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ゴミとゴミじゃないものの違い

晴天で外気温もちょうど良さそうだったので、午後は散歩に出た。家々の軒先においてある自転車を眺めながら、なるべく知らない道を歩く。

私は今、ロードバイクがほしい。

『弱虫ペダル』というアニメにのめりんでいる。原作漫画は10年以上連載が続いている長寿作品にも関わらず、今年1月末からの2週間ほどでアニメ1期~4期まで観てしまった。これほど一気に観ると、リアルタイムで作品とともに少しずつ歩んできたであろうファンの方々に申し訳なさすら感じる。続きが気になって漫画も読んだ。

運動は苦手、アニメや漫画が大好き。いわゆる「オタク」の小野田坂道(おのだ さかみち)が、入学した高校で多様なキャラクターたちを通じて自転車競技の世界に出会い、瞬く間に自転車を好きになっていく…という物語だ。

競技なので勝った負けたの話はもちろんあるけれど、それ以上に「自転車の楽しさ」、「仲間と想いをともにする喜び」、そして「生きている実感」を描く作品だと感じている。

ロードバイクはなかなかに高価なものなので簡単には買えないが、先日レンタルで乗ってみたら想像以上に楽しかった。マイバイクをもっている幼馴染が付き合ってくれたので、その後ろ姿を見ていると「自分はどんなものにしようか」と妄想も膨らんでしまう。弱虫ペダルに登場するキャラクターたちが乗っているメーカーから選ぶのも楽しそうだ。しばらく悩むだろうが、できれば今年中にサイクリストデビューしたい。


話がこのまま弱虫ペダルへの愛に逸れていきそうなので散歩に戻す。自転車を眺めながら歩くうちに、ふと疑問に思った。

自転車は排気ガスも出さないし、遠くまで行けるいい乗り物だ。
まあ、土には還らないけれど。

最近「100%土に還る服」について調べていて、今年はどれかよさそうな1着を買ってみようかと思っていたのである。

土には還らないということは、自転車もいつかはゴミになってしまうのだな。
はて、そういえば「ゴミ」と「ゴミじゃないもの」の違いとは何だろう。土に還らないものがゴミなのであれば、たいていのものは生まれた瞬間に「いつかはゴミ」という運命なのでは?

やっとここからが、歩きながらぼんやり考えた「ゴミとゴミじゃないものの違い」をめぐる考察だ。


①「ゴミ」とは何か?

まず、ゴミとは何だろう。あまりに日常的に使いすぎている言葉であり、その意味をあらためて考えたことがない。

これゴミ箱に捨てといて。
明日、燃えるゴミの日だからよろしくね。

日本中、いや世界中で「ゴミ」という言葉(に値する言葉)が毎日使われているはずだ。

広辞苑(第六版)によると、こうある。

「ご・み【塵・芥】①濁水にとけてまじっている泥。②物の役に立たず、ない方がよいもの。ちり。あくた。ほこり。また、つまらないもの。「―を捨てる」「―情報」

①に関しては平家物語からの引用も載っていたが割愛する。私が考えたいのは、おおむね②のほうについてだろう。

しかし、「物の役に立たないもの」「ない方がよいもの」「つまらないもの」では、少々具体性に欠けないだろうか(広辞苑に何か言いたいわけではなく、ここでは具体的に考えたいという話にすぎない)。

そこで、もう少し歩きながら考えてみた。ちなみに広辞苑を引いたのはもちろん帰宅してからである。

②「使われているもの」とは何か?

ゴミとは何か、と具体的に考えてみる。まずは「もう使わないもの」という認識が浮かんだ。広辞苑に載っている語義でいうところの「物の役に立たないもの」に近そうだ。

では、「使われているもの」とは何だろうか。自分が日頃使っているものを思い浮かべてみる。ペン、PC、机、布団、洋服…いろいろとあるが、これらにまず共通するのは「手で触れているもの」だ。手じゃなくてもいいのだが、自分の身体が触れるものは「使われている」といえそうである。

なるほど、これは正しいかもしれない。満足しそうになったところで、思い出した。触れられずとも、使われているものがある

それはぶらぶら外を歩くと目に入る、店や企業の「看板」。チェーン店のものから個人事業主のものまで、しっかりと存在している。これは毎日触れて使うものではないが、その看板の持ち主からすれば「使っている」ものだ。

そこに存在を示したい場所や話題があるかぎり、看板は「使われている」。誰かが無断で取り外して持ち去ってしまったら、持ち主は困るだろう。

③「ないと困るもの」とは何か?

そう、看板が持ち去られたら持ち主は困る。お客さんに「近くまで来てもらえれば大きな看板出てますから!」と電話で説明しても「全然目印がなくてさぁ」と言われてしまう。

そう考えると、「使われているもの」とは「ないと困るもの」なのかもしれない。なるほど。

はて、ないと困る…というのは少しやっかいな気がする。まず主語が問題だ。ここで「困る」の主語は当然人間なわけで、困るか困らないか、という区別には非常に個人差が出る。

ねえ、あの大きい段ボール箱どこにあるか知ってる?
え?昨日ゴミに出しておいたよ。
うそ!あれメル〇リの梱包に使おうと思ってたのに!

自分にとっては「ないと困るもの」でも、別の誰かにとってはそうではない。あるいは、自分にとっては「なくても困らないもの」でも、誰かにとっては「ないと困るもの」…そのような意識の違いはよく見受けられる。

④道具が人を道具的にみる、ことは可能か?

この辺りでもう20分ほど歩いている。そろそろ自分がどこを歩いているか、怪しくなってきた。いつもは歩かない地区を適当に歩いているからだ。私は適当に歩くときほど、歩みが速い。相当遠くまで来てしまったという実感だけはある。

それと同時に、「ゴミとは何か?」という問いから少しずつ沖に流されている気がしてきた。ここらで一度、視点をぐるりと変えてみる必要があるのかもしれない(「ないと困る」の実体を突き詰めようとすると、思い出だとか愛着だとか、散歩中にはとても考えきれない話題を扱うことになりそうだ)。

そもそも、「①ゴミとは何か?」にはじまり「②使われているものとは何か?」、「③ないと困るものとは何か?」まで、すべての主語が人間に限定されているように思う。

つまり道具の視点に立った問いが欠けている(視点をぐるりと変えたいだけ)。

自転車もペンもPCも布団も段ボールも、それら「物」からの視点で「ゴミ」を考えることはできないのだろうか。いわば、道具の視点に立って「人」を見るという考え方である。

何の疑いもなく「新しいペン買っちゃった」「このPC使いやす~い」「布団から出られない時期がやってきた」などと言っている私たち。よく考えたら、「新しいペン買わされちゃった」「PCが私をスムーズに仕事させてる」「布団って、人を寝かせれば寝かせるほど柔らかくなるよね」などとは言わない。道具が主語で、人が目的語という関係性はどこにもないのだろうか。

今日はこのくらいにしておこう。足に疲れを覚えたのとこれから帰り道を考えなければならないのとで、もうゴミについて考える脳が残っていない。


いつかまたゴミについて、人が物をもつこと・手放すことについて考えてみたい。もちろん「道具が人をもつ・手放す」という可能性についても。












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