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憧れのCEOは一途女子を愛でる 第5話

<第4話 https://note.com/wakaba_natsume/n/n5395412532d0

#創作大賞2024 #恋愛小説部門 #小説 #胸キュン #CEO #頑張る女子 #オフィスラブ

<第5話 自然の中で深まる愛>

 ゴルフウェアの展示の件は翌週末まで検討を重ねた。
 同じ部署の社員にも意見を聞きつつ伊地知部長と相談した結果、レインウェアの展示と場所を入れ替える方向で進めることになった。

「うん、これでいいと思う。香椎さん、お疲れ様」
「みなさんに助けていただいたおかげです」

 部長のデスクのそばでパソコン画面を覗き込み、ホッとしながら頭を下げた。何度も会議を重ねたので、これで今回の問題は解決できると思う。
 吉井店長には先に部長のほうから電話で話をしてくれるそうだ。

「よかったら今夜、ご飯に行くのに付き合ってくれない?」
「はい」

 にっこりと微笑む部長の顔を見て、きっと私を励ますつもりなのだろうと想像がついた。
 部長は以前から、部下へのフォローを忘れない人だから。

 定時になり、デスクの上を片付けて部長と共に会社を出た。
 訪れた場所は、会社の最寄り駅からほど近くにあるオシャレな和食ダイニングのお店だ。
 全席個室になっている空間は和モダンで雰囲気がよく、お刺身や旬野菜の天ぷらなどの料理が絶品で、伊地知部長が気に入っていて私も昔からよく連れてきてもらっている。

「乾杯しましょ」
「お疲れさまです」

 細くて背の高いピルスナーグラスに注がれたビールが届き、軽くグラスを合わせた。
 グラスを持つ部長の細くて長い指が美しいなと見惚れてしまう。

「遠慮なく食べてね」
「ありがとうございます」

 続けてすぐにお刺身の三種盛りが運ばれてきて、部長が「このイカがおいしいのよ」と勧めてくれた。

「反省は忘れちゃいけないけど、落ち込むのは今日で最後にしよう」
「すみません」
「まぁ、そこも香椎さんらしいんだけどね。なんにでも一生懸命で真面目だもの」

 仕事をする上で一生懸命なのは当たり前だから、自分では特に褒められることではないと思っている。
 真面目と言ってくれた部分だって、深く落ち込みすぎるのは欠点のような気がしてならない。

「実は私、あのお客様と知り合いなんです。大学を卒業する直前にいろいろあって……正直に言うと二度と会いたくなかった人だから気持ちが沈んでいました」
「そうだったの」
「それに彼女は対応してくれた社長に対して興味を示していた気がします。恋愛では奔放な人なので、自分勝手に社長に近づいて振り回すかもと考えたらすごく怖くて……」

 そのあたりは社長からなにも聞いていなかったようで、部長はあご元に手をやりながら静かに耳を傾けてくれた。

「社長のことが心配?」
「……はい」
「あら、素直ね。かわいげのない私とは大違い」

 肩までの髪を耳にかけながらフフフと自虐的に笑う部長に対し、私はうなずけなくて小首をかしげた。

「部長は私みたいに不器用じゃないし、いつもスマートで完璧じゃないですか」
「そうでもないよ。プライベートでは全然ダメ。特に恋愛に関しては」

 思い返してみると、入社以来部下としてずっと一緒にいるのに部長のプライベートについてはあまり知らない。
 独身でひとり暮らしをしていて仕事ひとすじ、あとは……酒豪で和食が好き。そのあたりは知っていても、恋愛事情については聞いたことがない。今は恋人はいないみたいだけれど。

「こんな私でも五年前には恋人がいたのよ」

 部長はずいぶんと控えめな言い方をしたが、大人っぽくて素敵な部長を好きになる男性はたくさんいると思う。だから過去に恋人がいたと聞いてもまったく驚かなかった。

「なんであんな人を好きになったのか自分でも不思議なくらいダメな男だった」
「そうなんですか?」
「付き合ってからは私の家によく遊びに来てたんだけど、そのうちお金を貸してほしいって言うようになってね……。最初は一万円、それが三万円になり、五万円に増えていった」

 初めて聞く部長の恋愛話なのに、なんだかこの時点で嫌な予感しかしてこない。私は下唇をギュッと噛みながら真剣に耳を傾けた。

「私もバカでね、言われるがままに貸していたのよ。というか、返してもらってないから貸していたんじゃなくて“渡していた”が正解かな」
「お金の用途は……?」
「仕事を辞めて就活中だから必要だって話だったけど、本当のところはわからない。ほかの女に貢いでたかもしれないよね」

