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記念すべき100回目は「不安」について

記念日というものにあまり執着がない。

お付き合いしている人がいる時も、特に「3ヶ月だねー!」「1年だねー!」「3年だねー!」」といったお祝いをしなかった。

親しい人の誕生日や親の結婚記念日は好きだ。好きなだけで、盛大なお祝いを催すこともないのだけど。ちょっとした贈り物をするくらい。

実は今日、100回目のnote投稿になる。

なにか特別なことを書く?特別なことなんてある?とぼんやり思っていたのだが、ふと思いついたので「記念日」と「不安」について書いてみようと思う。

 まず「記念日」

なぜ自分は記念日というものに執着がないのか。少し考えてみる。

思い返せば、執着がないだけで興味はある。

古い写真を見返すのは好きだし、記憶力はあるほうだ。
時間に無頓着というわけではないと思う。

でもたぶん、私にとって興味があるのは「〇〇から何年経った今日」という記念日そのものの価値ではなくて、「〇〇から今まで、これくらいの年月が経った」という事実なのだ。

高校の卒業アルバムを見ていてぞわっとしたことがある。

写真の中のわたしは未来のことなんてなにも知らない笑顔で変なポーズをとっていて、それを見てあらためて感じた。

今この時は、今をしっかり生きればいいんだ。

高校生のわたしは、8年後の私がどんなことを考えているかなんて知る由もない。
知る必要もない。

でも、「今」を積み重ねていったら、それは道になる。なめらかだったりぼこぼこしていたり、細くなったり太くなったり、それはそれは個性豊かな道だ。

きっと私は、「道」を感じたいのだろう。

今日が何年目かとか何回目かという数字に興味はなくて、それまで歩んできた道にどんなことがあったか、どんな葛藤があったのかに興味がある。
 
それは確かに数字が大きくなればなるほど、道の形も面白いかもしれない。

でもやはり重要なのは記念日を迎えたこと自体より、記念日までの道のりなのだ。

次に「不安」

記念日とまったく関係のない話。

ここのところ「不安」について書きたいと思っていて、でも書くほどの理由がなくて、むずむずしていた。

そんな今日「100回目の投稿だけど、いつも以上に不思議なnote書いてみるか」と思った次第である。なにを言っているかわからなくなってきた。

 

常日頃、不思議に思うことがあるのだ。

「いまこの人と話しているわたしは、本当にわたしなんだろうか」

「いまこの時間は、本当に存在しているのだろうか」

「この景色をみているわたしは、だれか別の人にゴーグルをかけていて、それを“わたし”が知覚しているんじゃないだろうか」

哲学の話をしたいわけではない。
そうではないけれど、そんな話題にも思える。
 
真面目な話をしていてふとこんなことを思うものだから、不安になる。

ほかにも、不安を感じる時はたくさんある。

・電車で隣の人が膝や膝をぶつけてきて、それを気にもしていない様子の時。(わたしのことを認識しているのか?)

・飲食店で、接客があまりに機械的な時。(流れるようにスムーズすぎて、逆に怖くて生きた人間なのかどうか疑わしい)

・なにか大切な人や出来事を私は記憶から消し去ってしまっているんじゃないかと思う時。(『君の名は』を観てから特にそう思うことが増えた)

・明日生きている保証もないときづいたとき。(みんなそう、不慮の死はいつでも隣にある)


こんなに不安のバリエーションがあったら売って暮らしていけそうだが、私だったら買いたくない。おもしろさにトランスフォームできないだろうか。インプロとか使って。

だって、こんなにいろいろあること自体面白いことだと思う。

前半のほうは不安というより「不思議」という感覚だが、人と分かち合えるのかどうか気になる。

たぶん話す相手を選ぶのだけれど、だれかに聞いてみたい。

不安になるのはどんなときか。私が不安になるときのこと、想像できるかどうか。

やっぱり教育学部じゃなくて、ほかの学部が向いていたかもしれないなと思う朝だった。


写真は最近行ったやきとりやさんの辛子明太子。

ひとつのこったその様が、ちょっとせつない。










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