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明確な未来と違和感、不明確な未来と納得感

自分の納得感が大事。何度も何度も自分に言い聞かすように書いてきた。

世界はすべて自分でできているし、自分の機嫌は自分でとった方が穏やかに過ごせる。

世の中で淡々と起こっている事象を、各個人のフォルターを通して処理し、脳内で「世界」と認識している。
そういう意味では、自分が認識する「世界」は、自分次第でいかようにもなると思っている。


自分の機嫌は自分でとるっていうのは、他人に依存しないでやること。

自分の判断軸(価値観、美意識、表現はなんでもいい)があって自己解決できる状態だと思ってる。

世界を偏らずにとらえ、自分の機嫌をとるためには、主観と客観の両方が大切だと思ってる。

自分のものさしをちゃんと持っておくためには、主観と同時に客観である必要もある。矛盾するかもしれないけど。自分のものさししか見えないと、世間との距離感がわからなくなってしまうんすよね。


人生を自分の足で歩くためには、納得感ある選択をとることが大事だと思う。自分の美意識に従った行動。

ただ、納得感ある選択の先にある未来はけっこう不明確であることも多い。本当にこの選択で大丈夫なのだろうか、将来幸せになるのだろうか。不安。

でも、それでいいと思っています。

「あ、それいいよね」という感覚、お互いの納得感をなんとなく共有でいるからできること。そういう組織体なら、未来像を描かなくても進んでいけるんだろうなと。歩きながら未来を描いていく。


変化の激しいこの時代に明確な未来像を描くことは難しく、自分の納得感を優先したい。逆に、明確な未来像が見える選択は他人の価値観によって作られた未来像なんだと思う。なんだろう、どこかに違和感を抱えたままその未来に向かって歩かされているような感覚。

親が勧めたから、周りがいいと言っているから、その方が安定するから。これまでの時代だったらそのままの未来に進むことができたかもしれないが、これからはわからないです。

社会や他人のためつまり他社貢献は意義あるものだと思う一方で、意義に囚われすぎると、本当に大切にしたいことが見えなくなるような怖さがある。

「意義」を重視するあまり、モノそのものの良さが見えなくなってしまうのではないだろうか。


他人が描いてくれた明確な未来への道はなんだか歩かされているような違和感があるし、自分が納得感を持って歩く先にある未来はすごくぼやっとしている。

ここ最近、大学生や若いエネルギーに触れることが多かったので、改めて内省してみた次第です。

ありがとうございます。本を読むのに使わせていただきます。