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大人は「意義」で判断する、子どもは「楽しいかどうか」で判断する
落合陽一さんが好きです。とても尊敬している。
お会いしたことはないけど、記事や本、動画で拝見する彼の考え方と行動に畏敬の念を抱いている。動画を見すぎてしまって夜を明かすこともよくあるくらい。
先日何かの動画を見ていたら、落合さんが以下のようなことを話していた。
大人は「意義」に共感するとコンテンツも良いものとして受け入れる、小さな子どもは意義なんて関係なく、楽しいか楽しくないかだけで判断する。
大人もコンテンツを楽しさで判断はするが、その背景に「意義」(ストーリー、信念など)を見出すと、コンテンツを良いものと判断する。よくわかる。(全部が全部でないことはもちろんのこと)
一方で小さな子どもはそんなの関係なしに、そのコンテンツが楽しいか楽しくないかだけを感じ取る。アニメを作った人が、宮崎駿だろうがマシンだろうが僕だろうが、関係ないのだ(もちろん僕はアニメなんて逆立ちしても作れません)。
だから、何かを作った際には、小さな子どもに試してもらって、できを判断しているという。
すごく面白い話だなぁと思うと同時に、少し考えることがあった。
僕ら大人は、モノそのものの良さに加えて、モノにまつわる「意義」で良さを判断する。尊敬する人、ストーリー、信念、etc...。
「意義」を重視するあまり、モノそのものの良さが見えなくなってしまうのではないだろうか。
自分が好きなブランドのものをこよなく愛する。
尊敬する人が心から勧めてくれたものを感謝を持って使う。
すばらしいことだ。僕も先日「装い」についてこんなnoteを書いた。
好きな人が勧めてくれた、好きな人が作っている。好きな人のこだわりが表れているものを身の回りに置きたいんだなと。この延長に好きなブランドとかつくりとか、自分なりのこだわりが出てくるんだと思う。
僕は自分なりの「装い」に誇りを持っているが、一方で盲目的になってはダメなんだと思った。めちゃくちゃむずかしい。すげえ難しい。
(もちろん、すすめてもらった服は本当に良い服だと思っています。)
「意義」を重視するあまり、気づかぬうちに判断基準が他人に依存してしまうことが怖い。
あまり結論が出ないまま書いているのだが、たぶん様々な経験を重ねて自分の目を養っていくことが大事なんだと言いたい。自分なりの五感を研ぎ澄ましていく。他人が考えた「意義」を自分の言葉で伝えられる人になりたい。
「意義」も大切だしモノそのものを良さを判断する感性も持っていたい。少年の心を持ち続けていたい、ということなのかなぁ。
また考えてみます。
P.S.
今日こんなことをツイートしたけど、もしかしたら「意義」にとらわれずわからないものをわからない、と素直に感じたのかな。ちがうかもしれないけど。また考えてみます。
ありがとうございます。本を読むのに使わせていただきます。