 当時の部長がどれだけ傷ついたかを想像したら、悲しくなって鼻の奥がツンとしてきた。
 どんなに無心されても渡さないほうがいいと、部長も絶対に気付いていたはずだ。だけど断ったら恋人が離れていきそうで怖かったのかもしれない。

「ずっと不安でたまらなかった。この人と私は、お金だけで繋がっている関係なのかなって考えたりしてさ……」

 ケースは違うけれど、見たくないものに蓋をして気付かないふりをしていたあの日の自分と重なった。
 部長もこのとき、純粋な愛情だけで結ばれているわけではないと心のどこかできっとわかっていたのだ。でも認めたくなくて、信じたい気持ちが強かったのだと思う。

「悩んでるときに五十嵐くんに飲みに誘われたの」
「専務に……」
「そのときベロベロに酔って恋人の愚痴を言っちゃったのよ。私は都合のいいATMじゃないぞー、とか」

 酒豪の部長が酔うなんて、どれだけの量のお酒を飲んだのか想像もつかない。そこまで精神的に追い詰められていたのだろうか。

「その発言がきっかけで、私がお金を渡してるって知った五十嵐くんが本気でキレちゃったのよ」
「え、本当ですか?」

 専務はいつも快活なイメージだけれど、私は会社で見聞きする人柄しか知らないから、さすがにこれには驚いて目をむいた。専務が短気な性格だとは到底思えない。

「先輩なにやってるんですか! って怒られ、あきれられて……情けなかった。けどね、そこからが大変だったの」
「大変?」
「その日、五十嵐くんが家まで送ってくれたんだけど、お金を無心しに来た彼と玄関前で鉢合わせしちゃってね。五十嵐くん、彼の胸ぐらを掴んで放さなくて……」

 部長の言葉通りだとすれば、修羅場になっているシーンしか思い浮かんでこない。警察を呼ぶような事態になったのではないかと嫌な展開にまで考えが及んだ。

「今すぐ金を返せ、二度と彼女に近づくな、って凄みの効いた太い声で言ったら、彼は即座にうなずいて逃げ帰ったの。それから連絡が途絶えて音信不通」
「……うわぁ」
「私としては、好きだから別れないって彼が断言しなかったのがショックだった。それ以降待っていても連絡がないし、結局愛されてなかったんだって思い知って現実を受け入れたの」

 話を聞いていたらつらい気持ちが伝染して、胸がいっぱいになった。
 当時の部長は恋人から愛されていると信じていたい反面、冷静に考えれば考えるほど疑う気持ちが湧いてしまったのかもしれない。
 そして、専務はグラグラとして不安定な部長を放っておけなかったのだろう。
 恋は盲目と言うけれど、光が見えないどころか進む道さえ存在しないような恋愛はやめるように、専務が引導を渡して目を覚まさせたのだ。

「そんなことがあったんですね」
「ね? 笑っちゃうくらい全然ダメでしょ? だから未だに五十嵐くんには頭が上がらないの」
「ちなみに、貸したお金のほうは……?」

 言葉にしたあとで余計な質問だったと気付き、部長に対してすみませんと軽く頭を下げる。すると部長は笑みをたたえながら小さく首を横に振った。

「当然戻ってこない。その件は五十嵐くんも気にしてたんだけど、お金を渡した私も悪いから。もういいの」

 予想通りの答えが返ってきて、私にもつらい気持ちが痛いほど伝わった。
 五年の月日が経っているとはいえ、部長の心は大丈夫だろうかと心配になってしまう。

「そのあとしばらくして、ジニアールに来ないかって誘われたのよ。先輩が変な男に引っかからないように俺が見張ります、だって」

 専務はただ単にやさしいのではなくて、先輩後輩という関係以上に部長を大切に思っているのだ。

「五十嵐くんね、ひどいのよ。仕事に集中してください、とか言って無茶な仕事をたくさん振ってきてね。絶対にドSだわ」
「部長が落ち込む暇もないようにと、専務の思いやりですね」

 部長もそこは当然わかっていて、本気でひどい扱いをされたとは感じていないようだ。笑顔で話しているから、ドSだなどと口にしたのはジョークだろう。
 専務としては失恋を早く忘れて立ち直ってもらいたい、その一心だったはず。

