自発的に間違いに気づく手助けをする大人の余裕を持ちたい
ここでよく書く話だけど人の考え方とか見え方って本当にいろいろ。この思考の多様性こそが弱肉強食の生存競争を生き残った術なんだろう。
でもそれと同時に「その考え方はおかしい、間違いだ」という声も常にある。そして自分も含め「許せる間違い」と「許せない間違い」の線引きをしている。その考え方に対して非難や称賛するケースもあるだろう。
面白いよなと思うのは、今どきの称賛ってプロモーションや誰かの発言をリツイート(発言のコピー)することが多いけど、当人は「これ面白いからフォロワーの皆様見てね」なんだけど、取り方によっては
取りようによってはある種の洗脳にも近い感じがある。けど洗脳も「信じる力」や「迷わない心」にも作用する。常に揺れ動く僕と比べたら圧倒的なパフォーマンスを出すので侮れない。
でも実際は、非難より称賛より「無視」が多い。そりゃそうだ。非難も賞賛も何かしら反作用がある。事をわざわざ荒立てる必要もないということだ。ふと「これって野村克也の3ステップと同じだ」と思い出したが、無視は評価テーブルに乗るまでは自己責任という意味だったんですね。いろいろ奥深い。
そして令和のご時世「非難はパワハラ」という側面も見え隠れしている。感情の怒りと愛のムチって表面上は似た形になりがちですもんね。では反応としては、称賛・非難・無視の3種類で終わりかなと思ったら違う切り口がありました。
なんだろう皮肉とも取れるしシュールな切り返しとも言えるし、間違いを間違いで返さずちょっとクスッとさせる感じ。いい意味でふざけているし誰も不幸にならないというか。
最近思うに、非難も賞賛もちょっとヒステリックで、余裕のなさが見え隠れする。こう大人の返しというか、余裕?ゆとりがないというか。時代と言えばそれまでだけど、なんか「自発的に間違いに気づく手助けをする」のって大人だし、まあカッコいいよね。そういう大人な男に今からでもなりたいなと思います。
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