【読み切り短編】追い出し絨毯
わり、香ばしい匂いに誘われ、石動十三(いするぎ じゅうぞう)は目を覚ました。
ダイニングテーブルの上には、こんがりときつね色をしたトースト、厚切りのベーコンとグリーンサラダ。それに、淹れたてのコーヒーが、二人分並んでいた。
「出来たよ、じゅうたん」
キッチンから、沙織の呼びかける声が聞こえた。十三は瞼をこすりながら、むくりと起き上がった。
「おはよう」
寝ぼけ眼の十三に、沙織は微笑む。十三はテーブルにつき、熱いコーヒーを一口すすった。
「じゅうたん、今日は大事な話しがあるの」
十三の正面に座り、沙織はいつになく真剣な表情を見せた。
とうとう、来たか。十三は心の中で呟く。二人が付き合い始めて、もう5年になる。付き合ってすぐに、同棲を始めていた。
「確かに、そろそろだよな」
十三は覚悟を決め、彼女の眼差しに向き合った。
「うん」
沙織は頷く。ここは男らしく、びしっと決めなきゃな。十三は口を開きかけた。
「そろそろ、出てって」
「へ?」
彼女からの思わぬ一言に、十三は頓狂な声を上げた。
「な、なんでだよ? 俺たち、うまくいってただろ?」
十三の言葉に、沙織は呆れた様に笑った。
「だって、じゅうたん……ニートだよね?」
十三は黙って頷く。
「歳いくつ?」
「58」
「もうすぐ還暦じゃん」
憐憫の籠った沙織の視線が、十三の芯に刺さる。
「還暦間近のヒモニートとか、私もう無理だから」
言われてみれば、正論だ。至極真当だ。しかし、十三は受け入れられなかった。いや、受け入れるわけにはいかなかった。
「待ってくれ、考え直してくれ」
十三の言葉に耳を貸さず、沙織は荷物をまとめ始める。まとめられているのは勿論、十三の荷物だ。
その荷物は、ほんの数秒の間に、小さな手提げかばんの中にすっぽりと納まった。
「え、それだけ持って放り出されるの?」
沙織は再び、にっこりと微笑んだ。
まずい、まずいまずい。十三は頭を抱えた。ここを出ていっても、十三には行く当てなどなかった。なんとか、しがみつかねば。
「はっきり言うぞ。俺はここを出ていったら、野垂れ死ぬ。理由は簡単、生活力が無いからだ!」
十三は開き直った。その姿に、沙織は唖然とした表情を浮かべる。
「そんなの、あたしに関係ないじゃん」
ごもっともだ。しかし、十三は引き下がるわけにはいかない。
「頼む、関係あってくれ。いや、関係なくても、ここに置いてくれ!」
電光石火の如く、十三はひざを折った。この世で一番、安い土下座だった。
「無理」
即答だ。一片の悩む余地さえ、そこにはなかった。絶望、その二文字が、十三の脳裏に点滅する。
「また、別の女の所に行けばいいじゃん」
今までの十三なら、沙織の言葉にあっけらかんと頷けただろう。
高校卒業以来、ヒモとして生きてきた。女の家を、転々として過ごす。それだけでここまで生きてこられたことは、ある種の才能と言っていい。
しかし、その才能も、老いに逆らうことはできなかった。
「こんな初老を、他の女が相手にしてくれるか? よーく、考えてみてくれ」
十三は沙織に懇願する。
「ほら、枯れ専女子とかいるじゃん。ナイスミドル的な、そういう人、案外モテるんじゃない?」
「無責任なこと言うなよ!」
十三は突如、烈火の如く怒りだした。
「これがナイスミドルに見えるか? ナイスミドルってのはな、社会経験豊富で、大人の余裕のあるやつのことを言うんだよ!」
無論、十三の社会経験はゼロだ。これまでの人生、十三は定職に就いたことなどない。ただの一度もだ。
「じゃあホームレスやりなよ」
沙織は冷たく言い放つ。その言葉に、十三は益々顔を赤くした。
「ホームレスってのはな、雨の日も、風の日も、外で寝泊まりすんだぞ! 俺に、そんな忍耐力は無い! ホームレス舐めるなよ!」
クズだ。十三は、惜しげもなく、その事を露呈した。
沙織は「はぁ」と、深いため息を吐く。
「出ていく気、無いんだね」
十三は、激しく首を縦に振った。
「じゃあいいよ。出ていかないなら、この部屋ごと燃やすから」
「えっ」
十三は目をむいた。沙織の手には、ジッポライターが握られていた。
「お、おい、落ち着けよ。早まるなって、な?」
十三は何とか宥めようと、頭をひねった。しかし、説得の言葉より先に、ボッという音が響く。
ジッポの先に、真っ赤な火が灯っていた。
「さよなら」
沙織はその火を、静かに下に落とした。十三は慌てて飛びつくが、無情にもその手をすり抜けていく。
あっという間に、カーペットに燃え広がった。
「熱っ」
十三は炎を避け、ごろごろと床を転がった。
「早く逃げた方がいいよ」
沙織はぼそりと呟く。
「何言ってんだ、一緒に逃げるぞ!」
十三が差し出した手を、沙織は払いのけた。
「私はいいの。もう、疲れちゃったんだよね。何もかも」
その瞳は、灰色の虚空を浮かべていた。逃げようと、生きようとする意志が、そこにはなかった。
「ち、ちくしょお」
十三は、一目散に玄関へと駈け出した。靴も履かず、何も持たず、外へと駈け出していった。沙織の事を、一人残して。
十三が出ていってすぐ、沙織は引出しから何かを取り出した。スプレー缶だ。
シューっと、白い煙のようなものを、カーペットに向かって吹きかける。
すると、燃え広がっていた炎は、嘘のように消えていった。残ったカーペットには、何故か焦げ跡の一つすら、付いていない。
沙織はスマホに手を伸ばし、電話を掛ける。
「もしもし、どうだった?」
電話口から、女性の声が聞こえた。40から50代くらいだろうか。
「彼、逃げていきました。私の事、置き去りにして」
「よかったじゃない、出ていってくれたなら。あなたなら、きっと新しい出会いがあるわ」
女性はほっとしたように、そう述べる。
「やっぱり、あなたの言う通りでした。あいつには、愛情なんてなかったんですね」
沙織はさめざめと、涙を流した。
「そうよ。どんなに優しい言葉で取り繕っても、クズはクズ」
女性の言葉に、沙織は首を振る。
「いえ、彼は取り繕おうとさえしなかった。それなのに、どこを好きになったのかな。私って、ほんとバカですよね」
「ううん、あるわよ、そういうこと。誰にだってある。ただほんの少し、ボタンを掛け違えただけなの」
彼女の言葉に、沙織は救われる思いだった。これで、前に進める。そんな晴れやかな気持ちが、湧き上がってきた。
完
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