「そろそろ次の恋がしたいなぁ。香椎さんは? 社長と真凛さんの熱愛報道を知ったときにすごく悲しそうな顔をしていたし、さっき言ってた知人の件もそうだし……自分の気持ちに気付いてる?」

 伏せ目がちにうつむいていた顔を上げて素直にうなずいた。
 そういえば彩羽にも指摘されたことを思い出し、周りから見れば私はわかりやすく顔や態度に出ているのかと思うと恥ずかしさが込み上げてくる。

「社長は私たち社員が一生懸命に仕事に取り組む姿勢をよく見てくれていますから。本当に素敵な人で、関われば関わるほどどんどん惹かれていく自分がいます」

 本心を言葉にした途端、まずいとばかりにテーブルに額がくっつきそうなほど頭をもたげた。

「私、なにを言ってるんでしょうね。身の程知らずなのはわかってるんですけど」
「不釣り合いだ、って臆してるんだとしたら違うからね。その恋心はぜひ大事にしてほしいな」

 部長がやさしく声をかけてくれて、心が慰められるのを感じた。
 ずっと片思いだろうけれど、それでもあきらめずに好きなままでいてもいいのかな。
 この気持ちを今すぐ封印することはできそうにないのだから――――

 翌日の朝、土曜を迎えて久しぶりに休日だという実感が湧いた。
 仕事が一区切りついたのもあって、今日と明日くらいは仕事から離れて頭を空っぽにするのもいい。
 自室のカーテンを開けるとまぶしいくらい日の光が差していた。心も体もリフレッシュしたくなったので、早めの昼食を取ったあとに散歩に出ようとふと思いつく。

 私は昔から外の空気を吸うのが好きだ。
 海の潮の匂い、川のせせらぎの音、滝から感じるマイナスイオン、霊験あらたかな山の景色、夜空にぽっかりと浮かぶ月……五感の全部で感じたい。
 そのよさをわかっているからこそ、アウトドアを扱うジニアールに就職したいと思ったし、実際に働くことができて幸せだ。

 だけど散歩をするにしても、さすがに山まで行くのは遠い。
 幸い我が家から歩いて行ける距離に大きな川が流れているので、その堤防にあるベンチに座って私はよく河川敷を眺めたりしている。
 子どもがキャッチボールやバドミントンをしていたりと微笑ましい光景が広がっているから気持ちが和むのだ。家を出た私は、今日もそこへ行こうと自然と足が向いた。

 ベンチでぼうっとしていたら、黒と白のコントラストが美しい野鳥が目に止まる。尻尾を上下に動かす仕草がとてもかわいらしい。
 野鳥のわりにはあまり人を怖がらないようで、以前に来たときにスマホで写真を撮ることができた。
 調べたところ、その鳥は“ハクセキレイ”という名前なのだそうだ。
 非常に活発な鳥で、素早く飛び跳ねたりするので見ていて飽きない。
 もっと近くに来てくれないだろうかと願いを込めながら眺めていると、突然左側に人の気配を感じた。

「やっぱりそうだ。見間違いじゃなかった」

 声をかけられたことに驚いて顔を横に向けると、神谷社長が私の隣に腰を下ろすところだった。

「えぇ?! 社長!」
「はは。驚きすぎだろ」

 今日は休日だからスーツではなく、社長はグレーの長袖Tシャツにキャメル色のスリムなチノパンというカジュアルな私服姿なのだけれど、当然似合っていてカッコいい。
 いつも完璧で本当に欠点のない男性だなと、つい見惚れてしまいそうになる。

「どこかに出かけていたんですか?」
「車で走ってたらベンチに座る君が見えた気がしたから来てみた。で、こんなところでなにしてるの?」
「私は……ハクセキレイを観察していました」

 視線を前方に戻すと、彼もそれにつられてハクセキレイを見つけたようで、「ああ、あの小さい鳥……」とつぶやいていた。

「たまにはリフレッシュしたくて。ここは気軽に来れるうってつけの場所なんです。のんびりできるから」

 私が両手を上にあげてストレッチをすると、彼はフフッとやわらかい笑みを浮かべた。

「始末書の件、まだ落ち込んでる?」

 社長からの質問には、少し迷ってから首を横に振る。

「昨夜、伊地知部長にご飯をご馳走になったんですけど、落ち込むのは昨日で最後にすると約束したのでもう大丈夫です」

 始末書には反省の意を示して再発しないよう誓約する意味がある。それを書いたのだから、今後は努力していくのみだ。
 ふと、あのときのことを思い出し、百合菜の顔が脳裏に浮かんだ。
 社長に近づく好機だとばかりに、無遠慮にあとで何度も電話をかけたりしていないだろうか。勝手にそんな心配をしては自然と気持ちが沈んだ。 

