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勧めることのススメ

ここ2年くらい、「何かを人に勧める」という行為の価値の大きさを感じている。どうしてそう思うのか、書き出してみたい。

自分の世界をお知らせできる

私は小学生の頃から、人に本のおすすめをするのが好きだった。

「読書週間」というものが半期に2回程度あり、児童にはがき風の紙が配られる。そこに、他の子どもにおすすめしたい本を紹介する文章を書いたりイラストを添えて投函するのだ。投函といっても、図書室にある手作りの大きなポストにだけど。はがきは「読書ゆうびん」と呼ばれていた気がする。

私はこの読書週間が大好きだった。毎日本を読んでいたし、会話でのコミュニケーションが必要ないからだ。話すことより、書くことが好きだった。

紹介したい本がありすぎて、読書ゆうびんを何枚も書いた。

他の子が「また読書週間か~めんどくさいよ~」と嘆く中、喜々として文章を書く私。もちろん私以外にも読書好きの子どもはいて、その子達からはがきをもらった時は、ほくほくと読ませてもらった。やっぱり、嫌々書いている子からもらうはがきよりも、喜々として書いている子のはがきのほうが面白い。はがきなのに、読み応えがある。

読書週間が好きなのは自分が本好きだからだと思っていたし、大人もそう思っていたと思う。「わかこちゃんは、読書が好きだからたくさんはがきを書くのね!」と褒められたような記憶もある。

でも、今思うと少しちがう。

私は、「本を人に紹介できる」場があるのが嬉しかったのだ。

普段、読書という行為は基本的に一人でする。わからない言葉の意味を大人に聞いたり辞書で調べたりすると外部と通じるが、そうでもなければ自分の内側でしか行われない。今でこそいろいろな本の読み方があって、本を通じて人とつながることが容易になった。けれど、平凡な小学生の私は平凡に本を読んでいた。

だから、時を忘れて読み耽った本の魅力を、読んでどう感じたかを、自分の中にためこんでいた。それを自分の言葉で人に紹介していいなんて!なんて贅沢な!という喜びがあったのではないかと思う。

話術があるほうではなかったし、小学生ながらにいつも聞き役であった。そんな私が唯一、自分の世界をお知らせできる機会が読書週間だったのだ。


人の世界に招待してもらえる

今度は「勧められた」経験の話。

社会人になってからのこの数年、何かを勧めてもらえることのありがたさを強く感じている。

自分にとってすごく大きかったな、と思うお勧めが2つ。


ウェブメディアsoarを知る

まず、就活時期から仲良くなった人が「soar」というウェブメディアの存在を教えてくれたこと。

これおもしろいよ、とメッセンジャーでシェアしてくれたのが、目でも指でも読める点字『Braille Neue(ブレイルノイエ)』の記事だった。

記事の内容もおもしろいのだが、それ以上に記事の書かれ方が好きだと思った。丁寧に綴られていて、静かな熱をもった文章。ほかにどんな記事があるんだろう、と気になりいろいろと読んでみた。読めば読むほどこのメディアをもっとたくさんの人に知って欲しいと感じて、初めてサポーター会員というものになった。

通勤電車で記事を読むこともあったし、人に「この記事読んでみて!」と勧めることもあった。障害や生きにくさについて考えることが増え、自分と重なるところのある人の言葉には涙が出ることもあった。

soarが好きだという人に出会うと嬉しかったし、「知らないけど読んでみる」と言ってくれる人がいるとそれも嬉しかった。

特定のなにかを応援したり、もっと広がってほしいと思うことが少なかった私にとって、soarは初めての「応援したい」存在になったのかもしれない。

そう思うと、soarを私にお勧めしてくれた友人にとても感謝している。

人からお勧めしてもらえることで、その人の世界の一部を知ることができるし、それが自分の世界の一部にもなる。そう実感したのだった。


同じ映画を好きな友人を知る

もう1つは、友人さっちゃんがその友人「もっち」を紹介してくれたこと。

私はさっちゃんをさっちゃんとは呼んでいないのだが、もっちがさっちゃんと呼んでいるようなのでここではさっちゃんと呼びたい。

出来事としては私と「もっち」が、共通の友人さっちゃんの友人で知り合ったということなのだが、その「紹介してくれた理由」というのがなかなかのお気に入りとなっている。わたしにとって。

