私が「フィクション」だという可能性について。
常日頃、気になってしまうことがあります。
一度気になってしまうと、そこから抜け出すのに少し時間がかかり、気になりすぎて笑ってしまうことも。
ほかの人は気にならないのだろうか。そんな「他の人が気になっているのかどうかが気になる」のループに陥っていきます。
さらにループに陥っている自分を自覚して、いよいよ気持ち悪いなあ…と思うのです。
今日はそんな、ちょっと話す人を選ぶ…というより、ほとんど誰にも話したことのない「気になること」を書いてみようと思います。
『ZOOM』という絵本をご存知ですか
気になるループの後押しになった存在、それは『ZOOM』です。
オンライン会議ツールのことではありません。
『ZOOM』という絵本があるのです。
表参道の「クレヨンハウス」で見つけました。真っ赤でぱきっとかっこいい表紙に惹かれたのを覚えています。去年の夏のことです。
結果から言うと購入したのですが、その日の目的はギフト用の絵本を何冊か選ぶことだったため、人にあげてしまって手元にはありません。
つまり絵はお見せできないのですが、サイトによっては試し読みできるようです。
『ZOOM』の内容
前置きが長くなりました。絵本と書きましたが、この本に文字はありません。いわゆるグラフィック・ノベルです。
最初はたしか、動物の絵があります。
ページをめくると、その動物を眺めている子どもの後ろ姿の絵がある。めくると、今度は子どもがいる場所を描いた絵が…というように、「どんどん俯瞰していく」展開の絵本です。とてもおもしろいので、いずれ自分用に買おうと思います。
子どもたちは実は〇〇から見た世界で、その〇〇は実は△△から見た世界で…というように、どんどん視点がうしろにうしろに、俯瞰的になっていきます。
いわばタイトルどおり、「ZOOM」の絵本。俯瞰なので、ZOOM OUTというほうがわかりやすいでしょうか。
私が気になってしかたないこと
この絵本は、私が前から気になっていることを加速させました。
それは「この世界は、もしかしたらフィクションなのではないか?」という疑問です。
…あっ、お待ちください。もう少しだけ。あと70行くらいでいいので読んでくれたら嬉しいです。
高校生くらいから気になっていました。
この世界がフィクションじゃないという証拠はどこにあるのだろう?
友人と電話をしているとき、ふと思うのです。この会話は本当に存在するのだろうか…と。
言葉を発したそばから、それらの音があまりに不確かなものに思えてしまいます。
ちゃんと会話は続けますし、こんな疑問を抱いていることを人に悟られたことはないと思いますが、時々こんな衝動にかられるのです。
今、急にまったく関係のないことを話しはじめたら、どうなるだろう。
この世界を見ている「誰か」が外側に存在しているかもしれない。
試しに私が「うえっおいいわくはさかしに?」とか「てひgjgかーそkk」など、この場で意味不明なことを言ってみたら、世界はとたんに音を立てて崩壊するのではないだろうか。ハウルの動く城のように。
こんなことを考えるのは、生まれてからこれまで、あまりにも苦労なく生きてこられたからかもしれません。
たとえば私が鹿だったら、こんなことを考える余裕がないはずです。産まれてすぐに足腰をしゃんとして、1人ではやく歩き始める必要があります。
捕食者に気を付け、食料を探しに行き…という生活を忙しく送っていれば、いつしか充実したその生が終わる。鹿が「この世界が本当に存在するかどうか」を考えていたら、とても怖い気がします。もちろん、あり得ない話ではないのですが。
他の人は気にならないのだろうか?
