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相手を騙す時代

激しく同意すると同時に、主語はインターネットがというより、時代性な観点という気がしていて。

ノイジーで、狡猾で、「いかにしてユーザーをだますか」に力点が置かれている広告だって少なくない。しかも宣伝の文言レベルでだますのではなく、システムそのものとしてだまそうとしているのだ。

昔の広告は「恋人に手紙を書く気持ちで」だったのが、今のように「人をだましてなんぼ」というのは、広告というより、世の中全体がそういう空気なんだと思う。

ぱっと思い付くところでいうと過去田中角栄が高速道路を引いたのは「地元と東京を結んで有権者の期待に応えたい」というある意味純粋な気持ちのようにも見えるけど、今だと実際は違うのかもしれないが「有権者をだまして利益誘導したい」という雰囲気にもとれる。それって、恋人から不特定多数の「誰か」に置き換わっているからドライに接することができるともいえる。

一方で広告の変質は、マーケティングにおける「数字こそがすべて」という技術的な成長とリンクしていて、数字が見えれば見えるほど、人から数字に変換されてきたんだと思う。

人というナマモノに対しては誠実に接することができるけど、数字という無機質なものに対しては人は、ドライに対応できるということだ。つまり、今どきの人は、物事の変化を人ではなくて数字で見がちに変わってきたことが、「人をだます」ということに対する感度を下げているのだろうなと。

そもそも手段としてのインターネットは、人ではなく数字に置き換えやすいという媒体特性は確かにある。でも、一方でSNSの文字情報のやり取りで愛をはぐくみ結婚する人もいるわけで、インターネットだから愛はないんじゃなくて、インターネットの参加するプレイヤーがこの30年、それこそ「あらゆる人が」参加した結果、可視化されたに過ぎないという見方もあるのかもしれない。

気を付けないといけないのは、インターネット以前において、コミュニケーションにおいては、各コミュニティに閉じており、それこそ広告でいうと「広告村の住人」が、高いレベルで切磋琢磨してきた。現在の広告業界の低水準は、広告制作を行う人材が30年前から比べて1~2桁がパイが増えたがゆえに粗悪な広告が流れてきているだけともいえる。

その結果、ブロック経済のように、閉じた世界で、閉じたコミュニティでと思うのは当たり前で、それがスクランブル化という名の閉鎖的な空間になっているんだと思う。なので、僕も一時期あこがれたインターネットの世界も資本主義の前には、一つの大きなムーブメントの一つでしかなかったのだろうなと。

重要なのは、こういうサイクルの一つ一つを踏まえて、僕たちはどの列車に乗っていくか、あるいは降りるのかを注視することなんじゃないのかなと最近思うわけです。

お互いのコミュニケーション活性化のため、スキ・コメントお気軽に、よろしくお願いします。