私ともっちは、2人ともある映画が好きで、それぞれと仲の良いさっちゃんがそのことに気づき双方に「同じ映画が好きな友達がいるよ」と教えたのだ。

お互いが「会ってみたい!」と反応し、めでたく3人でご飯に。

さっちゃんから聞いていた以上にもっちは面白い人で、私の知らない世界をいろいろと教えてくれる人だった。世界を軽々と歩んでいそうで、でも何を考えているのか良い意味でわからなくて、森の奥に住んでいそうだと思った。まったく意味がわからない。

つまり私にとってもっちと出会えたことは嬉しいことで、さっちゃんの紹介のセンスには拍手を送りたい。いつも「オムレツ」とか呼んでごめんね。

もっちと出会ったことで、前からやってみたかった読書会の開催が叶った。場所を提供してくれたのだ。しかも、どんな読書会にしたいか?という相談にものってくれた。

その読書会は私の継続力に問題があって結局3回くらいで途切れてしまったのだが(来てくれた貴重な皆さんありがとう)、これがまたおもしろい。

もっちが「そういえばすぐ近くで別の読書会も毎月ひらかれてるよ」と教えてくれたのだ。

なんですって?じゃあ行きたい。

自分で読書会ひらくの向いてないかも…と思い始めていた私は飛びついた。

そこには本が好きな人も、本に詳しくないけどもっと読みたいと思っている人、文章を書くことを仕事にしている人など、様々な人が参加していた。聞けばもう何年も開催している読書会らしい。

初めてお邪魔するとき、もっちは行けなかったのだが、私は1人で乗り込んでみた。知らない人しかいないのによく行ったなあと思う。

しかしそこでまた、面白い人たちに出会うことになる。

主催メンバーの方は数人いるものの、ほかの参加者は毎回顔ぶれがちがう。

ほぼ毎回いるという人もいれば、数ヶ月に1回という人もいるのだろう。

本の紹介に関しても、本そのものというよりも「本を通じて人を知る」というようなコンセプトのもと行われるので、お勉強会ではない。人がベースの読書会になっている。

本という存在を通して、自分や他人をのぞくことができる。話し言葉よりも書き言葉が好きだと思っていた私にとって、「書く」でできた本を「話す」ことで紹介するこの読書会は、とてもバランスのいいコミュニケーションをとれる場だと感じた。本についても人についても聴きあえる時間はとても楽しい。

この読書会には、何回か参加させてもらっている。ここで知り合った人からNVCの勉強会を教えてもらったり、別の人からは読書会とは別のコミュニティーの旅行に誘ってもらえたり。また別の回では先述したウェブメディアsoar好きな人と出会ったり。

もっちがお勧めしてくれた読書会に参加したことで、また自分の世界が広がったのだった。

「お勧め」がもたらすもの

一番大きいなと思う2つをあげたが、感謝しているお勧めはもっとたくさんある。友達は少ないが、つくづくその少ない友達との関係に恵まれているしお勧めにも恵まれていると思う。

ごく最近(というか今日)感じたのは、「人から勧められたものをちがう誰かに勧めて、それが喜ばれるとすごく嬉しい」ということ。

さきほどの読書会で知り合った人からお勧めされたドラマを、ちがうコミュニティー(でもちょっと読書会とつながってる)の人に勧めたら、これがすごく相性ぴったりだったらしい。

知らなかったけど知ってよかった、という感想をもらえたとき、もともと自分にお勧めしてくれた人に改めて感謝の念を抱く。

知り合いの知り合いによってだれかが救われたり、心を動かされることがあるのだ。本当に。

言ってみれば当たり前のことなのだけれど、結構すごいことなんじゃないかと思う。

「お勧め」が持つ力は、計り知れない。


おわりに

今の世の中、紹介やお勧めであふれている。ウェブやSNSでお勧めのカフェが探せるし、本も仕事も人も家もなんでも、本当になんでも「お勧め」は見つかる。

でも、それに感謝することってどれくらいあるだろう?

「このカフェめっちゃいい!すき!教えてくれた人に感謝してもしきれない」と深く感謝することは日常で、あるだろうか。

もっと感謝しましょう、と言いたいのではない。私はなんでもお勧めできる時代ってすごいなあ、という素朴な驚きを感じている。

不特定多数の人へお勧めできるし、不特定多数の人からお勧めしてもらえる。そんなすごい時代なのに、日常、そのすごさを感じることは少ない気がする。

気づいたからには、自分はもっとその素敵な出来事を大切にしたい。

お勧めすること・されること、どちらも好きな私は、これからも大切な人に大切なことをお勧めしていきたいし、お勧めされたい。

そんなことを改めて感じた夜なのだった。


#エッセイ  






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