「大丈夫そうには見えないけどな」
「……え?」
「今から俺と出かけない?」

 ポカンとしたまましばし固まっていると「なにかほかに用事があった?」と尋ねられたので、「いえいえ!」と言いつつ大げさに手をブンブンと横に振る。
 これはいったいどういう意味のお誘いだろうかと考えていたら頭の中が混乱してきた。

「あのぅ……出かけるってどこにですか?」
「俺が今から行こうとしてた場所。ここもいいけど、もっとリフレッシュできるよ」

 ベンチからすっくと立ちあがった彼が私を見下ろし、長い腕を伸ばして右手を差し出した。
 恐縮しながらもそっと左手を乗せると、やさしく捕まえるように握られる。
 その瞬間、彼を好きだというこの気持ちは止められないと確信した。
好きになっても不毛だと、ずっとブレーキをかけ続けてきたけれど、それももうできそうにない。

「近くの駐車場に車を停めてあるんだ」

 彼が私の手を引いて歩き出す。もしかしたらベンチに座ったまま眠ってしまい、都合のいい夢を見ているのではないかと疑いそうになるが、これは現実だ。

「広い駐車場が空いててよかったよ。狭いところだと停めにくいから」

 屋外にあるコインパーキングまで歩き、入口のところで社長が清算を済ませながらそう言った。
 そのときは意味がわからなかったけれど、彼がキーを操作し、ピピッという音と共に開錠された車を目にした瞬間、私は驚いて一歩も動けなくなった。

「どうした? ……ああ、心配しなくても乗り心地は悪くない」

 そんな心配をしているわけではなく、今は単純に社長が所有している車なのかどうかが気になっている。

「社長は、いつもこれに乗ってるんですか?」
「まさか。アウトドアを楽しむときだけだ」
「ですよね。私、こんな車に乗せてもらうのは初めてで……」

 どうぞ、と助手席のドアを開けてもらったその車はキャンピングカーだった。
 ブラウンと白のツートンカラーで、車の正面には海外メーカーのロゴがある。

「そんなに珍しい?」
「……はい」
「あとで後ろもゆっくり見てみたらいいよ。一応キッチンなんかもあるし」

 きょとんとしつつも促されるがままに助手席のシートに腰を下ろす。それを見届けた彼が運転席へ乗り込み、颯爽と車を発進させた。

「俺がひとりで使うことが多いからデザイン重視で選んだんだ」

 ひと口にキャンピングカーと言っても、今はさまざまな形態があるらしい。
 “バスコン”というバスのような大型のものや、“軽キャンパー”と呼ばれる軽自動車ベースの小型のものまで。
 これはオーソドックスなタイプで、“キャブコン”というのだと彼が教えてくれた。
 そんな情報を聞いているうちに、車は高速道路へ進入していく。

「この車でソロキャンプに行かれてたんですね」
「え? よく知ってるね」
「以前に辰巳さんに聞いたんです」

 優雅に運転する彼の横顔をうかがい見ると、私の話に納得するように小さく笑っていた。
 いつもは視線が合うと恥ずかしくて無意識に逸らせてしまっていたけれど、運転中の今は綺麗な横顔を見放題だとふと気付く。
 シャープな輪郭やスッと通った鼻筋が美しくて、目が離せなくなった。

「そんなに見つめられたら穴が開きそう」

 前を向いたまま突然そう言われ、咄嗟に「すみません」と謝罪の言葉を口にする。
 弁明のしようがなくて、今の私にはそっとうつむくことしかできない。

「どうしてわかったんですか?」
「気配。視線って感じるだろ?」

 バレないだろうと高をくくっていたからバチが当たったのかもしれない。穴があったら入りたいくらい恥ずかしい。

「顔が真っ赤だ。かわいいな」

 運転しながらチラリと顔をこちらに向けた彼がクスクス笑う。私は羞恥と緊張で心臓が爆発しそうだ。

「かわいいとか……からかわないでください」
「からかってないよ。正直な感想。どうせならさ、ちゃんと俺と目を合わせてほしいなぁ。今度は逆に俺が穴が開くほど見つめようか?」
「社長がするのは反則です」

