臨場猫はきょうも刑事にお供する 第2話 美しき死体 #1

 職業柄、いろんな人のお宅を訪問している。
 自宅っていうのは、ある種ステータス。
 仕事で忙殺されて片付けが行き届いていないといったって、人がうらやむ要素がそこかしこにあるもんだ。
 このマンションは外観だけでもおしゃれ。二十代でこれくらいのところに住めるのだから、充分に成功者といえるだろう。

 玄関に入った途端、居住者の残り香のような品のいい淡い香りが鼻腔をくすぐった。
 彼女だったらこんな香水付けていそうだと想像力を掻き立てられた。
 だがそれも、鑑識と描かれたジャンパーを着込んだ、むさ苦しい男たちのタバコのにおいにかき消されていく。

 廊下を突っ切ってリビングへ入ると、正面の壁に写真が掛けられているのが目にとまった。
 いくつもの小さな額縁を合わせたようなフォトフレームで、ものがあまり置かれていない部屋だけに存在感がある。
 ほとんどがプライベートなスナップのようだが、写っている女性たち皆がかわいらしく、ポージングが手慣れすぎていて、ドラマの撮影現場にある小道具のようだった。

 それもそのはず。写真の中心にいる彼女はわたしでも知っていた。
 先月ついに「ヴィヴィット」という雑誌のモデルを卒業したと聞いた。
 いわれてみれば、周りにいる弾けんばかりの初々しい女の子たちからは、一歩後退しているようにも見える。
 学生時分は彼女のメイクやファッションなどを研究したものだが、今はそんな雑誌を見る心の余裕もなければ、着飾るシチュエーションもない。

 今どきのバカンスはどんな装いがかっこいいのだろうと、しげしげと見ていたら「小柳くん」と名前を呼ばれた。
「はい!」
 振り返ると飴智警部補が写真を凝視していた。
 今日のネクタイは空色と群青色の細かなストライプ。
 喉仏のラインが黄金比かってくらい美しい。髭のそり残しなんて全然なくて、これがアラフォー刑事かと疑うほど清潔感あふれて神々しい。
 あんまりにも近すぎて、心臓が跳ね上がったのを悟られそうだった。

「なにか気にかかることでも?」
「い、いえ。みなさん、きれいだから……」
「夕月朱莉《ゆうづきあかり》さんもこの中に?」
「はい」

 わたしはフォトフレームの中央にあるバストアップを指さした。
 ウェーブのかかったふんわりとした髪をさらにくしゃっとさせて、ラフな空気感で小首をかしげ、クールな視線を投げかけていた。
 きっと、彼女のお気に入りの写真だ。

「なるほど。きれいだね」
 飴智警部補の率直な言葉に、嫉妬心がくすぶりかけて胸を押さえる。
 自分にかけられた言葉だと脳内変換するほどお花畑じゃないが、一般的な感想だと受け流した。

 夕月朱莉、29歳。高校生時代に読者モデルを始め、大学生になると同時に「ヴィヴィット」の専属モデルとなり、何度も表紙を飾った。
 化粧品や健康食品など美容関係のCMにも起用されている。
 ファッションブランドも立ち上げてなかったと思うし、テレビ番組でもほとんど見かけないが、臆することなく職業はモデル、といえるほどには売れていたであろう。

 その彼女が、今朝、自宅で死亡しているのが発見された。
 直筆と思われる遺書らしきものも見つかり、自殺と思われるような状況でもあったが、あまり例を見ない場所で亡くなっていた。
 なので、わたしと飴智警部補は現場へとやってきたのだった。

 ぐるりと部屋を見渡す。
 テレビ台さえなく、大きなテレビが壁際に浮いていた。
 壁に釘を打って掛けているのだろうか。
 アパートを出て行くときのことを考えれば、自分にはこんな設置の仕方はできない。

 テレビの前には毛足の長いラグと椅子のように大きなクッションが1つ置いてあるだけ。リモコンさえない。
 今流行りのスマートなんとかってやつだろうか。
「ヘイ、アネッサ、テレビを付けて」とかなんとか。あれ? 「オッケー、クックルー」だったけ?
 どっちにしたって、壁の薄い安アパートでひとり大声を張り上げたら、テレビより隣人が反応しそうだ。