私も「この世界はフィクションだ」と考えているわけではありません。ともすると危ない人だと思われてしまいそうなので、念を押しておきます。
※危ないという言葉は、上の考えをもとに人へ危害を加えようとしたり、自分を傷つけたりする…といった、命にかかわるリスクを冒すという想定で使っています。深い意味はありません。
私が気になることをもっと正確に言うと、「他の人は『この世界がフィクションではないと言い切れない』ことを感じているだろうか?それとも、そう感じるのは私だけなのだろうか?」だと思います。
もしフィクションだとしたら
もしこの世界がフィクションだったら…と私が考えてみるとき、いくつか妄想が働きます。
私という人間は、誰かがつくったフィクションなのかもしれない。
自分で意思決定しているつもりでも、実は「外側」の誰かがこの世界を舞台とした大きな脚本を書いていて、わたしはそこに登場するキャラクターの1人なのかもしれない。
私が豚汁を大好きなのも、音楽や洋画が好きなのも、そういうキャラクター設定だからなのかもしれない。
好きな映画『ビフォア・サンライズ』や、好きな小説『それからはスープのことばかり考えて暮らした』も、この世界のために、外側の誰かによってあつらえられたキャラクター(リチャード・リンクレイター監督や俳優諸氏、作家・吉田篤弘氏)による作品なのかもしれない。
つまりそれらは、フィクションのなかのフィクションなのかもしれない。
私が楽しんだり悲しんだりしているものは、誰かがそう仕組んだものなのかもしれない。
そんなことを考えてしまうのです。
もしフィクションだとしても
とりとめのない妄想をしていると、どうしたらよいかわからなくなります。
私が選ぼうとしている行動は、本当に私が選んでいるのだろうか。
水を飲もうとコップに伸ばした手さえ、じっと見つめてしまう。この手は、誰の意思で動かしているのでしょうか。わかりません。
壮大なフィクションの中を生きている可能性が、ないとは言い切れない。それを思うと、じっとして動けなくなってしまいます。
こんなことを書いていると、心配してくれる人がいるかもしれません。社会生活を送れているのか?と。
そこは大丈夫です。時々疑問に思いながらも、そんなことは顔に出さず生きてきましたし、これからもできます。おそらく。
顔に出さなかったのに文章にしてしまうわけですが、それくらいのことは誰にでもある話。「好きな人?言えるわけないじゃん!」と言いながら惜しげもなくコテコテの恋愛トークを始めてしまうようなものです。
要らないことも書いていますが、私は「もしこの世界がフィクションだとしても…」と心のなかでつぶやきながら、ご飯をたべて、寝て、働きます。
そう、「気になる」からといって、だから何という話でもないのです。とても現実的な私もいて、生命活動を日々繰り返しています。
でも、翌朝はもう来ないかもしれない。
この世界、この私というフィクションは今日限りかもしれない。そう思いながら毎晩眠りについているのです。
とくにおわらない話
「気になること」を書いてみました。ここまで読んでいる奇特な方は、何を感じていらっしゃるでしょうか。
「明日のご飯なにしようかな」が3人、「もうひとつふたつnote読むか」が2人、「今日は運動した、えらい」が1人くらいではないでしょうか。
私が感じていることはひとつです。
もし外側の誰かが私というキャラクターを今この瞬間も見ているとしたら、いったい何を考えているのだろう。
もし私が気になっているとおりに、実はこの世界をつくっている外側の誰かがいるとして、彼(なんとなく少年のような気がしています。イメージはspecのニノマエ:神木隆之介さん)が今、何を思っているのか。
あっ、ひとり気づいたぞ。
もしかしたら、そう慌てふためいているかもしれません。ふふ。そうだ、私は「自分がフィクションかもしれない」という可能性を感じているぞ。疑いの目でこの世を見ている!
(なにが「ふふ」だ。こいつは本格的にどうかしているぞ…。)
そう思うあなたは、まだ知らないのです。
私たちの共通言語となっている、この日本語という概念も、他の言語も、地球という惑星も、どこかの世界では、もしかしたら映画のセットのように扱われているのかもしれないということを。
「生きる」「死ぬ」という概念は、「クランクイン」「クランクアップ」のようなものかもしれない、ということを。
その寂しさや不思議さを味わいながら、今日もフィクションだったかもしれない1日を終えた私は、そっと眠りに就くのでした。
読んでくださってありがとうございます!