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蟲戰【第一話】

月に旅立った人に恋をした。
この恋に名前はまだない。しかし名前をつけるとするなら、紋白蝶だろう。

興亜闘争こうあとうそう』。
海底火山の隆起により、小笠原近辺に出現した芥ラくしあ島を領土とする土地に、昆虫憲法を制定し、日本国からの分離独立を果たしたシュ永デ琳宮シュエーデリンク国があった。シュ永デ琳宮シュエーデリンク国は、成立当初からその地の利と科学力を活かし、昆虫を主軸とした産業を展開する独立国家となっていた。その彼方の日本において、旧態依然とした日本を駆逐し、新しい日本となる興亜ノ日帝国こうあのにっていこくを作った集団と、古き良き日本を守ろうとする勢力(旧日本)との間で生じた闘争を、こう人は呼ぶ。
「だるぅ……」
そう口にしたのは、メリメ・ピークウォードだった。金髪の、枝先のカールした髪を燻らして、「シュ永デ琳宮シュエーデリンクに類せよ、新しき人よ目覚めよ、人民にパンとフードバンクを」とスピーカーから発し続ける窓の向こうの凱旋車を尻目に、こう言った。
「なんて人間はつまらない奴なんだ。新しい日本も古い日本もくそもあるか。とりあえずは目下自分たちの生活の安定を望んでいるに過ぎない愚民どもであろうが。パンがないなら、虫を食べればいいんじゃ。虫を食べることが旧日本の思想であるとして、シュ永デ琳宮シュエーデリンクにいる新しく虫を食べる民の出現に対して、大正時代に確認されていた日本国の虫を食べる人間の存在はどうだというのだ。」
月面基地のある、豊饒の海に旅立った粉玉章一郎こなたましょういちろうのことを想うメリメ・ピークウォードは、月への交信を幾度となく試みていたが、未だに連絡が来たことはなかった。そのことも、彼女を苛立たせていた。
宇宙船の秒速の移動。その最中に形見分けに授かった青いペンダント。その中にある、紋白蝶の小さな卵を持ち帰り、春を待つメリメは、繊細な感情で持って卵を愛し、成虫になろうとするその幼虫を地球で育て、羽化を待っていたのである。
「章一郎が残していった、この紋白蝶たちが成虫になり、翼を生やして羽化する時、彼はきっと帰ってくるはず。」
口に蟻をかけたチーズを頬張りながら、味覚を刺激して食べつつ、たわしのような毛の生えた紋白蝶の幼虫に、キャベツを与えて、じっくりと、時間をかけて育成していた。
しかし、少し間をおくと、地球には寄生虫がそぞろめいていたので、忽ち青虫小繭蜂に刺されていった。そうして、ポリドナウイルスに感染した紋白蝶の青虫たちを見守るより他なかった。
「ああ、苦しい……。」昆虫言語翻訳機を通して、そう語る紋白蝶の幼虫たちを見ていて、メリメもあまりに辛くなってきたのだった。


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