たまたま生きていた朝
しっかり眠っていつもより少しだけ早く目覚めた朝は、謙虚な気持ちになれる気がする。
謙虚というより、いつもと同じようにやってきた朝を、不思議だと思える気持ち。
今日も私は目が覚めた。
久しく会っていない小学校、中学校の同級生も。先日会った高校の同級生や先輩も。大学で同じバンドを組んだひとたちも、組んでいないひとたちも。私の好きなアーティスト、俳優も。好きな作家も。今まではたらいた職場のひとたちも。いぬをふくめ、私の家族も。
みんなみんな、生きている。どこかでそれぞれの朝をむかえている。
まだ眠っているひともいるだろうし、すでに仕事を始めているひともいるだろう。徹夜明けのひともいるかもしれない。ベランダでぼんやりと、朝が来た不思議さを感じているひともいるだろうか。わたしとおなじように。
今朝うしなわれた命もあるだろう。がんばってがんばって消えていった命、突然消えた命。この世界のどこかに、それぞれの死もある。
私が思い浮かべたひとたちは、20年や30年、40年50年と生きてきた先にある今日をむかえている。
私もそうだ。今日は今日という点で存在するのではなく、生まれてから1日も欠けることなく続いてきた命があるという線の着地点なのだ。
そしてまた明日をむかえれば、昨日になった今日も、少しずつ線に溶けてゆく。
たまたま生きていたことは、驚くに値する不思議なことだと思う。
今日もごはんを食べられた。洗濯物を干せた。外に出かけられる。こんな不思議なことはない。大切なひともおなじようにたまたま生きているなら、もっともっとすごい。
たまたま生きているひとたちと、この世界を営んでいく。絶えずどこかでだれかの命が消え、それはいつか私にもやってくるけれど、今日は生きている。
私は今朝も生きていたことを、うれしく思う。昇り始めた光をみながら、たまたま生きていただけの今朝をうれしく思う。
読んでくださってありがとうございます!