 それにどれほどの威力があるのか、彼は自分ではきっとわかっていない。大半の女性が胸をときめかせるに決まっているのに。
 アハハと声に出して楽しそうに笑っている姿がなんだか新鮮で、さっきまで恥ずかしかった気持ちが次第に消えていった。

「社長でも、冗談を言ったりするんですね」
「楽しいときには。でも……朔也と一緒にいるときはアイツのほうが明るいから、俺が目立たないだけかも」

 朔也と聞いて一瞬誰だろうと考えてしまったけれど、五十嵐専務だ。本当にふたりは仲がいいみたい。
 それよりも、『楽しいときには』と言ってくれたことがうれしくてニヤニヤとした笑みを浮かべてしまう。
 今の会話を素直に受け取ると、彼は今、私といて楽しいと思ってくれているのだから。

 一時間ほど走行したところで車は高速道路から降りて一般道路を進んだ。
 道路標識の地名からするとここはまだ東京のようだけれど、かなり西側までやって来ている。

「もうすぐ着くよ。この先をもっと行ったら奥多摩なんだけど……それは遠いから今日はこの辺りで」
「あ、はい」

 この辺りと言われてもよくわからないなと思いつつ車窓から景色を眺める。
 空気が澄んでいるせいか山の緑が青々としていてとても清々しい。
 身も心も浄化されそうでうっとりしていたら、穏やかに流れる川が視界に入ってきた。太陽の光を浴びた川面がキラキラとしている。

「うわぁ、綺麗……」
「じいさんと何度か釣りをしに来た場所なんだ」

 河川敷まで乗り入れたところで静かに車が停車した。
 外に出てみるとひんやりした空気が心地よくて、私は思わず両手を大きく広げて深呼吸をした。

「本当に素敵なところですね!」
「気に入った? 連れてきてよかったよ」
「私、自然を満喫するのが大好きなんです」
「俺も」

 好みが合う、とはこういうことなのだと実感して心が弾んでくる。その相手が神谷社長ならなおさらで、ひとつでも多くの共通点があればいいのにと密かに願う自分がいた。

「俺ひとりだと思ってたからテントは持ってきてないんだ。オーニングを出そう」

 このキャンピングカーの側面には、サイドオーニングと呼ばれる伸ばしたり閉じたりできる屋根が付いているそうで、彼がクランクハンドルという棒状のアイテムを使って素早く設置してくれた。

「ありがとうございます。すごくキャンプっぽくなりましたね」
「日陰も必要だしね」

 たしかにこれがあると直射日光が防げるので暑さ対策になる。日焼けしたくない女性にもありがたいアイテムだ。
 
「私にもなにか手伝わせてください」
「じゃあ、この椅子を出してくれる?」

 車のバックドアを開けると、トランクの右端に折り畳みのアウトドアチェアが二脚あった。
 その隣にはローテーブルのセットが入っているバッグが見える。当然ながらどちらも我が社の商品だ。
 椅子はリクライニングができ、バックポケットや肘掛けが備わっている。開くだけで簡単に組み立てられるのでストレスなく扱えるとキャンパーから高評価を得ているロングセラー商品だ。
 バッグに収納されていた中身を取り出すと、ローテーブルはロール式天板と折りたたみ式フレームに分かれている。シンプルな木製のデザインだ。
 フレームを広げた上に天板を乗せて固定をするだけなので、彼は慣れた手つきであっという間にセッティングを終えた。

「車の後ろはこんなふうになっているんですね」

 あとで見てみたらいいよと言われていたのでバックドア側からそっと中をうかがうと、足を伸ばして横になれそうなネイビー色のフラットなソファーがあった。
 キャビネットの上にはランタンやバーナー、調理器具が置かれているのが見える。

「これ、乗せっぱなしにしてたけど邪魔だよな」

 私は笑みをたたえつつ即座に首を横に振った。彼が顔をしかめて指を差したのは、車内の頭上に設置されているサーフボードのことだ。

「専務とサーフィンに行ってらっしゃるんですよね」

 私の言葉に彼は小さくうなずき、「それも知ってるのか」と苦笑いを浮かべる。

「朔也は本当にサーフィンが好きだからよく付き合わされるんだよ。あと、冬はスノーボードにも」
「おふたりとも絵になりそうですね。カッコいいんだろうなぁ」
「アクティブすぎる、って伊地知さんにはあきれられてるけど」