 一方、左手にはダイニングテーブルと二脚の椅子。ここだけがこの断捨離という言葉がハマる部屋に似つかわしくない、異次元空間と化していた。
 テーブルの上だけが騒然としている。
 ただ、1つ1つをよく見れば、この部屋の主にふさわしいものばかりだ。
 パプリカとニンジンを細長く切って瓶に詰め込んだピクルス。それよりは少し小さめの瓶には、色とりどりのドライフルーツを漬け込んだヨーグルトが入っている。
 こちらのタッパーには作り置きした五穀米。ゆで汁に浸かっている鶏胸肉。パックに入ったままのベビーリーフ。
 炭酸水が数本。

 そして、その脇に足を組んだ猫が愛らしくちょこんと腰掛け、佃煮海苔の瓶を愛でるように撫で――
 って、エセネコじゃないか。
 しばらく見ないと思ったら、ちゃっかり事件現場に急行している。

 思わずのけぞりそうになったら、エセネコはニンマリと小さな歯を覗かせた。
 右手を突き出してピースサインでも送っているつもりなのだろうが、やはり招き猫にしか見えない。それも、わたしにしか見えない幽霊猫だ。

 突如として現れた幽霊猫は、自分の前世は怪盗八面六臂だと語った。
 怪盗八面六臂は出所後、交通事故でなくなったという情報もある。
 悪党が外道に落ちてさらに成仏し損なったのだろうと見立てていたら、今度は怪盗八面六臂が飴智警部補になりすましているというのだった。
 つまらん戯言と思いながらも、気にかかっていた。憧れの刑事に疑念の目を向けるなんてつらすぎて、一向に真実が見えてこなかった。

「よぉ。飴智の化けの皮は、剥げたか?」
 自分にしか見えない幽霊猫に、うっかり返事などできない。
 化けの皮をかぶっているのはお前だと、念じてみたが伝わっていないらしい。憎らしいニヤケ顔を眉間にしわ寄せて睨んでいたら、飴智警部補がいぶかしげに「どうかしたか?」と尋ねたてきた。「いえ、考え事を」
「なにを考えていたのかな」
「そのぉ……これです」

 わたしはテーブルの上の、見ようによっては撮影するために用意したかのような完璧な品々をさした。
「これだけ仕込んで自殺することがあるでしょうか」
「そうだね。ただ、自殺する人は元々情緒が不安定だから、急に思い立って今しかないと思い込むことはあるのかもしれない」
「うむ。断定はできないがその可能性はある」
 エセネコは腕組みをして飴智警部補の口癖をまねた。合いの手にイラッとする。

「だが、これ……」
 飴智警部補が言いよどんで指さす方向を見てぎょっとする。
「ひょっとして、飴智警部補も……」
 その先にいるのはエセネコだ。飴智警部補も幽霊猫が見えているのか! 自分なんかより、因縁を考えたら飴智警部補こそ幽霊猫が見えていてもおかしくはない。

 飴智警部補が納得したようにいう。
「ああ、やっぱりか。その、佃煮海苔」
「え?」
「その佃煮海苔だけ、ちょっと浮いてるよね」
 わたしは佃煮海苔の入った瓶を凝視した。
 浮いている?
 角度を変えて真横から眺めてみても浮いてはいない。
 浮いているとしたら、エセネコである。エセネコと目が合って、バカだなぁといわんばかりに言い放った。
「異分子という意味だよ。これだけちょっとこの持ち主のセンスから外れている」
「確かに……」
 つい相づちを打ってしまい、しまったと思ったが、飴智警部補との会話も成立していることに気づく。

「確かに、ご飯がすすむ佃煮海苔を好んでいるなんて、カロリー制限に苦慮しているモデルとしては常備しておきたくはないですね。海苔は美容によいのでしょうか」
「それは小柳くんのほうが詳しいのでは?」
「わたしには美容とは無縁ですので」
「だろうね」とはエセネコの言葉だ。

 悔しいが言い返す言葉もない。丼物かそばをかき込む毎日。
 フォトジェニックなランチを飴智警部補とご一緒するどころか、自分をこぎれいにすることすらままならない。
 憧れの人を目の前に、もう少しうつつを抜かしてみたいものである。

