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哲学者と子どもは同じ?―『ソフィーの世界』を読んで

今回のブログは、ワカテメンバーの平岡裕資(@yusuke_hiraoka)によるブログ記事(2018年3月9日に公開、現在は非公開)を寄稿したものです。

筆者について

はじめに

哲学の話は好きだが、過去の哲学者が何を考えたのかはきちんと学んだことがないな…とふと思い、初心者用の哲学書を読んだ。今回はその本について少しだけ。

あらすじはこんな感じ。

物語は主人公ソフィーのもとに届いた一通の手紙から始まる。それは哲学者と名乗る正体不明の差出人だった。その哲学者はソフィーに問いかける。「あなたはだれ?」

哲学とは?

まず気になったところを引用しよう。

哲学の問いは、それほどいろいろと立てられるものでもありません。いちばん大切な二つの問いはもう立てました。ところがそれにたいして哲学の歴史が教えてくれる答えは、それこそさまざまです。だから、問いに答えようとするよりも問いを立てる、このほうが哲学に入っていきやすいのです。今でも、一人ひとりがこれらの問いに自分流の答えを見つけなければなりません。

哲学者たちは「自分は何者なのか」や「世界はどこからきたのか」などの問いをあげて、その答えを自分なりに見つけようとする。

しかし、答えを見つけるよりも問いをあげることのほうが大変だ。哲学の問いをあげることは想像以上に難しいからである。

なぜ難しいのか。それは「習慣」によって私たちは世界の不思議にいちいち驚かなくなってしまったからなのだ。

哲学者と子どもは大切なところで同じ

子どもにとって世界は不思議で溢れかえっている。坂道を転がって行く黄色の球体、空に浮かぶ白い物体などはまだ世界に慣れきっていない子どもにとって理解しがたいものだ。

しかし、大人はどうだろう。私たちは黄色い物体がテニスボールであること、それが重力によって地面を転がることを知っている。空に浮かんでいるのは雲でそれは水の粒のかたまりであることを知っている。

しかし、なぜ重力や雲は存在するのかを説明することはできるか?

ニュートンはすべての物体は引っ張りあうという「万有引力の法則」を説いたが、なぜその力が働いているのかは明らかにしていない。

本書で挙げられた例を紹介しよう。

二つか三つのトーマスが、キッチンで朝食を食べている。ママが立ち上がり、流し台のほうに行く。すると、突然パパが天井近くまでふわっと浮かびあがる。トーマスはなんて言ったと思う?たぶんパパを指さして、「パパが飛んでいる!」と言うでしょう。もちろん、トーマスはびっくりだけど、どうせトーマスはいつもびっくりしています。パパはいろいろおかしなことをするから、ちょっとばかり朝食のテーブルの上を飛ぶなんて、トーマスの目にはべつにたいしたことには映らない。パパは毎日へんてこな機械で髭をそるし、しょっちゅう屋根に登って、テレビのアンテナをありこちひん曲げる。かと思うと、自動車に首をつっこんで、鴉みたいに真っ黒になって出てくる。さて、こんどはママの番です。ママはトーマスの声に何気なくふり返る。ソフィーは、キッチンのテーブルの上を飛びまわるパパを見て、ママがどう反応すると思う?ママの手からジャムのガラスビンが落ち、ママはビックリ仰天してけたたましく叫びます。パパが椅子に戻ったあと、ひょっとしたらママは医者にみてもらわなくちゃならないかもしれない。

なぜトーマスとママの反応はこれほどまで違うのか。

それは「習慣」が関係している。

パパが空を飛ぶことなんて、トーマスにとっては世界が見せてくれる不思議の一つに過ぎない。だから、いつものように驚いた顔をするだろう。しかし、ママは人が空を飛ばない、ということに慣れっこだった。「習慣的に」重力に逆らって人が空を飛べないことを知っていたのだ。

さて、哲学はトーマスとママとどちらに向いているだろうか?

哲学は問いをあげることが重要であると言ったが、両者のどちらが問いをあげやすいのかは一目瞭然である。習慣的に知っているつもりの「大人たち」はわざわざ問いをあげることなどしない。

哲学者も世界の不思議に目をむける。慣れっこになることなどできやしない。なぜならば、世界は不思議に満ち溢れているからだ。私たちはなぜ存在して、どこからやってきたのか。この世界はどのようにして生まれたのか。これらの問いに対して偉大な哲学者たちは自分なりの「答え」を見つけきたが、どれが正しくて間違っているのかなど、誰がわかるだろうか。わかったとしてもそれはその人なりの「答え」でしかない。

つまり、哲学者は子どもと同じである、ということだ。わざわざ驚くトーマスのように、哲学者も世界に驚き、そして問いをあげ、考える。

本書ではこの「大人たち」と「哲学者たち」をウサギの毛の中でうごめく蚤に例えている。このウサギは手品用のウサギで、手品師は二枚の白いスカーフをウサギに変えてみせた。手品師は世界(ウサギ)を生み出した「何か(哲学や宗教ではよく「神」と呼ばれる)」でウサギは世界である。そのウサギの毛の中で「大人たち」は居心地が良いのか、どのように手品師はウサギを取り出したのか、手品師とは何者なのか、に目を向けようとはしない。一方で哲学者たちは手品の全貌をこの目で見ようと毛を一所懸命にのぼって抜け出そうとするのだ。

あなたはどちらの蚤になりたいだろうか?

参考文献紹介

物語テイストになっており、とても読みやすかったので、興味があるけれど食わず嫌いなんて人にオススメです。自分の子どもにも、この本を読んでほしいなあ。

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