読書記憶④正直でありたい。『なんで僕に聞くんだろう』
最近noteを書くたびに思う。
私は、私に嘘をついていないだろうか。
嘘のある文章を書いていないだろうか。
本当に書きたいことを書きたいように書いているだろうか。
この居心地の悪さはなんだろうか。
幡野さんのことば
幡野広志さんの本が好きだ。
人との関係のこと、病気のこと、生きることについて思うこと。写真のこと。ご家族のこと。
率直に書く方だと思う。
それでいてどこか優しさもある。
厳しく聞こえるような言葉も、「その言葉を言いたいから」言うのではなく、「その人に向き合っているから」言うのではないか。
人の言葉に対して自分があれこれ言うのは難しいけれど、そう思う。
『なんで僕に聞くんだろう』
最近発売された『なんで僕に聞くんだろう』を読んでいる。
Cakesに連載されていた、幡野さんに寄せられる人生相談とその回答。
読み始めて半分くらいで、「そうか」と気づかされた。
言葉を紡いじゃいますけど、どれだけ褒められようと、評価そのものを褒められるのはとても虚しいものです。
“どうしたら幡野さんのように心に届く文章、影響力のある文章が書けますか”という相談に対する回答の一部。
読んでいて、自分の居心地の悪さのわけがわかった気がした。
受け入れられる文章を書き、読もうとしていた。
スキがついてもつかなくても、読んでくれる人に受け入れられる文章を書かなくては。
わたしはそう思っている。
受け入れられるために、いつも何かを隠してしまっている。
70%くらいは正直な言葉で書いているけれど、30%くらいはごまかしている。
人に好かれたいから。悪く思われたくないから。
それに、“人気者”の発信をよく読んでいる。noteやTwitter、Facebookも。
どんな人気者でもいいわけではなくて、もちろん自分が「素敵だ」と感じた人しか読めないのだけれど。苦手な人の発信はそこまで読まないのだけれど。
人気者の言葉は安心して読める。その人の発信をシェアすれば、自分もその人の仲間のようだと勘違いできる。
でもそうやって人気者たちの発信をシェアしているうち、なぜか息苦しくなってくる。
無理しているかんじ。人気者とは対照的に、自分の小ささを痛感していくかんじ。
どうしてこんなふうに感じるのだろう。
素敵なものは素敵、良いものは良いと言いたい。それでも、そう感じているのは本当に自分自身なのか?と疑わしい。
評価で人をみているんじゃないだろうか。
わたしは人の、何をみているのだろう。
誰に話していいのかわからない
最近、誰に話して良いのかわからないことばかりだ。自分の小さな悩みは、誰かにとって「小さい」以前に、理解し得ないものかもしれない。
きっとしばらく悩むのだろう。
自分が人をどう見ているか、自分をどう見ているかということを考えるのは少し苦しい。
誰かに話したくなったら、その時は勇気を出してみようと思う。
正直でありたい。
感じていることを感じていないことにするのではなく、その自分からしか物事は始まらないということをわかっていたい。
次にどうするといいか、常に考えて、試して、悩んで、その時見える景色を味わいたい。
よく晴れた日に、とてもすっきりしないきもちでそんなことを思うのだった。
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