「あ、来た来た。飴智さん、これ」
 後ろから声が聞こえて振り返れば鑑識の桑田さんだった。
 飴智警部補とそう年は変わらないだろうが、ピンセットを持って細かい作業をするより、ビールジョッキ片手に宴会部長をやったほうが似合いそうなおじさんだ。
 丸っこい指でビニールに入った紙切れをつまんでこちらによこした。

「キッチンカウンターの上に置かれていたそうだ」
 視線をそちらへ向けると、今は水が半分だけ入ったグラスが置かれてあるだけだった。
 受け取って飴智警部補に渡すと、一読してわたしに回してくれた。
 A4くらいの無地の紙に、筆ペンか何かで文字が丁寧に書かれていた。

『花は盛りに、月は隈なきを
命長ければ辱多し
長くとも四十足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ
夕月朱莉』

 名前のあとには判読不明なマークがあるが、これは彼女が普段ファンにねだられたときに書いているサインかもしれない。
 これを夕月朱莉自身が書き、しかも遺書と断定するのは早計だが、モデルが生業ならこの文章の意味するところがなんとなくわかる。
 とはいっても、彼女はまだアラサーだけど。

「徒然草か」飴智警部補がいうと、桑田さんはお手上げのポーズで「俺の管轄じゃないな」と答えた。
「教科書に載ってるくらい有名だから、まだ若い小柳くんの方が良く知ってるかな?」
「いえ、それほどでは……」
 聞いたことのあるような文言だとは思ったが、古典からの引用だったか。

「一節目と次の二行はそれぞれ違う段に書かれている文章だね」
「え、ええ……」
 知ってるふりしてとりあえずうなずく。

 飴智警部補は紙を覗き込んで最初の一文を指した。
「この文には続きがあって、『花は盛りに、月は隈なきをのみ見るのもかは』となっているよね。花は満開時、月は雲も霞もかかっていない、果たしてそれだけが見頃だろうかと、つぼみのころでも雨が降る日でも思いをはせることができると情緒的に書かれている」
 へぇと感心しながら、知ってるふりして再びうなずく。

「あとの二行はまた別の段からの引用で、ようするに老害と言われぬうちに隠居しろというようなことをいってるから、本当は逆なことを綴っている。でもあえてその2つを同列に並べているというのは――?」
 飴智警部補はこちらを見てその先に続く考察をうながした。

「彼女は29歳で、モデルとして花の盛りを過ぎたといっていいのかは雑誌やCMの対象によっても違うのでしょうけど、先月、長年勤めていた雑誌の専属モデルを卒業しました」
「卒業、か。ものはいいようだニャア」
 エセネコがのほほんと口を挟むが、いわれてみれば、いつのころからか円満に辞めることを強調する文言として使われている。

「そうか。辞めたのか。やはり知見を広げるためには若い女性捜査員もいてくれないとね」
 飴智警部補からは柔和な表情を向けられて「いえ……」なんてしおらしく答えてしまう。
 先日、偶然ネットニュースで彼女の写真を見かけ、時の流れをしんみり感じていただけだった。

「辞めることが自らの意志であったかはまだわかりませんが、この文面はモデル業はもう潮時という意味かもしれません」
「うむ。命を絶つのは行き過ぎと我々は思うが、遺書との見立てもできるね」

 飴智警部補は含みのある言い方で文面をじっと見ていた。
 わかりやすい意思表示を残してくれればいいのだけど、死に方から遺書まで彼女なりの美学といえばそうなのだろうが、事件性を疑わねばならない方法は避けてほしいものだ。

 ふと見ると、飴智警部補に忍び寄る桑田さんはなにかを企んでいそうな悪い目で、後ろに隠し持っていた証拠品を差し出した。
「とどめだよ」
 ビニール袋に入れられていたのは薬局の名前が書いてある紙袋と使いかけの錠剤だった。
「これは?」
 飴智警部補が受け取る。
「その紙切れと一緒に置かれてあった」

 袋の氏名欄には夕月朱莉の名前が印字されてあって、間違いなく彼女のために処方された薬だった。
 これ見よがしに置いてあったのならば、事件性があったとしても不審なことはここからは見つからないだろう。桑田さんは続けた。

