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「対話する」時に必要な2つのこと

このnoteは、哲学者と一般人である私との往復書簡のようなやりとりを通して、ネット上での「対話」を試みたい&読者の皆様にも「対話」を提案しようというものです。今回は3回目。哲学者からの返信に私から返します。

●「自分自身でさえ未知である」以前に、私は…

 私の問いかけに対して、いきなりの回答をありがとうございます(笑)。

 はい、私も「対話」と考えていますが、その前に先生が書かれていた「もっとも身近と思われる自分自身でさえ、未知である」ということについて、私もちょっと思うことがあるので、述べさせてください。

 最初の回で、多くの人にわかりやすいように、私は自己紹介的なことを行いました。しかし、そこでも書いた通り、私は自分自身をひと言で表すような、自分自身もしっくりくるような「肩書き」を持っていません。いや、一応便宜的に名乗ってはいますが、無いと相手が困るだろう……くらいのものだったりします。

 正直なことを言わせてもらうと、私は自分が肩書きに合っていないことをわかっていて放置しています。自分が伝えたいメッセージがなるべく正確に届くのなら、自分が何者であっても別に構わず、その理解は相手がするのだろう、くらいに思っているところがあります。

 こうした感覚は、夫との死別後に得ることになりました。どうでもいいと自暴自棄になっているのではなく、夫から託されたこと(先生は「宿題」と書いてくださいましたね)を実行しようとした時、私は私自身が邪魔になったのです。

 ですので、未知であるという以前に、自分自身を知ろう、自分と出会おうということを手放してしまった、と言えるのかなと思いました。私は自分が何者かを知ろうというより、(夫から託されたことを実行するという)自分の役目に集中したいという方を優先した。それは、見方を変えれば、もっとも身近な未知のもの=自分自身からの逃避といえるのかもしれませんね。

 しかし、こうしたことも、先生の言葉があって初めて、自分の感覚を言語化できました。自分では「自分の言葉と出会う」と言っている行為ですが、これも、対話の妙味だなと思います。

●タイトルに示されたスタンスの違い

 さて私は、先生に、「未知のものに向き合うためには、何が必要なのか?」と問いかけました。しかし先生はそれに対して、「未知のものと共にむき合うために」と、タイトルでまずスタンスの違いを示してくださいました。

 私が未知のもの(今だったら新型コロナウイルスもそうですね)に相対しているのに対して、先生は未知のものも一緒になって、何か別のものに向き合おうとされている。問いかけ自体に、すでに違いがあることを示されています。

 これは私の想像ですが、先生が大切にされているだろう「死とともに生きる」ことにもつながる立ち位置のようにも感じました。

 このことについては、これまでリアルでもいろいろ対話してきましたが、私は先生から深くお話を伺っていないと思います。というか、私の中ではまだ消化しきれていない言葉なのかもしれません。ですので、私からはこの点については、ここまでとして、まずは「対話する」とはどういうことなのか、そのことについて自分が思うことを書いていこうと思います。

●「聞くこと」を大切に

 私自身が対話を始めようという時、最初にお願いするのは「聞くことを大切にしよう」ということです。

 新聞、テレビ、SNS……、あらゆるメディアは「私はこうだ」「私はこう思う」という主張ばかりです。SNSの広がりで、さらにそれが加速されてもいます。一見、意見のやりとりが行われているようでも、メディアの特性もあり「あなたはどう思うの?」という、相手に対しての投げかけはほとんどありません。

言ってみれば、意見をぶつけあっているだけ。私をわかってほしい、認めてほしいという、いわば承認欲求がリアルな社会にもネット上にもあふれかえっている。私などは「私を愛してほしい!」という叫びのように感じられる時もあって、その強い念のような毒気に体調を崩してしまうこともあるほどです。

 しかし、対話では、「私はこう思うけれど、あなたはどう思うの?」と、相手からのレスポンス(それは言語に限りませんが)があることが前提であるべきだと思うのです。

なぜなら、やりとりを通して生まれる何かを得ようとすることの方が大事だと思うから。自分の主張を相手に受け入れさせようとする、つまり自分の主張だけで話を終え(させ)るのは、対話においては、むしろ避けるべき振る舞いだと考えています。

●「対等であること」が難しい

 そしてもう1つ、重要なポイントだと思うのは、対話をする相手とは「対等である」ということです。

 でも、正直、これが難しい。たとえば教育現場、たとえば医療現場(それも終末期医療の現場)、たとえば対人支援の現場……そうしたところで、対話をしようと持ちかけるのは、誰でしょうか。

 教えたいという人、救いたいという人、支援したいという人……そうした、相手をなんとかしてあげたいと考える人から、「対話をしよう」と持ちかけることがほとんどではないかと思います。

 でも、そこで行われることは本当に「対話」なのでしょうか。何かを学びたい、救われたい、助けてほしいと思っている相手は、果たしてやりとりを通して生まれる何かを得ようとしているのでしょうか。

 このアンバランスな(と言ってしまいましょう)関係の間では、対話は成立しないと私は考えています。つまり、双方がまず「対話」について理解……まではいかなくても、対話の実践を通して「対等である」ことの心地よさを知っていなければならないと思うのです。

 そうでないと、そもそも対話が成立しません。自分の主張ばかりの人(相手をなんとかしてあげたいと考える人も、私には同様に感じられます)と、相手に何かをしてもらおうとする受け身の人とは、対話が成り立たないと、最近とみに感じています。

 新型コロナウイルスに関連するさまざまにも、そうしたことが感じられませんか? 国と国民、国と都道府県知事、行政機関と住民、あるいは医療と経済……。主張のぶつけ合いばかりが目につき、これでは人の心が荒むばかりだと心配です……。

 と書いているうちに、なかなかの文字量になってしまいました。今回は、この辺りでストップしたいと思います。

 冒頭に、「自分自身でさえ未知である」という先生の言葉から思うことを長々と書いてしまいました。すみません!

でも、ここまで書いてきてふと思ったのです。自分をわかってほしい、認めてほしいという承認欲求は、「自分自身でさえ未知である」ことに起因しているのではないかと。自分で自分のことがわからないから、相手に「教えてほしい」と言っているだけなのではないかと。

 そう思えたら、毒気ような強い念を放出する人も、なんだか可愛らしく思えてきました。そうか、わからないから苦しいんだね、わからないから、確認したくて自分のことばかりを必死に話しているんだね、と。

 しかし、当人にそのことに気づいてもらわないと、対話のスタートラインにも立てないのかなと思い始めてしまいましたが……。



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