 部長なら言いそうだなと容易に想像がついて、思わず声に出してアハハと笑ってしまう。
 そんな私の様子を見て、彼が「笑ってよかった」と小声でつぶやいた。

「え?」
「なんでもない」

 どういう意味なのか気になって尋ねてみたけれど、彼は答えることなく車の中から必要なものを外に出すなどして作業の手を止めなかった。

「コーヒーを淹れよう。自然の中で飲むとうまいんだ」

 とても機嫌がよさそうな彼の顔を見られただけで、私は自然と幸せな気持ちになった。
 この人にはきっと、他人を幸せにする力が備わっている。そばにいるだけで周りを笑顔にできる人なのだと思う。

 ふたり分のお湯を沸かしながら、彼はアウトドア用のコーヒーミルに豆を入れ、手動でぐるぐると回して挽いている。
 インスタントコーヒーだろうと予想していたけれど、実際にはずいぶんと本格的だった。

「すごくおいしいです。ありがとうございます」

 コーヒー特有のかぐわしい香りと味を楽しみ、身も心も癒された。
 たしかに彼が言ったとおり、のんびりとしながら外で飲むから余計においしく感じるのかもしれない。椅子に座っているだけなのに優雅な気分だ。

「川の水、綺麗ですね」
「ここは上流だからな。近くで見てみる?」

 笑顔でうなずいて椅子から立ち上がり、小さな石がごろごろとしている河川敷を歩いて川のそばへ赴く。
 流れている水は驚くほど透明度が高くて、まさに水紫山明(すいしさんめい)だ。夏は足を着けたら冷たくて気持ちよさそう。

「魚もいるんですよね?」

 私のあとを追ってやってきた彼へ上半身だけ振り返って尋ねると、コクリとうなずいてくれた。

「渓流釣りは私はやったことがないけど、すごく楽しそう」
「それ、うちのじいさんの前では言わないほうがいい。絶対に一緒に行こうって誘われるから」
「よろこんで行きますよ」

 辰巳さんが満面の笑みで手招きする姿を想像したら、なんだかほっこりとした気持ちになった。
 やっぱりアウトドアは心が躍る。それを実感しながら働けている今の環境に感謝するのを忘れないでいたい。

「それなら俺とふたりで行こう。釣りでもバーベキューでも」
「え?」
「ふたりは嫌?」

 好きな男性に誘われて嫌なわけがない。私はあれこれ考えるよりも先に首をブンブンと横に振って否定をした。
 半分冗談で言ったのか、彼が私の反応を見ながら楽しそうに笑っている。

「じいさんたちが画策したせいで見合いさせられたような感じだったけど、俺は君と会社以外で繋がれてよかったと思ってる」
「私も、です」

 ある意味祖父たちのおかげで、雲の上の存在だった彼とこうして出かけることができているのだ。
 強引に引き合わされた形だったものの、今となっては私もふたりには感謝している。彼も同じ気持ちでいてくれているようでうれしい。

「“水きよければ月宿る”っていうことわざ、知ってる?」
「……いえ」
「水が澄んでいれば月がきれいに映るように、心に汚れがない人には神仏の恵みがあるっていう例えらしい。この川の流れを見ていたら、まさに君のことだなって思った」

 なんて素敵な言葉を紡ぐ人なのだろうと、胸がキュンとして仕方がない。この感動を、ずっと頭の中に記憶しておきたい。

「ありがとうございます。過大評価されてる気がしますけど……」
「君はとても真っすぐで、俺にはキラキラして見える」

 うれしくてぼうっとしていたら、不意に彼と視線が交錯した。
 あわてて目を逸らした途端、彼が私の腕に触れ、その行為に驚いてそのまま視線を戻してしまった。

「目を逸らすな」

 腕を引き寄せられて、ふたりの距離がぐっと近くなる。
 そう意識したら、これ以上ないくらいに心臓がドキドキと痛いくらいに鼓動した。

「あの……」

 目力のある瞳で射貫かれる中、蚊の鳴くような小さな声を出した。
 なにも考えられないでいると、ゆっくりと彼の端整な顔が近づいてきて唇と唇が重なった。

 ふわふわした状態で心を奪われて……こんなに幸せなキスは生まれて初めてだ。

 どうしてキスをされたのかはわからない。
 だけど神様がくれたプレゼントだと思って、この幸せを一秒でも長くかみしめていたい。

<第6話 https://note.com/wakaba_natsume/n/n90a57ae715fe

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