やがて絶望する恋

エストニアの首都タリンにクム美術館という現代美術館がある。旧市街から東側へ少し離れた場所にあり、花々が美しく咲くガドリオルグ公園を抜けた先の小高い丘に位置している。ちなみにガドリオルグ公園はロシアのピョートル大帝が妃のために作らせた庭園で、その真ん中にガドリオルグ宮殿という思いの外こじんまりとした、でも装飾はしっかりデコラティブなバロック形式の宮殿がある。

平日の昼間だからかクム美術館の入場客はほとんどいない。特に見たいものがあったわけではないので、なんともなしに絵画を眺めながら館内を歩いていると建物の隅のある一角にたどり着いた。そこは頭像だけがずらーっと並べられた展示コーナーだった。フロア面だけでなく、2階まで吹き抜けになっている高い壁面にまで頭像が何十体も飾られている。老若男女、ハイドンみたいな昔の人からさっき庭園で見かけたはしゃいで走り回る男の子のような現代人の頭像まで年代も様々だ。部屋に一歩足を踏み入れるとコソコソと話し声が聞こえた。大人の声、子供の声、男性の声、女性の声。街の雑踏みたいに色んな声がわたしの頭の中に語りかけてくる。頭像たちがおしゃべりをしているのだ。


例えばこの中のひとりに恋をしたら。


毎週日曜日の朝、わたしは100ユーロで購入した年間パスを片手にクム美術館へ行く。1回8ユーロだと考えると週に1回通って3ヶ月でペイできるのでお得だ。こんな週末を過ごすようになって2ヶ月経った。
見慣れた展示ゾーンを足早に抜けてあの人が待つ建物の隅にある展示室へ向かう。建物の外壁の形に沿って三角形に尖ったその小部屋には頭像が部屋一面に並べられている。頭像なので首から上しかない。それが何十体と設置されているのだ。奇妙な展示室だ。でもわたしは、この中のひとりに恋をしている。
展示室に足を踏み入れると頭像たちの声が一斉に耳に入ってくる。ヒソヒソと話す声もこれだけの人数がいると重なり合って大きな波のうねりのような響きになる。このざわめきの中に、わたしは愛しい人の声を探す。実を言うと、わたしはあの人の声を知らない。ハイドンやガンジーに似た頭像たちの横をすり抜けて彼に近づいていく。部屋に入ってから彼に近づくこの間わたしの目は彼に釘付けだ。おしゃべりは絶え間なく聞こえるのに彼の唇は一向に動かない。わたしの耳は必死に雑踏をかき分けて彼の声にたどり着こうとしているのに、もしかしたらこの中に彼の声はないかもしれない。絶望的な気持ちになりながら彼の前にやってきた。
今日は喋りたくない気分なの?わたしはそっと彼の唇に手を伸ばそうとした。腕が自分のものじゃないみたいに重たい。わたしの胸元くらいにある彼の顔に手を伸ばすのはとても簡単はなずなのに、まるで筋肉が全部削げ落ちてしまったように動きに力が入らない。

頭の後ろからコツコツというヒールの音が聞こえた。
ショートカットを緑と青に染めた学芸員がヒールの音を閑散とした館内に響かせて見回りに来たのだ。わたしはまた絶望的な気持ちになる。わたしたちがもし普通のカップルだったら、相手の顔に手を重ねていたってただ見回りが来ただけでその手をパッと振りほどくことはしないだろう。

「たしか先週もいらしてましたよね?」
「えぇ。この展示が気に入っているんです。なんて言っていいのかわからないけど、なんだか目が離せなくて。」

彼の唇に伸ばしかけていた手を背中の後ろでぎゅっと握りしめて答えた。少しの間、頭像のおしゃべりだけが部屋に響いていた。わたしは自分の発言が急に恥ずかしくなってきた。今のセリフ、まるでこの中の誰かに恋をしているみたいに聞こえたかも知れない。学芸員の足元のあたりに目を伏せた。ヒールに目の粗い網タイツを履いているその先を目線で辿ると膝上丈のタイトスカートが健康的な太ももにぴったり張り付いていた。わたしはまた絶望的な気持ちになる。彼女のセクシーな魅力に嫉妬しているのだ。学芸員をしているぐらいだからきっと知的な魅力も持ち合わせているのだろう。それでいてわたしの愛しい人とわたしよりもずっと長い時間を共に過ごしている。

「わたしも同感です。」

そのセリフを聞いた瞬間、カーッと体が熱くなるのを感じた。後ろ手に組んだ腕をあわててほどき腕時計に目をやる。

「もう行かないと。家族とランチなの。」
「日曜日ですものね。」

スニーカーの靴底をペタペタと響かせながら彼女の横を通り抜けようとしたそのとき、ざわめきに飲み込まれそうな声でわたしに囁いた。

「首から下もあるご家族?」

見慣れた展示が走馬灯のようにわたしの後ろに流れていく。広いスロープを下ってエントランスに降り重い扉を開けて外に出た。目の前にはよく手入れされた庭園が広がっている。短い夏がまだ終わりたくないと叫んでいるように緯度の高い地域特有の日差しがジリジリと照りつける。わたしは年間チケットをビリビリに破いた。それをジーンズのポケットにねじ込むと、観光客の集団に紛れ込んでガドリオルグ宮殿へ続く散歩道を歩きはじめた。

という妄想を美術館にいる間じゅうしていた。

このエッセイは有料設定ですが全文公開しています。もし気に入ったら投げ銭をお願いします。

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?