見出し画像

思い通りにする写真と、思いもよらない写真、どちらを好むのか

noteを書いていて面白いなと思うのは、写真単体より写真に対しての想いなどを文章にしている記事的なもののの方が正直反応がよい気がしていて。それは写真自体に力がないという僕の技量の問題も多分にあるけど、案外皆様は「その写真の奥の奥」とか「写真への向き合い方」に興味があるのかなと。

自身のD5300なんて、10年選手でラバーがめくれている関係で、おそらく雨の日は出しずらいとか、写真に向き合う以前に、自分の体調とカメラの体調が微妙にリンクしてる。でもそれと同時に「ああ、こうアウトプットが出るんだ」という発見がいまだにある。

古いカメラの面白いのって、今の最新機種だと「記憶色として、こういう写真が見たいのでしょう?」といういい意味で先読みされた写真が出てくる。けど、昔のカメラってそこの補正はあまりなくて「あなたが入れた光の量だとこんなもんです。色彩?それは私の思う感じで」というか、主張が強い。

そういうのが、カメラメーカーの特性として差別化できていたんだけど、今は前よりそこは薄くなっている気がする。そりゃNikkonっぽいとかFUJIFILMっぽいとか細かくはあるけど、前ほど極端じゃない気がするんですよね。

でも昔のカメラに、今設定しているようなPicture Controlとかだと、まあ癖つよで面白い。それって、昔フィルムカメラで、新しい種類のフィルムを使って面白がっていたのと近いんですよね。時には大失敗の現像。けど、あるものは自分で撮ったとは思えないような発見があったりする。そういうトレジャーハントっていまだに飽きないんですよ。面白いことに。

仁王な圧が心地よい
古い建物もいい雰囲気だ

今も昔も「自分の記憶色、自分の思い通りの顔、映像」それをどう見せるかをみんな考えている。それこそ全員が大昔のグラビアアイドルのような調整をしている。けど、カメラごときに勝手にいじられて新しい発見だとか言ってる自分はかなり変なやつだよな。そして、そういうニーズは徐々に減ってきている。世の中すべてのものがキレイにキレイに変身している。

その変身願望が、バイタリティーになっている人も多い。そういうのは正直すごいって思う。けど、生き方におけるパワーって人によって違うのだろうね。その違いって時代によって受け入れられる、受け入れられないはあるのだろう。その変化が時代による変遷なんだろうね。

ついつい撮ってしまうサラサ西陣
京都の店舗の顔はけっこう絵になるね



お互いのコミュニケーション活性化のため、スキ・コメントお気軽に、よろしくお願いします。