「きっと不眠症だったんだろうね。ごく普通に処方される催眠導入剤で、効果のピークは1時間未満。まぁ、だいたい1時間も経たないうちに眠気が差すってことだな。作用時間は2~4時間程度。これを服用して眠るように亡くなったんだろうね」

 飴智警部補は残った錠剤の数を数えていた。
「処方された日から換算したら、きちんと処方された通りに服用していたようだね」
「一気に飲んでも死ねないことぐらいは知っていたでしょう」
 ふたりがうなずきあっているので、わたしも負けじと輪に入ってうなずくが、桑田さんは意外なことを口にした。
「まぁ、嘘くせぇよな」
 飴智警部補の方をうかがえば、異論はなさそうにうなずき返している。
 やはり事件性があると疑っているのだろう。
 睡眠薬を常用しているのなら、本人自らの意志で服用し、眠りについてから第三者が犯行に及ぶのはたやすいし、睡眠薬が体内から検出されてもそれ自体は疑われない。

「ご遺体は?」
「こっちだ」
 ふたりはカウンターキッチンの向こうへと歩みを進めた。
「新米警官の出番はないようだな」
 エセネコが一足早くついていく。
 わたしはというと、一呼吸置いて冷蔵庫の前へ向かった。この対面は、なかなか慣れることができない。

 広々としたキッチンは整頓されていて、レンジもシンクも磨き上げられていた。
 奥に置かれた冷蔵庫はひとり暮らしにしては大きめだった。
 うちの実家の冷蔵庫よりも大きい。
 もっとも、キッチンの大きさと内装に調和したサイズ感ではあるけれども。
 鏡面仕上げのドアは高級感があるが、がっかりするほど鑑識が指紋採取のための粉をふりまいており、周辺の床まで汚していた。

 夕月朱莉はその冷蔵庫の中で亡くなっていたのだった。
 第一発見者が冷蔵庫から引きずり出してタオルケットで包んであげたようだ。
 夕月朱莉は床の上で胎児のように丸まり、美しい姿のまま息絶えていた。
 透き通るような白い肌だが、まだ血が通っているのではないかと錯覚するほど血色がよく見える。

「全裸で冷蔵庫の中に入っていたらしい」
 桑田さんが説明している。
「目立った損傷はないね。全裸のまま無理矢理押し込められたらアザぐらいはできそうだから、脅されたか、眠っているときか、それともやっぱり自ら入ったのか」

 いくら細身といっても冷蔵庫に身を収めるには難儀なことだ。冷蔵庫の中身を取り出してきちんとテーブルに並べ、仕切りも外しているのだから、やはり第三者が関わっていたとしても、目覚めているときに争って無理矢理押し込められたのではないだろう。

 飴智警部補はかがんで遺体にふれた。
「証言どおり冷蔵庫の中に?」
「この外気温にずっと放置していたとしたら、冷たすぎるね」
「死因は?」
「どうかな。冷蔵庫の中で死んだとするなら低体温症か、窒息か」
「冷蔵庫は密封性が高いからね。部屋を密閉して七輪で炭に火を付けるよりは簡単と考えたのかな」
「まぁ、冷蔵庫内で死んでいたなんて、事故で閉じ込められた話ししか聞かないけどね。冷蔵庫内で死亡したのか、死亡後に入れられたのか。後者なら冷蔵庫に入れられていた意味を考えると、殺害時刻を隠蔽しようと考えたのか」

「あるいは――」
 わたしも思いついたことを言い添えた。
「やっぱり自殺なんじゃないでしょうか。低温の冷蔵庫の中で、発見されるまできれいなままいたかったんだと思います」
 わたしはそういいながら、ひっそりと額の汗を拭った。

 まだまだ暑い日が続いている。
 布団の中で永遠の眠りにつくより、もっといい場所を見つけてしまった彼女は、自分が入るために冷蔵庫の中に保存してあったものを取り出した。
 もはや仕込んだ料理に執着もなにもない。
 眠るように死んでいくはずの自分自身を、少しでも状態をよくするために低温保存した。

 飴智警部補は意外そうにわたしを見た。
「おもしろい意見だね」
「彼女なりの美学を貫いたってところか」
 桑田さんはあまり納得いってないように顎をしゃくった。
「まずは死因の特定だな」
 飴智警部補にいわれ、桑田さんはご遺体と共に帰って行った。

