受け取りすぎる私へ
この1ヶ月ほど、自分を嫌いにならないように毎日苦労している。
苦労という言葉を使うのは大げさだろうか。
でも、それなりに意識していないと自分を責めてしまい、こんな人間が生きていて…などと危うく思いかけてしまう。
今日は最近気づいた自分の癖を書きたい。
ここのところ、癖を「光」に転換する方法を考えている。
生活リズムの変化
3月までは、決まった時間になると決まった場所へ出かけていた。大体決まった人と会って仕事をしていた。
その行動リズムから突然開放されて、当初はほっとする部分もあった。
「しなくてはいけない」のいくつかがなくなり、ありがたいことに、自宅にいられる時間が急激に増えた。
育児や介護があるわけでもない。誰かのために身も心もフル稼働…ということがない。
さまざまな環境、職種で世間を支える方々がいる中、自分はなんと楽をしているのだろう。
最初はそう思った。
眠りたいけれど、眠れない
1週間もすると、眠れなくなった。
これまで0時には眠りについていたが、4月はなぜか毎日2時か3時頃まで眠れなかった。早く寝ようと思えば眠れるのに。
運動をしていないせいで、身体が疲れていないのかもしれない。そう思ったが、ベッドに入る時、身体は鉛のように重いのだ。まるで旅行から帰ったときのよう。
本でも読んでみるか…と手を伸ばしても、文字が頭に入らない。同じ行を繰り返しなぞっていたり、一点をじっと見てしまったりする。
そしてたいていは、スマホにも手を伸ばす。
メール、SNS、読もうと思って溜めている記事など。いつまででも見ていられる。
たまにすごく真剣に思いが込められた記事を見つけ、考え込んでしまう。
そうしているうちに「いや、眠りたいのだ」と思い直し、スマホを脇に置く。
そこから眠りにつこうとするが、よく吐き気の前にせりあがってくる、あの生唾が邪魔をして、なかなか眠れない。
そんな毎日だった。
すぐには変われない
眠れなかった理由は、スマホにあると思う。
もちろん、見ている中身の話だ。
昼夜問わず「こんな時だからこそ」「ひとりひとりが」「負けるな」と立派な言葉で世界は賑わっていた。
本当にそうだと思うし、世界中で起きている驚くべき事態が、ある意味で世の中を大きく変えるのかもしれない。
けれど、自分の不眠を通してわかった。
「人」はすぐには変われないのだ。
私は私の周りの世界の中で生きている。これまで発音したこともない宣言が発令され、他者との関わり方が物理的に変わりはじめた。
「私の周りの世界」は大きく変わった。
でも、「私」はどうだろうか。こんなときだからこそと大変身して、考え方や行動様式をすぐに大きく変えられるのだろうか。
そうではないのだと思う。
適応しようとしすぎる
4年前にストレングスファインダーを受けてみて、“適応性”が上位資質にあると結果が出た。
環境が変ろうとも動じず、その場に適応できるという意味かと思っていた。
最近思うのは、「適応性が高い」というのは「変化に敏感」ということだ。
微妙な空気感すらも感じ取って、その場に必要な行動を見きわめる。こちらのほうが適応性という言葉に近いと思う。
変化・ちがいがわかるからこそ、自分も変化させて策を講じようとするし、それができる。
ただ、もしかしたら今の自分は「適応しようとしすぎている」のかもしれない。
そしてこの資質と組み合わさるとあまりよくない、やっかいな性格も持っている。
自責をお取り寄せ
取り寄せすぎてしまうのだ。“自責”を。
「あれをしなくてはいけない」「これを知っておいたほうがいい」
今の世界にあふれている情報の数々。
ウイルスが広まる前にも、もちろん情報はあふれていて、もうずっと取り寄せすぎていた。
ただ今は、これまでと少し違う。
楽をして生きている自分は、何かの役に立たなくてはいけない気がして、気づいたらいつも以上に“自責”を取り寄せていた。
自分に足りないもの。欠如しているもの。
「こうなりたい」と手を伸ばす楽しさはそこになく、「こうあらねば」と自分を責める。
誰に言われたわけでもないのに、誰かに脅されでもしたかのように、自分を責める材料をせっせと集めている。
受け取りすぎてしまう
