見出し画像

人材か人財かの微妙な議論、あえて乗るなら「人在」が好き。

若新(わかしん)と申します。このたび、日経COMEMOのnoteコラムを書かせていただくことになりました。まずは月に1本。遅筆で〆切をまもれない自分への新しい日課(月課?)を楽しみたいと思います(大げさ)。

基本的には日経新聞(電子版)の記事を参照しながら自由に意見してみてね、ということなのですが、今回は、これがちょっと気になりました。

人材じゃなくて人財だ、みたいな話は、僕が大学生のころからありました。だけど、はたらく人々のことを財産のように大切にしよう、というようなちょっと誤解された社員ファーストな目線で「材から財へ」が語られていることが多くて、微妙な感じがしていました。この日経の記事は、そのあたりは誤解なく書かれていると思います。つまり、あくまで会社ファーストな経営者目線で、いかに社員というものを企業価値につなげるか、というおはなしです。

人材か人財か、というのは、会社が人をリソース(資材)として扱うかキャピタル(資本)として扱うか、という議論かと思います。

「リソース」としての人材は、水や燃料みたいなもので、使ったらそれだけ減るもの。会社は、雇用契約によって、月額いくらでその人のことを何時間使うことができますよ、となっていて、限りがあるから、上手に使わないといけない。はたらく人々は肉体と時間をちゃんと約束どおりに提供しているんだから、あとは会社次第だよね、ということにもなります。お家の水や電気も、契約どおりに開通していれば、それがちゃんと役立つかどうかは住人次第です(蛇口をしめ忘れて水がムダになっても、水道局はそんなの知らない)。

一方で、「キャピタル」として語られる人財は、会社の株のように、今後の業績次第でどんどん価値が上がるかもしれない(もちろん下がるかもしれない)、というようなもの。記事の中にも出てくる「人的資本」という考え方で、つまり、社員の肉体や時間をただ契約どおりに使うだけじゃなくて、研修やキャリア開発に力をいれ、本人の能力ややる気をのばすことで、将来的な価値が上がることを期待して投資していこう、というものです。

会社に、キミのことをただ「材」として使うんじゃなくて、「財」として長期的に投資するんだ、なんていわれたら、たしかにちょっと嬉しいかもしれません。だけどそれはべつに、キミのことを大切にするよ、なんてことではなく、あくまで、どっちのほうが会社にとって価値があるか(ないか)というはなしです。

引用した記事の中では、人材というリソースにかかるコスト(給料)の賃上げよりも、「数年後に価値を生む」可能性のあるものとして「人財に投資する」という視点が重要だ、というようなことが書かれています。そして、そのために「長期的な人の価値」をきちんと見える化していくことが、株価などの企業価値にもつながっていきますよ、というようなことも述べられています。会社目線でいえば、まぁきっとそうなんでしょう。だけど僕は、社員目線で考えたときに、はたらく一人ひとりがどのような人生のあり方を望むのか、という視点も必要で、そこから会社の都合とうまく折り合わせていくことが大切だと思うんです。

人生における「はたらく」ことの比重は人それぞれですよね。生活するお金や社会での役割は必要だから、会社と約束した「材」としての分はきっちり仕事しますよ、というのも立派な社員の姿だと思います。むしろ、「財」として投資される、なんて、めんどくさく感じる人もいるでしょう。なんか見下されてる感じもします。はたらくことが得意か、楽しいかも人それぞれだし、持って生まれた能力や個性、運なんかも大きく影響しているでしょう。むしろ、材だろうが財だろうが、会社にとってキミの価値はどんなもんか、などと問われたとたん、「はたらく」ことが窮屈になっていきそうです。

もっと軽やかに、前向きに、はたらくことや「社員」という立場をとらえて人生を楽しむことはできないものか。そんなときに思い出すのが、人材、人財のほかに「人在」や「人罪」もあるよね、というはなしです。検索すればいっぱい出てきますが、「人在」はただ会社にいるだけの(無価値な)人のこと、「人罪」はいるだけで会社に損害をあたえるような人、という意味で使われているようです。だけど僕は、会社目線での「はたらく人の価値」がどうのというようなはなしに、さらに変な誤解の入り混じったこの微妙な議論にあえて乗るなら、人材でも人財でもなく、「人在」というとらえ方がいちばん心地よくて、好きです。

そもそも、「人の価値」なんてものを、もし仮に考えるのであれば、範囲を限定して注意深く扱うべきだと思うんです。今回のはなしでいえば、人材だろうが人財だろうが、会社や仕事の中のはなしにすぎないよね、ということを忘れちゃいけない。そもそも、労働市場での僕たちの価値がどれくらいか、なんてことと、人間一人ひとりがもつ尊厳や根源的な価値についてのはなしは、本来なら、ちゃんと切り分けるべきでしょう。だけど、みんな会社のポジションや肩書き、年収なんかが大好きで、すぐに混合させてしまう。そして、はたらくことが重たくなる。苦しくなる。もちろん、会社には社員の「価値」なるものを可視化したい都合があるわけだけど、それはそれ。自分の人生とは適度な距離をたもちながら、もっと軽やかに付き合っていけばいいじゃないでしょうか。自分の価値なんて、自分の思い込み基準で好き勝手に決めさせてほしいものです。

だからといって、ただいい加減にはたらけばいい、ということでもないと思います。仕事内容や評価なんて、人との出会いやいろんなめぐり合わせで変わったりするものです。自分の能力だけじゃなく、関わる人たちの感情などが複雑に絡み合って、今の自分があいまいに成り立っているわけです。だから堂々と、「人在としてただそこにいる」という姿勢をたもちながら、来た球は全力で打つ! というのも悪くないんじゃないでしょうか。それくらいの距離感で、与えられた役割や責任をしっかり味わい、職場での出会いや出来事を自分なりに楽しむことができれば、人生における「はたらく」ということがもっと、もっと…、もっと? あれ、なんだろう…。

すみません。なんだか書いているうちに、だいぶ大げさになってきてしまいました。これ、無理してカッコよく締めようとすると、自分が迷子になってしまいそうですね。このへんにしておきたいと思います。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?