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「執着」と「あきらめず努力すること」の違いについて考えてみた

何かに取り組んでいると、平坦な道ばかりではなく、時には逆境が立ちはだかったり、うまく行かない時期が長く続くことがあります。

それでも続けていくことが、もしも「執着」によるものだったら、きっと誰も幸せにならないですよね。

サッサとあきらめて、次の道に進んだ方が良いこともあります。

でも、やっている本人は、自分の行動が「執着」なのか「粘り強い努力」なのか、気付きにくいかも知れません。

この両者の違いについて、考えてみました。

執着とは

不安・不満・恐れなどの、自分の本当の気持ちと向き合うのが怖くて覆い隠すために続けることを「執着」というのかな、というのが私の考えです。

たとえば、
本心では辞めたいと思っているコミュニティがあって、でも辞めたときにそこのメンバーとの人間関係が壊れるんじゃないかと不安で、頑張って居続けている状態は、もはや執着なのかなと。

もうこの起業塾ではいくら頑張っても成果が出ないと分かっているけど、大金を支払っちゃったから辞められない、とか。
数年前の私です(笑)

お金が絡むと執着になりやすいかも知れません。

粘り強い努力とは

執着との違いは、自分の中に不安・不満・恐れなどのネガティブな感情があると受け入れつつも、今は苦しい時であると、自分の状態を客観的に理解した上で、逃げだしたり投げ出したりすることなく、続けている状態なのではないかと思います。

ネガティブな感情と向き合うのは辛い事ですが、受け入れることから本当の意味で取り組みが始まると思うんです。

起業塾で執着した私

高い金額を支払ったから。
それもあったけど、私が起業塾でがんばり続けることに執着したのは、自分の実力不足と向き合うのが怖かったからです。

当時はそれがわかりませんでした。

覆い隠していた当時の本心は、こんな感じです。

今の自分には、起業なんて無理だ。
コンテンツを創るほどの実力も無いし、誰かのサポートをする覚悟もない。

まるで起業家としてダメな自分と向き合うのが怖かった。
だから向き合うことなく「ただ」やっていた。

あるのは「できるはず」という執着心と、本心覆い隠して自分に嘘をついているというザワザワした気持ちだけ。
だから、まったくうまく行きませんでした。

本当にお恥ずかしい限りの過去の私です。

今ここから始まる

どんな自分であろうと、それが自分。
受け容れることによって、何が不足しているのか、何が要らないのかが見えてくるものです。

痛みは伴うけれど、そこから始まるのだから、前向きなことです。

何かに取り組んでいる中で、歯を食いしばって頑張る自分に気付いたら

この行動、執着になっていないか?
何かを覆い隠すためにやってないか?

常に振り返ることを心掛けています。
(でも時々、執着寄りになってしまうんですけどね…汗)




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