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社会的距離と感情

見せなくてはいけないものがあってお客さんに近づいた。隣に並んでスマホの画面を見せようとした。お客さんは、慌ててマスクをした口元を手でおさえて一歩下がった。そして言った。「離れて」と。冷静に考えれば、これはとても自然なことで、ある意味において正しい行動だ。なのに、なぜ私はこんなに「いやな」気持ちになったのだろう。

今、世の中では「社会的距離」という言葉が力を持っていて、コロナの感染拡大を防ぐために、人と人との距離を2メートルあけようということになっている。私にとって「距離」というものは、相手との間柄や関係性を理解するため、あるいは揺さぶるために用いる、ひとつの道具のようなものである。親しい人といれば自然と距離は近くなる。用事があるときは、距離を縮めて話すことによって伝達内容とそれに付随する感情を共有しようとしている。

高校生の頃、授業中に近づいてくる先生に緊張したのは、その先生に対して苦手意識を感じていたからで、私の望む距離感が歪むことに居心地の悪さを感じていたのだと思う。逆に、木曜日に初めてキャンパスで授業を受けて、入学前から憧れていた教授と初めて同じ空間を共有した時、これ以上近づきたくないと思ったのは、その教授に対する憧れとか尊敬とかそういう気持ちが「今の自分のままでは近づけない」という思いを引き起こしたからだと思う。

同じ2メートルでも、安心したり物たりなさを感じたり、緊張したりするのは、距離というものを主観的なものさしとしているからだ。「社会的距離」は、関係の調整を難しくさせた。相手との親密さを感じさせる要素を、機械的なものにさせてしまった。

というよりも、「社会的距離」は機械的なものを、機械的なものとして扱うようになったというべきだろう。今まで、他人ととっていたその場限りのコミュニケーションから、「距離感を探る」という気遣いあるいは社交性のようなものを取り除き、「距離」というものを固定的で無機質なものとして扱うようになった。

私が「いやな」気持ちになったのは、コロナ対策としての公的な「距離」と、コミュニケーションとしての私的な感情が関わる「距離」を、私自身がうまく区別できていなかったからだ。つまり、「距離」をめぐって公私混同をしていたのだ。仕事の場において、言い換えれば「店員と客」という枠の中において、その「距離」に無意識的に親しさを見出そうとしていた。

これからの社会を生きる私たちに求められていることは、公私をわきまえること、もっと言えば公私をわきまえる潔さなのではないだろうか。

私にとって「公」とは、ラベル同士の付き合いのことであり、「私」とは個人としての付き合いのことだ。この定義に従えば、電車の中は「公」である。そこで私はwakayamuである前に「女子大生」であり、まわりの人は「サラリーマン」「高校生」「高齢者」「お姉さん」「カップル」などとなる。名前を知らなくても何にも困らないような場合、そこで保たれるべきは「公」としての「距離」だ。

お店も同様に「公」だ。そこにはただ「店員」と「客」がいるだけだからだ。接客業で、どんなに「お客様に寄り添う姿勢」や「フレンドリーな接客」が求められていたとしても、それが経済活動を行うためのその場限りの関係である以上、そこで保たれるべきは公的な「距離」なのだ。

「距離」というものが大きな力を持つようになって、今まで以上にあからさまに相手との関係性を割り切って考えることが要求されているような感覚を覚える。コロナの感染拡大で、人との付き合い方について私たちはかなりシビアになった。つながっていたいけれど、人と離れることが自分と相手を守ることになるのだから。つながりを必要最低限にするために、大切なものを守るために、切り捨てなければいけないものもあるのだ。

でも、こんな世の中だからこそ、優しさを大事にしたいし、割り切った関係の中でも思いやりは忘れないでいたい。思いやりがあるからこそ、割り切ることが必要なのだ。距離と感情、付き合い方と感情がイコールで結ばれる関係性が崩れてしまった新しい世界で、穏やかにそして健康に生きていくために。近づかないけれど、近づきたい。そういう気持ちを根本に持って他人と接すること。それを両者が心得ていること。内面的な成長と成熟が大事になってくる社会。そういう社会で、優しさを忘れない大人として、生活できるように。

私たちの生活者としての「大人っぽさ」がためされているのかもしれない。

(2020/11/14 大人っぽい匂いのアロマオイルのおかげでいい匂いになった部屋で書いている。)

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