「小柳くん、悪いんだけど……」
 決して命令口調ではないけれど、飴智警部補は冷蔵庫の扉を大きく開いて催促した。
「入ってみてくれないかな?」
 一応、実証してみようということだろう。
 わたしは自殺説を押しているのだし。

 わたしは身長160cmにも満たないごく普通の女性体型だ。
 彼女ほど細身ではないが彼女よりはずっと背は低い。
 わたしだってこの冷蔵庫に入れるだろう。
 冷蔵庫に手をかけて乗り入れようとしたが、頭から突っ込んで中で反転してドアを閉めるのは、庫内が狭すぎて難しそうだ。
 腰をかけてそのまま後ろから入れば……。

 試してみようとしてエセネコと目が合った。
「ふぁっふぁっふぁ。足の短さを計算に入れてなかったな」
 うるさいと小声でつぶやきながら、ドアポケットに手をかけて、よじ登るようになんとかお尻を庫内にねじ込もうとしたがうまくいかない。
 脚の長い夕月朱莉ならもっとスムーズに冷蔵室に体を収めることができそうだが、冷蔵室が案外高い位置にある。
 抵抗する人間を無理矢理押し込むというのはどうも無理そうだ。
 眠らせたあと、あるいは殺害したあとだとすると、この位置まで抱えることのできる人ということになる。
 いや、本でも積んで階段を作れば可能か。
 わたしでも夕月朱莉を抱えられるか? 必死になればいけるのか?

 まずはひとりで完遂しなければ。
 ちょっと行儀が悪いが一番下の引き出しをステップ代わりにしてみよう。
 引っ張り出したら冷凍室だった。
 大容量のアイスクリームと箱に入ったアイスバー、グラタンやパスタ、チャーハンなど糖質が多そうな冷凍食品が本棚のようにきちんと並んで収納されていた。
 彼女が食べるつもりで自分で買ってきたのだろうか。

 まぁ、ともかく、引き出しを踏み台にしてよじ登り、なんとか庫内に体を収めるとドアポケットをつかんで扉を閉めた。
 真っ暗だ。
 目を見開いたままでもなにも見えない。閉所恐怖症でも暗所恐怖症でもないが、冷蔵庫の作動音と冷気がやけに怖い。
 もはや息苦しくなってきた。本当に酸欠なのかすらわからない。
 わたしは耐えきれなくなって扉を押し開けた。
 難なく扉は開き、過呼吸気味に何度も何度も息を吸い込んだ。

「大丈夫か?」
 飴智警部補はわたしの腕をつかみ、冷蔵庫から出るのを手伝ってくれた。
「……大丈夫です。ありがとうございます」
「内側から自分で押し開けられたようだね?」
「……そうですね。開きました」
「最近の冷蔵庫は事故防止に開けられるようになっているのか。脅されて入ったにしても、外から押さえていないと開いてしまうな」
「苦しくなったら開けようともがくでしょうが、ご遺体にもそんな様子はなかったですし、ドアポケットの物もきれいに並んだままです」

 どのくらいで酸欠状態になるのかわからないが、睡眠薬を飲んでいても、意識があるうちに自分で冷蔵庫に入ったのなら、眠るように息を引き取るというのは難しいかもしれない。
 冷蔵庫の中で、じわりじわりと苦しさに耐え忍んだとするなら、よっぽど死への執着があったということだ。

 冷蔵庫の扉を閉め、何気なくすぐ下の引き出しを開けてみた。
 ここは野菜室になっている。キュウリとニンジンが隅に置いてあるが、ほとんど大袋入りのチョコレート菓子で埋め尽くされていた。

 気になってシンクの下の扉を開けていく。
 食品は置かれてないが、ゴミ箱があったので蓋を取って覗いてみた。
 やはりお菓子やインスタントラーメン、冷凍食品などの空き袋が大量に詰め込んであった。誰が食べたのだろう。

「どうした?」
「彼女には同居人がいたのでしょうか」
「そんなふうには見えないな」
 飴智警部補はキッチンを見渡した。
 そうなのだ。違和感がある。
 元々物が少ない部屋だけど、夕月朱莉以外の人間が一緒に住んでいるのなら、その存在を示すような物があってもいい。
 クッションもひとつだし、食器にしても、セットになっている物があるとはいえ、マグカップとか箸とか茶碗とか、普段使いでペアになっているような物がない。
 自炊はしているようだが、手料理を振る舞うような恋人がいるかもわからないほどだ。