何を見ても、自分に言われたかのように感じてしまう。
TwitterでもFacebookでも、テレビニュースでも新聞記事でもそうだ。
インターネットによく触れるようになった頃からその癖は顕著になったけれど、その前だって同じだった。
13年前、中学で吹奏楽部に入った。大きな金管楽器を担当することになって、部長をつとめる先輩にマンツーマンで教わりはじめた。
ほかに同じ楽器の先輩や同級生がいなくて、いつもその部長の顔色を伺っていた。率直にものを言う人で、誰より上手いし言い訳をしない人で、中学に入りたての私からみるとかっこよかった。
一人っ子ということもあり、初めての「先輩」という存在に、浮き足立っていたのだと思う。
でも私は、失敗するということを避けていた。
今思うと、とてつもなく後悔が大きい。
先輩が上手かったのは、きっと何千回と失敗したからだったのに。
何度も失敗して研究を重ねないと、楽器はうまくならない。なんだってそうだ。
今ならそうとわかるけれど、当時は「うまくできているフリ」に腐心していたと思う。ほんとうにみっともないし、情けない。しかも、ごまかせてはいなかった。
結局ずっとポンコツのままで、「来年は1人だから」「経験のために」という理由でコンクールに出してもらえた。
「こんな下手くそなのに」と私自身が一番思っていた。人数が多いためにオーディションで選抜されるような、ほかの楽器の同級生たちに申し訳なかった。
その頃からだと思う。
「〇〇、もっとこうして」と自分以外の誰かが指名されていない限り、全部自分に言われているように感じるのだ。
逆に言えば、誰かが指名されているときは安心した。「これは受け取らなくていい」とわかるから。
自分が受け取るべきものを自分で判断できないから、人の言葉に頼っていたのだろう。
自分は全能ではない
でも、最近ようやく腑におちたことがある。
自分は全知全能ではない。
「この世界に入り込めたら」と憧れるような物語の登場人物ではないし、昨日と今日の気持ちだって違う。必殺技ももっていない。
目にするニュースもライフハックも、すべて自分に言われているように感じてきた。
でもだからといって行動をすぐさま変えられるわけがない。
そもそも何もかも自分が受け取ろうとするなんて、無謀だ。無謀以前に、不自然なのだ。
できるできないの前に、そんなことをする必要がないのだ。
「あなたは最初から100点を取ろうとする」と言われたことがある。まさにそうだと思う。
受け取ろうとしすぎている。
ぜんぶできなくては、と思っている。
そういう自分が間違いなく、いるのだった。
受け取ってもいい。ただし考えて。
ここまで長々と書いてきて、私は何を言いたいのだろう。
「もう明日から無理しない」だろうか?
「受け取らないことにするんだ」だろうか。
そうではなくて、きっと「考えて」と自分に言いたいのだと思う。
その情報は本当に私に必要?
その能力は本当に私に必要?
誰に言われるのでもなく、自分自身で「受け取るかどうか」を決めること。
「指名されていないから私じゃない」ではなくて真に「自分のことだ」と感じるものを選ぶこと。
なりたい自分は、自分が決めること。
受け取ってもいい。でも全部できなかったからといって、それを責めなくていい。
次からは、受け取った時に考えればいいんだ。
本当に受け取るべきものかどうか。
取り入れてみて「ちょっとちがったな」と思ったら、どう違うのかと考えてみるといい。
それを繰り返して、少しずつ「受け取るべきもの」を選ぶ精度が上がってくるだろう。受け取り方の精度も上がってくるだろう。
受け取った先の幸せを意識する
適応しようとしすぎる私は、これからも受け取りすぎるのだと思う。
でもそのときは「ただし考える」を唱えて、受け取った先の自分が、本当に幸せになれるようにしていきたい。
そうだ、私は幸せになりたいのだ。そしてその幸せは、どこかから降ってくるわけではないともう知っている。
今、「受け取りすぎる」ことで自分を苦しめているとしたら。まずはそれを自覚することが必要なのだと思う。
その先で、どうなりたいのかを考えよう。
受け取ったら、考えればいいのだ。
読んでくださってありがとうございます!