境界線を引くな!

人間はこの混沌とした世界に補助線を引くために今日も境界線を引く。

男、女。障害者、健常者。陰キャ、陽キャ。芸能人、一般人。

分類したほうが理解しやすいし便利だ。

男って。女って。うっわ陰キャじゃん。

嗤うやつは嗤われる覚悟のあるやつだけにして欲しい。

SNSには今日も主語デカ文が飛び交う。

昨今、人間を男女の二項対立だけで分類するのには無理があるということが露呈して久しい。

境界線やカテゴリーなんてものは非常に曖昧だ。

大谷翔平と私を分けるものはなんだろうか?

有名人と一般人?

でも分類を人類という括りにした時、大谷翔平と私は一緒になる。

男だ女だって言ったって、動物という括りにした瞬間に境界線は溶けてなくなる。

もちろん男女の身体の構造には差があって、生物の分類上どうしても違うものだということはわかる。

ただ私が言いたいのはそういうことではない。

境界線を引いて、分類して、分かった気になるなということなのだ。

線を引いたほうが理解しやすい。

なぜならそのほうが簡単だからだ。

でも簡単な方に流されるのが知性ある人間のすることなのか?

ということが言いたいのだ。

この文章を書いている私は統合失調症という障害を抱えてている。

誤解を多分に含んだことを私は今から言う。

wikipediaによると、それは2019年7月18日に起こった。

アニメ制作会社京都アニメーション」の第1スタジオに男Aが侵入し、ガソリンを撒いて放火したことで、Aを含む70人が死傷した。この事件は1938年昭和13年)に発生した津山事件の犠牲者数30人を超えて、戦争を除く、明治時代以降の事件において日本で最多の犠牲者数となっている。

wikipedia

間違いなく歴史に残る大事件だった。

この事件の犯人は、統合失調症なのではないかと言われている。

あくまで言われている。メディアは頑なにそのような報道はしない。なぜなら統合失調症という病気に誤解を生むからだそうだ。

事件の起こった2019年時点。私は就活中に発症した統合失調症の入院から退院してからちょうど1年経った時だった。

いくらマスメディアが統合失調症の名前を隠したところでネットでは統合失調症への罵詈雑言などは検索すればいくらでも出てくる。

私は、京都アニメーション制作の氷菓という作品が大好きだ。

なぜならずっと応援していた作家である米澤穂信さんの作品のアニメ化だからだ。

氷菓が京都アニメーションからアニメ化される前からもちろん京都アニメーションさんの仕事の素晴らしさは知っていた。

でも氷菓という作品の丁寧なアニメ化にその敬意は高まるばかりだった。

私の統合失調症の発症は2018年の就職活動中だった。

私は幻聴や妄想に基づいて、家の近所の大きな公園の管理事務所に侵入し、机を漁り、そこにあったカメラをぶんぶん振り回していたらしい。

その時の記憶は微かにある。今思えば正気の沙汰ではないことはわかる。

でもこの統合失調症という病気は、その人を正気じゃない行動へと走らせてしまう。

京都アニメーションの放火事件とその後のSNSでの情報から犯人が統合失調症ではないかと言われることを知った時、私には他人事では済まなかった。

私が一番よく知っている。

統合失調症という病気はその人をどんな行動へと走らせるかわからないということを知っている。

これは間違った意見だと思う。

だけど、私は、精神鑑定なんてものが、なぜこの世に存在するかと聞かれれば、間違いなくそれは統合失調症という病気がこの世に存在するからだと思う。

何かが間違っていたら、私が京都アニメーションへ放火していてもおかしくなかったのではないかという気持ちが私の中にある。

統合失調症への誤解を生まないために報道しないというのはわかる。

でも、もっとこの病気は認知されるべきなのではないかという思いが私の中にある。

SNSでは明らかに精神状態を損なって、統合失調症の陽性症状を発症しているのではないかという人が「キチガイ」としてSNSに晒され嗤いものにされている光景を何度も見てきた。

私はそのような動画を見るとはらわたが煮えくり返るような怒りを覚える。

でもこれはメディアが、精神医学界が、統合失調症の関係者が、「誤解」を生まないように統合失調症をひた隠しにしてきたからではないか?

この病気が仮に全人類に知れ渡っていたらこんな晒しものにされなくて済むのではないか?

統合失調症を指して、平気で人を殺す病気だという人をSNSで見た。

しかし、実は統合失調症は100人に1人の確立ぐらいで罹るありふれた病気だ。

そして、その統合失調症とそうでない人を分ける境界線は非常に曖昧だ。

これまた誤解を生む発言だが、遺伝的な問題も含むかもしれない。

しかし仮にそうだとしても、とても強いストレスにさらされなければ、この統合失調症という病気は発症しない。

じゃあ、統合失調症になる素養をもっていながら発症しない人とストレスにさらされて統合失調症を発症する人との間にはどのような境界があるのだろうか?

ストレスに身を置く境遇だったかどうかだけではないか?

そんなのはただの運の問題だ。

統合失調症患者と健康な人間の間を分ける境界線が運なのだとしたら、一体なぜそこに差別が生まれるのだ。

私は分類するなと言っているのではない。分類して理解した気になるなと言っているのだ。

障害者と健常者。健常者と統合失調症患者。確かに分ける必要がある。障害者と健常者を分けることで支援が必要な人がわかる。行政の福祉を受けるためにも診断も区別も必要だ。

しかし、同じ人間なのだ。

いまこの文章を書いている私の言っていることはキチガイの戯言なのだろうか?

統合失調症はこうだ。男はこうだ。女はこうだ。

何度でも言う。分類して、それに意見を言うのはとても簡単だ。

しかし、それは人間を見ていない。

同じ病気、同じ性別、同じ人間。

それぞれに過去と現在と未来があり、性格が違い、趣味趣向が違う。

同じ病気だからこういう人だなんてことがなぜ言えるのだ。

統合失調症だったら殺人鬼に必ずなるのか?

もう一度よく考えてから発言して欲しい!!

境界線を引いて、分類して、差別を生むモノ全てを私は憎んでいる。

私の中の発露のままに書き殴った。最後まで読んでくれた変わり者がいたなら心からのお礼を言います。ありがとうございます。




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