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使う指の数と思考力 & 勝手にシンクロ二シティ

 今の時代、人は2本、下手すると1本ぐらいしか指を使わなくなったなあ、なんてことをふと考えました。スマホを使うようになってからの話ですね。
 もちろん実際は、例えばオフィス・ワークなどで指5本(×2)を使いキーボードを打つわけですが、生活では親指と人差し指の2本あれば、まあ暇つぶしはできるわけです(まあ、ゲームでは6本くらい普通に使います、という考えも浮かびますが、それはさて置きます)。

 何でそんなことを考えたかというと、土曜日に銀座でゴダールさんの最新作を見てきたからです。いわゆる熟練のファンというわけではなく、劇場に足を運ぶのは二回目です。他の作品はDVDやVHSで見たりしてました(それでも全作品ではありません)ゴダールさんの映画は、見終わってからいつも、先にパンフレットを買っておけば良かったな、と思います。売り切れるからではなく、映画に入り込むために、という意味です。

 ゴダールさんのような人はゴダールさんがいなくなったらもう出てこないだろう、というのはあちこちのの記事で目にしますが、その通りだろうな、と思います。今回の映画は様々な映画のコラージュでできているそうです。いくつかの章に分かれていますが、その中では例えばアラブ世界やロシアに焦点を合わせたものもあります。いわゆる、アメリカ型の視点とは違う形で。ゴダールさんのナレーションが延々と続きます。ゴダールさんの作品はいつも、いわゆる起承転結があるような、物語が引っ張っていく類いのものではなく、そうとわかっているつもりで劇場に行くのですが、それでも大抵いろいろと想像を超えたものがスクリーンに(そしてスピーカーに)表れます。音を絵に従属させないという試みは、普通の映画を求める人は「何だろう、これは?」と思うかもしれません。ゴダールさんが何かやると、それについて誰かしら語りたくなる、それがゴダールさんです。そんな彼の作品を見ると、毎回とても刺激を受けます。

 ものの見方が一辺倒になっているような世の中に対してメッセージを発している、とも取れますが、ゴダールさんは変わらず好きなことをやっているのだと思います。88歳にして、おそらく彼は彼の映画を作るのが本当に楽しいのではないでしょうか。映画はこういうものだ、音楽はこうでなければいけない、人はこうでなければいけない、そういった世間一般に対して「だから、何だ? 俺は作品を作っているんだからちょっと黙っててくれないか」と、もちろん言ったわけではないですが、僕の中のゴダール像はそんな感じです。いや、そんなことすら言わないか。でも禅のお坊さんとも違うし・・・(ちなみに、ゴダールさんはスマホを駆使しているとかいないとか)。
 
 同じ土曜日の夜。新・美の巨人になってから、いろいろとツイッターの話題を目にしますが、その日の奈良美智さんの「あおもり犬」の回は、奈良さんの生の声が聞けて本当に良かったです。僕の中で印象的だったのは、地方から出てきた者を都会の人間が差別をするようなことが、ドイツに行ったときにもあったが、あるときから気にせずに、それは彼らが持っていなくて自分(あるいは自分たち)が持っている豊かさなんだ、という受けとめ方をしたというお話をされたことです。それは、その日の昼間に見たゴダールの映画と結びつきましたし、ドイツから帰ってきてからの作品の変化の話を聞いて、本物のアーティストなんだなあ、と、とても感動しました。
 今、ちょうど熊野(古道)に興味があるのですが、自分の中で熊野と縁深い、踊り念仏の一遍上人のこととそれらが結びついたりして、とても個人的に盛り上がっています(何のことやら、と思われそうですがw)

 指の話に戻ると、こんなに世界全体が親指やら人差し指を酷使する時代はなかったわけですが、それ以前自分は何をやっていたかなあ? と考えますと、まあ、本を読んだりとかしていたのは変わらないし、文字を書くということは、高校の頃から比べると大分していませんね。あとは、昔も今も鍵盤を弾くので、まあ、使っているといえば使っているのですが。
 でも、五本の指、五感、五大陸などなど・・・、ゴダールさんの視点はかっこいいですね。自分も想像する勇気を心に持っていたい、と思ったのでした。
 
 本日ぼ楽曲ですが、今日鍵盤で即興演奏したものをアップしました。


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