いたようなローカルな風情の駅であった。さすがに駅の周囲にはそれなりに家並みなどあるが、商店街というまでの雰囲気ではない。のほほんとした空気感の駅前は、春の昼下がりということもあり、ともかく開けていて、屈託がない。
 いつか都会になりたい、というようなオーラが微塵も感じられないのだ。バカボンのパパが「これでいいのだ」と言っているような駅前なのであった。だから、自転車を駅本屋の柱に立てかけて、休んだ。旅の二日目でようやく、求めていた風景に出会ったような感覚であった。そうしているあいだに列車がやってきたような記憶もないから、ダイヤの間隙であったのであろう。
 静岡近郊でも身延線のようにローカルな駅や路線は確かに存在している。地元の人からするとおそらくは何の変哲もないと思われているに違いない、この小さな思川駅の面白さがそれとどこが違うかというと、北の果てに近いところとはいえ、関東平野のただ中にあるからである。
 回廊のような谷筋や、山がちなエリアの中でのローカル線も特有の風情はあるけれど、見通しの効く平野部でのローカルな駅は、そういう条件が揃わないと見ることができないのである。地元にとっては当たり前の風景も、旅人にとっては異なるのである。
 そういう具合に思川の駅で佇んでいると、なんだか時間が止まってしまったようにも思えるのであった。頃は四月の上旬、新学期が始まる頃で、世間はそれなりに緊張感のある時期を過ごしているはずなのであるが、私はまったくゆるんでいた。というか、ここに来て、ああゆるんでいいんだという気分になったのかもしれない。
 しかし、自転車旅のやむを得ぬところは、いつまでもそうしてはいられないということであり、だいたい今日どこに泊まるかの算段もまだしていない状況なので、また走り出さざるを得ないのであった。思川駅に別れを告げ、何軒が店のある通りを流したら、とてつもなく時代がかった風情の店がひとつあったので、写真を撮っておいた。これは本編と別のところで紹介できるかもしれない。
 思川の駅は、ストリートビューというものを使えるようになったとき、いそいそと見に行ってみたら、駅本屋はがっくりするくらいのっぺりとしたつまらないものに変わっていたが、まああの木造構造ではいつまでも持つはずもなく、これも時代の流れなのであろう。駅前も少々こぎれいになっていて、往時の、陽だまりの土ぼこりの匂いがしてきそうな雰囲気は消え去っていた。
 ただ、駅本屋の東側にあった松の木は現在も残っているらしく、これはひとつの救いであった。この松はまだまだこの駅を通り過ぎる人々を見続けるのかもしれない。

 思川駅を出ては、その東側で両毛線の北側に移り、また田舎道を通り抜けながら、駅名にある思川という川を渡り、東北本線も横切り、国道四号線に出たところでしばらく北上する。このルート取りを分析すると、要するに、小山市や結城市や下館市の市街地を避けて笠間市の方角を目指したかったからであろう。下坪山という名の交差点で再び四号線から東に離脱する。
 そのうちに鬼怒川を渡るが、このあたりの風景がうら寂しかった。記憶が曖昧なので、あるいはもしかしたら思川を渡るときだったかもしれない。これはつい最近になって気付いたのであるけれども、海のない、内陸の平野や盆地では、河川の周辺に寂しげな風景が広がることがしばしばある。
 谷筋や山あいではなく、平野部ではなぜか川のあたりが荒地的な空気感を持っていて、少なくとも日が暮れたら近寄りたくないな、と思わせたりもする。理由はよくわからないが、その周辺では川が最も低いことと関係しているのかもしれない。
 鬼怒川と書いてからようやく気がついたが、いつのまにかもう栃木県の中にかなり入り込んでいる。走った当時は県名表示で意識したに違いなく、足利市に入る手前ですでに群馬県から栃木県に越境していたのであった。
 さほど交通量が多くなかったはずの道を東進しているうちに、明らかに蒸気機関車と思しき汽笛が聞こえてくる。結局姿を見ることはなかったものの、真岡鉄道のそれであったのだろう。そのあたりからまた記憶が薄れる。似たような風景の連続だったからかもしれない。そしてそのあたりのどこかで、目星をつけた宿に電話した。すでに夕刻に近づいていたと思われる。
 いつのまにか、私がその北側を走っている鉄道路線は、両毛線から水戸線になっていた。岩瀬駅あたりで宿を取りたかったはずだが、適当なものがなかったので、別のところで投宿することになった。いきなり飛び込むのではなく、いちおう、前もって宿泊表の情報をもとに公衆電話から電話するのだ。予算は当然、一泊二食付で一万円以下、である。このときは七~八千円だったと思う。
 宿に着いた時間帯ではもう間違いなく夕方で、思川の駅が午後三時前くらいの感じだったから、やはりそれくらいになったわけで、当然もう腹も減っていた。案内された部屋は離れのような造りで、自転車を軒下に停めるのは気遣いもなくて良かったのだけれど、夕食がつかない、と聞いて、ええっ、と驚く。電話した時間も遅かったはずだし、宿泊表の記述が違っていたのであろう。よくよく考えれば無理もない。それじゃ近所に食堂でもありませんかと聞いたと思うが、少し先まで行けば弁当屋があるという。
 独り暮らしでほっかほっか弁当の類は食い飽きているのに、ええいしょうがないと、くうくう鳴いている腹をくくり、弁当屋のある一角に向えば、もう夕闇が迫り、家路を急ぐ人々が目の前を通り過ぎる。弁当屋の椅子で待ちながらそんな風景を見、部屋に戻ってともかく空腹だけは満たした。
 風呂を使い、汗を流して、面倒くさいが洗濯もする。コテージ貸し切りと同じだから、気楽で良かったが、北関東の四月上旬は日暮れればまだ寒い。夏のようにTシャツの使い回しというわけにもいかず、山シャツ風の機能素材シャツを乾かすのに苦労した。
 宿帳を書いているときだったか、自転車で旅行をしているような人間が珍しいのだろう、従業員と思しき中年女性が「学生さん?」と聞いてくるので苦笑する。違うよ、仕事してるんだよ、と説明するが、確かに四月の平日に自転車で泊まるような社会人はそうそうはいない。「奥さんはどうしてるの?」と聞かれたので、当時はもちろん独身だったが、「向こうは向こうで好きにやってるからいいんだよ」と言ってみたら、口があんぐり開いていた。
 旅館の近傍には、ろくに店もなく、それは私にとっては別段困ることでもなかったけれど、あまり散歩をする気にもなれず、おとなしく夜を過ごした。いつのまにか、茨城県に入っていたのであった。

「その4」につづく>

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白鳥和也/自転車文学研究室
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