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イギリス大学院留学を決めた理由①

今回は、私がなぜ会社を辞めてまで大学院留学の夢を叶えたか についてお話させていただきます。

留学前、自分の決断に自信が持てなかったとき、このような記事をいくつも読みました。そして勇気づけられました。留学したくてもできない人、迷っている人、様々だと思いますが(特にこのコロナが問題となっている今は)、少しでも誰かの決断の助けになればいいなと思います。


高校生の頃まで遡ります。
和歌山の公立進学校に通っていた私は、高校三年生の進路選択の時、”英語が学べる学部”に入ることを決めました。
理由はすごく単純で、ただの好奇心です。海外に無縁の両親のもとで育ったため、留学はもちろん海外旅行にさえ行ったことがありませんでした。飛行機は東京へ旅行に行くための乗り物だし、英語は学校で習う科目の一つ。特に洋画が好き、洋楽が好き、というわけでもありません。父がビートルズをたまに聴いていたくらい。
高校では吹奏楽に命をかけていたので、短期海外派遣プログラム など、今思えば海外渡航のチャンスは自分で作ろうと思えば作れていたのに、まったく参加しようとは思いませんでした。休みの日は学校で一日中楽器を吹いていました。

しかし、海外や、外国人への興味は、昔から自然とあったように思います。
両親が買ってくれた「世界がもし100人の村だったら」を初めて読んだときの衝撃は、今でも覚えています。おそらく小学校低学年だったと思いますが、当時の私はなぜ世界にこれほどの不平等があるのか純粋に理解できませんでした。しかし、自分は非常に恵まれた環境のもとに生まれてきたのだということは理解できました。母に、なぜ私たちが持っているお金の半分を全くお金のない人にあげないのか、聞いた記憶があります。(今思えば難しいこと聞きましたよね。今の私は答えられません・・・)
小学校の頃は、友達とたくさん遊ぶ、ごく普通の小学生でした。でも、実は友達と遊ぶ500倍、家でハリーポッターを読むほうが好きでした。(友達と遊ぶこと=楽しいこと、と思わないといけないのかな、と当時なんとなく感じていたように思います。自分の正直な気持ちに気づいていたら、人付き合いしてなかったでしょうね。。。笑)翻訳家になれたら幸せだろうな~となんとなく思っていました。
中学校に入って、ニュージーランド人の女の子と2ヵ月間ほどクラスメイトになりました。誰も話かけていなかったので、私の変な正義感が発動し(このわたし基準の勝手な正義感はよく発動します。。。良くも悪くも。笑)、彼女と友達になることに決めました。もちろん、純粋に外国人の友達ができることがうれしかったというのもあります。

このように、少しずつ、少しずつ、海外への興味、関心、憧れが膨らみ、大学で英語を学ぶことを決めました。そして、海外留学をしたいと強く思うようになりました。(この進路選択、実は失敗したなと感じることが多々あります。それについては後程記事にまとめたいと思います。)

そして、センター試験を受けた結果、目標には届きませんでした。
しかし、幸いにも、すべり止めで受けていた私立の外国語学部に合格しました。公立高校に比べて非常に高い学費を支払うことにも、両親は何の文句もなく承諾してくれました。

こうして、私は念願の、大学で英語を学べる学部に入学しました。
そしてなんと、ラッキーなことに、この大学の外国語学部生は、二年生の時に留学が必須なのです。すなわち、交換留学とかだと枠が限られてくる中、この大学の外国語学部に入れば必ずどこかには留学できるのです!

しかし、後にこの経験が私の大学院留学の、決め手の一つとなりました。

まだ開設されて間もない学部だったため、生徒数に対しての提携校数があまりに少なすぎました。結果、40人の日本人学生(しかも同じ学部なので仲良しの友達)とともにアメリカで9ヵ月間、英語を学びました。しかも、ホームステイが禁止されていたので、みんなで同じ寮暮らし。

結果は、、、、楽しかったです。ただひたすら、楽しかったです。気の知れる友達との海外9ヵ月間、親もいない、すべてが新鮮。楽しくないわけありません。しかし、どのクラスに行っても、どのパーティーに行っても、誰と遊んでも必ずいるのです。日本人が。(笑) 語学力、、、、努力はしましたが、自分の期待値よりははるかに低い結果に終わりました。9ヵ月も行けば、脳で考えなくても英語がスラスラ出てくるレベルになるかと思っていました。(これは私の期待のしすぎです)でも、思った結果ではないのです。期待していた留学ではないのです。後半は、日本人を避けるように生活していましたが、それでも、どこに行っても少なからず日本人はおり、外国人の友達が思ったよりはできず(日本語を学びたいアメリカ人かほかの国からの留学生が大半です)、英語もうまく伸びず、悩みました。無駄にカフェやスーパーに一人で行って店員と話す一言に集中する生活が続きました。

帰国してみると、やはり話せる子は話せ、話せない子は話せません。
自分で自分を認められず、楽しくなくはないのですが、悶々とした日々が続きました。そして、やはり一人で、自分の力で、一から誰にも頼らず、海外で生活したいという思いが捨てきれませんでした。

大学三年生になり、就職活動が始まりました。海外に行きたい思いは消えません。卒業後に就職せずワーキングホリデーに行こうと思い、母に相談しました。優しく反対されました。とりあえず就職してみては、と何度も言われました。私の、今にも崩れそうな小さな、今思えばつまらない、そんなプライドを見透かされたような気分でした。就職活動も思ったように内定をもらえておらず、自分が価値がない人間のように思え、でもプライドもあり、いつか私の価値を見つけてくれる会社に出会えるだろう、そんなことを思っていた時期でした。

結局、私は大阪の日用品メーカーに就職することに決めました。
この選択は、本当に良かったと思っています。
社会人として、自分で働いてお金を稼いだことで、今まで見えていなかったものが見えるようになりました。落ち着いて物事を考えることができるようになりました。


長くなりましたが、一つ目の理由は以上です。
長年夢見た海外で、自分だけの力で頑張りたい。夢見ていた、いろんな国籍の人と交じり合えるような留学生活を送りたい。
この思いが、大学の語学留学では消化できなかったからです。

(次の記事に続く)

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