見出し画像

がんばってきただけじゃなく闘ってきた

昨日は大阪で仕事をしたあと、大学時代の恩師の家に友人二人と新年会に行く予定で大阪梅田のとある百貨店に寄った。手土産を買うためである。新年の百貨店はとにかく人が多かった。正月らしく雅楽が鳴り響く店内、その人の波をかき分けて地下の食料品売り場にたどり着いた。

この食料品売り場は二十数年前に大学を卒業したばかりのわたしが働いていた場所である。ふと気になって古巣を覗いてみた。すると餅ばなで彩られたケースの上に「花びら餅」があるではないか。「花びら餅」というのは羽二重餅に味噌餡とごぼうとにんじんをのせくるりと巻いた新春の和菓子である。上品な甘さと羽二重持ちの柔らかさがお気に入りの理由だ。わたしはこれをみんなに食べてほしいと思い、本当はおつまみになるチーズを持っていく予定だったのだが、急遽、「花びら餅」を買っていくことにした。

その日の店頭には、ここで働いていた当時先輩だったTさんがいた。Tさんはわたしよりも3歳くらい年上だったと思う。少し痩せていたけれど、当時とあまり変わりはなかった。向こうも同じだったようで「変わらへんね?すぐわかったよ。日本にいるの?」と聞いてきた。ここを辞めた後で中国へ行ったのでわたしには海外というイメージがあるようだった。わたしは質問されるままに答え、会話は当時働いていた同僚たちのことになった。菓子箱を包装してもらいながら、当時の思い出などを話す。そういえば、退職して以来Tさんに会うのは初めてかもしれない。ものすごく懐かしんでくれて喜んでくれたのでここに来て良かったなと思った。Tさんは「わたし、まだここにいるねん」と少し恥ずかしそうに苦笑した。

「それは別に恥ずかしいことじゃないやん」と思った。もちろん口には出さなかった。TさんにはTさんの20年があったはずだ。わたしだって、もしかしたらTさんのようにずっとあの会社で働いていたかもしれない。でも、わたしは会社を辞めて、日本語教師になった。結婚をし出産した。自分が過ごしてきた20年をあんなふうに人に恥じたりはしないし、したくない。それはなぜなんだろうと考えた時、わたしはただ頑張ってきただけじゃない。闘ってきたんだと思った。何と闘ってきたか? 社会が自分を見る目や周りに押し付けられるこうあるべきという見えない呪い、自意識過剰なくせに自堕落で他者評価を求める割に努力できない自分と、だ。

ふと、あの会社を辞めようとした24歳のわたしが、二十数年後の今のわたしをみたらどう思うかなと考えた。きっと「良かった。今思い描いているような45歳になっている」と思うに違いない。それだけではなく、今のわたしも二十年前の自分に「その決断をしてくれてありがとう」と心から思っている。「ここまで来られたのはあの時の決断のおかげだよ」と。最初の会社を辞めるときに、わたしはわたしの人生をつくると覚悟を決めたのだと思う。その時の気持ちは人生で出会う様々な出来事によって上書きされていった。自分の人生を、自分で作ること、自由に生きること。あの時は正社員という仕事から自由になった。今のわたしは「他人の見る目」から自由になると決意した。今のこの決意が二十年後のわたしをきっと変えているはずだ。今のわたしは65歳のわたしに会うことはできないけれど、65歳のわたしを今のわたしが作っていることには違いない。わたしはこれからも闘い続けるし、それを楽しむつもりでいる。

Tさんは、菓子箱を包み終え「今は紙袋、有料やねん」と一瞬、申し訳なさそうな顔をした。そのすぐ後に「また来てね」と紙袋を手渡してくれた。わたしはしっかりと受け取り「ありがとうございます」と微笑んだ。覚悟すれば人生は変化する。その変化は楽しいものだ。わたしは足取り軽く、JR大阪駅に向かって歩き出した。

サポートよろしくお願いいたします。 サポートいただけたら、大好きな映画をみて、 感想を書こうと思います。