「あいだ」が好きだから、生きているのが好きなのだと思う。

乗り物に長いこと揺られて、遠くの街にきた。

あらゆる方向から、人々が歩いてくる。追い抜いていく。誰もがなんらかの事情をもって、その街を通り、離れていく。

可笑しい顔をしていても、心の中まで可笑しいかはわからない。涙を流しながら笑える人もいる。不機嫌な顔をした優しい人もいる。

見ただけではわからない、聞いただけではわからない人たちがたくさんいる世界だ。

景色がそのようにみえるとき、私はとても嬉しくなる。すばらしいものを見たように鮮明な意識をもつ。

遠い街にきたからかもしれない。


すばらしいものを見たとき、私は走り出したくなる。人が大勢いようがいまいが、ただ「走り出したい」という気持ちを走らせたくなる。

しかし本当は、走り出すことではなくて「走り出しそうになる気持ち」が好きなのだと思う。

走り出しそうになる気持ちをすこし抑えて、飛び出そうとする、その気持ちを味わうのがたぶん好きだ。

走り出してしまったら、「走り出しそうな気持ち」はもう味わえない。


誰かを好きになりそうな気持ちも好きだ。おいしいものを買って帰りそうな気持ちも好きだ。泣き出しそうな気持ちも、すこしつらいけれどやはり好きだ。

「あいだ」を感じると、生きていると思える。走り出す前の自分と、走った後の自分とをつなぐ「あいだ」が好きなのは、「生きている」と感じられるからなのだろう。

走らなかったとしても「走り出しそうな気持ち」は残る。点と点の、その「あいだ」。そこに自分らしきものがいるのだと感じている。



吉田篤弘さんの『雲と鉛筆』を読みながら電車に揺られて、そのあと降り立った駅で感じたことを書きました。

昨晩読み終わった、宮野真生子さんと磯野真穂さんの書簡集『急に具合が悪くなる』の感想も近いうちに書こうと思います。

どちらの本もそれぞれが唯一無二のものでありながら、言葉にしがたい「あわい」について、そして生きることの本質的な喜びについて、手ですくいとるように言葉にされているところが共通するように思います。

『雲と鉛筆』を勧めてくださった佐藤純平さん、ありがとうございました。またお勧めのものがあったら、ぜひ教えてください。






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