砂丘を越えて
ピアノの先生の家に行くのは気が進まなかった。
同級生たちはデパートで花を買っていた。私は彼女ら彼らが名を呼ぶ花が、かわいらしい女性店員の手で一本一本抜き取られていくのを、ぼんやりと眺めていた。
「私、また先生のところでピアノを習おうかなあ」
ユキホが言った。
「俺も最近仕事が忙しくなくなったし、行けるかもなあ。またピアノに触りたくなってきた」
ケンタも言った。
「土日や夜もやってもらえないか、先生に聞いてみようっと」
しかし、マンションの冷たい紺色のドアからのぞいた先生の小さな顔は氷のように冷やかだった。
先生は怒っている。でも、誰もそれに気が付かない。
和室に通され、同級生たちは選んできた花と人数分のケーキを渡す。先生は花をすぐに花瓶に移し、床の間に飾る。途端に花は色を失い化石のように古びてしまった。
「ねえ、先生、私もう一度先生に習いたいんですけど。大人でも大丈夫ですか?」
ケーキにフォークを入れながら、ユキホが尋ねる。
「ええ、でも今は平日の午前中しかやってないのよ」
先生は心のこもらない笑みを作りながら言った。ユキホや他の同級生たちは、
「それだったらだめだ、ざんねーん」
と言って笑い合っている。
先生がお茶を淹れに台所に立ったとき、私も、手伝いますと言って席を立った。
台所に入った途端、先生が言った。
「あなたには分かっているんでしょう?」
先生の瞳は青く燃えるようだった。
私は恐ろしくなった。
そのとき、鋭い悲鳴が聞こえてきた。
慌てて台所の隣の小さな部屋に行くと、マチが、先生がペットにしているパンダのいる柵の中でしゃがみこんで震えていた。
パンダは吠え、威嚇し、今にもマチに噛みつきそうだった。他の同級生たちも、パンダが怖くて手を出せない。
先生があとからやってきて、私に向かってつぶやいた。
「もういいでしょう」
そうして先生は私の胸元をぐいと押した。私は壁に向かって押しやられ、ぐにゃりと壁を突き抜けて外に出てしまった。
慌てて紺色のドアの方にまわったが、そこは固く閉じきってもう開かない。
でも、マチはきっと大丈夫。先生だって、そのままにはしておかない。
私はひとり、マンションの外で待つことにした。
マンションの前には砂丘が広がっていた。私は砂に足をとられながら、ゆっくりとそれを越え、砂の切れるところに生えたハリエニシダのしげみに隠れてみんなを待つことにした。
しばらくすると、砂丘の稜線に三人の人影が現れた。同級生たちだったが、その中にマチはいない。
次に、ふたりの姿が見えた。その中にもマチはいない。
もう少し、あと少しでマチも現れるはず。
そう思って身を伸ばそうとすると、足元にこつりとあたるものがある。
それはもう亡くなった古い時代の映画俳優の写真の入ったフォトフレームだった。
私はそれを拾い上げ、そっと砂をはらった。
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