「あの、洗面所へ行ってもいいでしょうか」
「どうした? また気分でも悪くなったか?」
 トイレに駆け込んだ過去を思い出し、恥ずかしくなってしどろもどろになって答える。
「い、いえ。歯ブラシを見てきます」
「なるほどね」

 洗面所もまた清潔さが保たれたスッキリとした空間だった。歯ブラシは一本。
 スキンケア関係も彼女がひとりで使っていたとしてもおかしくない数だ。
 そばにあるゴミ箱を覗き込むと紙くずが捨ててある。
 床を拭く不織布に数本の髪の毛がからまっているが、それほど汚れてないので、かなりの頻度で床を拭いているのかもしれない。

 飴智警部補はあとをついてきてわたしの様子を見守っていた。
「それで? 結論は?」
「はい。やはりひとり暮らしのようです。もちろん、誰かが来たときのために彼女が食べないようなものまで大量に用意していたことも考えられますが、この部屋の持ち主の性格から、必要なときに必要なだけ買ってくるような気がします。自分のためだったとすると、好きな物を好きなだけ食べて吐き出すというような摂食障害だったのではないでしょうか。睡眠薬も服用していて精神的に参っていたように思います」
「やはり小柳くんは自殺説を推すということだね?」
「はい……」

 食べるものは買い込んであるが、物の少なさは断捨離というより身辺整理だったのかもしれないとも思う。
「うん、悪くないよ。先入観はよくないけど、観察はいいことだ。事件に巻き込まれたのなら知り合いが関わっている可能性はかなり高いし、親密な関係にあった人がいたのかは重要だからね。名の知れたモデルならその辺の事情もなかなかつかめないかもしれないし」

 あ、忘れていた。仕事の都合上、恋人の存在を隠す方向性なら、普段から気をつけていたというのはありえる。
 彼女はSNSをやっていただろうか。
 匂わせてしまう物が映り込んでしまうのを気にするくらいなら、そういうものは置かないという選択もあるのだ。

「それはそうと小柳くん」
「はい」
「風呂場の影が気になるんだけど」
 まさか……エセネコ?
 飴智警部補が指し示したのは磨りガラスになった扉だった。
 猫じゃない。なにかものがぶら下がっているようだ。

 扉を開けると、洗濯物がつり下がっていた。カーキ色のキャミソールとパンツのセットアップと、バスタオル、それに下着も見えて、生々しい生活感にドキッとして扉を閉めようとしたら飴智警部補は「濡れてるか?」と聞いてきた。
 わたしは隙間から手を差し込んでパンツをつかみ、次いでタオルをつかんだ。

「ちょっと湿っぽいです」
「きのうの夜に洗濯したのかな」
「そうかもしれませんね……」
 そういいながらはたと気づく。
 きのうの夜だとしたら……。

 彼女は全裸で発見されている。自殺前に着ていたものを洗濯して、シャワーを浴び、全裸で洗濯物を干してそのままあの世へと旅だったということだろうか。
 いやいやさすがにそれはないのではないか。
 バスローブかなにかを羽織ってその準備を進めていった。
 もしくは唐突に自殺を思い立ったとか?

 一応洗濯機の中を覗いてみたが空っぽだ。
 ベッドルームかどこかで着ていたものを脱ぎ、そしてキッチンで薬を飲み、自ら冷蔵庫の中へ……。そんな手順だろうか?

 ふと顔を上げると飴智警部補と目が合った。
 多分同じ事を考えている。どこかふに落ちない。
 そもそもなぜ全裸なのだ。
「彼女が着ていた最後の服がそこに干してある物だろうかね」
「それとも、寝室に脱ぎ捨てているんででしょうか」
「ちょうどいい。そろそろ第一発見者の話しを聞こうか。寝室で待機しているらしい」
 そんなところで?と疑問に思ったが、第一発見者は夕月朱莉と同じ事務所の後輩モデル近藤ふみだった。
 ティーン誌で活躍し、バラエティ番組でも見かけるようになった二十歳前後の女性だ。

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