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【短編小説】和女食堂・明太クリームパスタ

まさか自分が双子を産むとは思わなかった。26歳ぐらいで結婚して、30歳までに2人ぐらい子どもが産まれたらと漠然と思い描いていたのだけれど。

現実は違った。新卒で上場企業に入社し、会社の上司と不倫して、彼が離婚をして、わたしも奥さんに慰謝料を払い、やっと一緒になれたのは30歳のとき。

わたしは会社を辞めて、すぐにでも子どもを産んで育てたかったのに、なかなかできずに33歳を迎え、念のためにと病院に行ったら不妊体質と言われた。

それから不妊治療を始めて、幸いなことに2度目のチャレンジで着床し、双子を授かった。

「34歳で双子の母になるのか」

おなかの奥底から湧き起こる、重い幸福感と不安感。幸せと不安と、どちらが大きいのかさえわからない日々。

結婚以来、実の両親とはうまくいっていない。この状態で、頼ることもできず。義父母とはさらに険悪。前の奥さんのことをとても気に入っていたらしい。

なんとか頼み込んで、実妹の助けを借りて出産の日を迎えた。

帝王切開。これも自分の人生で全くの想定外。出産後、4日ほどは痛みのあまり動くこともできず。それでも双子の赤ちゃんを見ると強い喜びで満たされたものだ。

傷の痛みも癒えないうちに退院して、日中はずっと赤ちゃんたちと過ごしてる。幸せだなと思うけど、ふと世界から取り残されているような気持ちになる瞬間がある。

大人と話す機会がほとんどない。ママ友という名の知り合いは少しいるけど、本音を話したくはない。昔からの友人たちに連絡するのも少し気が引ける。

結婚の経緯に関してイヤな顔をする人は意外にもいなかった。けれども半数の友人は子どもがもう小学生か、または子どもがいない既婚者。半数は独身でバリバリ働いてる。双子ママの愚痴なんて聞く暇がないでしょう。

夫は毎日食べるものを買って、なるべく早く帰ってきてくれる。交代で食事して、赤ちゃんの世話をして、赤ちゃんの話をして寝る。夜泣きして何度も起きる。一人が寝るともう一人が起きる。これがずっと続く。

「僕が見てるから、ちょっと一人で食事にでも行ってきたら?」

日曜日の午後、夫がそう言った。嬉しいけど、あまり知り合いに会いたくない。ボロボロなんだもの。そもそもレストランは駅のほうまで行かないとない。

「池上通り沿いのマンションで、女の人が一人でやってる食堂があるらしいよ。行ってみれば?」

目の前にいる夫がLINEでURLを送ってくれた。そんなのあるんだ。知らなかった。食べログに一人で行った人のレビューも出てる。ここなら平気そうかな。

【お品書き】 
豚明太子冷やし蕎麦 400円
豚キュウリのそうめん 400円
明太クリームパスタ 350円
ミートソース 200円
牛丼 450円
チーズカナッペ 80円
もり蕎麦 200円
おにぎり 10円
たぬきおにぎり 30円
梅パルミジャーノおにぎり 100円
ネギたまごチャーハン 120円
愛の野菜スープ 150円
ゆでたレタス 30円
梅干しと小ネギのお吸い物 80円
味噌汁(玉ねぎ、あおさ)60円
麦茶 20円
アイスオレンジティー 40円
セブンイレブンの五三カステラ 160円

「いらっしゃいませ! お白湯をどうぞー」

女性の店主さんが、ぬるめのお白湯を持ってきてくれた。夫はゆっくりしておいでと言ったけれど、早く食べて帰らないと赤ちゃんたちが泣いてしまう。ミルクのあげ方が違うみたいで、わたしじゃないとすぐ愚図る。

「早くできるものはどれですか?」

「そうですなー。明太クリームパスタ?」

「じゃあそれをお願いします」

わずかな待ち時間に、座ったまま寝てしまった。独身時代は、いくつもの眠れない夜に悩んでいたというのに。今は一瞬でも多く寝たい。

「お待たせしましたー。ソッコーで作りました。でも美味しいよ」

「あっ、ありがとうございます。ふう、寝ちゃった」

「赤ちゃん産まれたばかりとかですか? 大変ですよね」

「あ、そうです。女の子の双子で。すごくかわいいけど、寝る時間ないんですよね」

「すっごくがんばってますよね。おつかれさまです。さあ美味しく召し上がれ」

そう言うと、お茶を持ってきてくれた。

両手が自由になって、座ってフォークで食事に集中するなんて久しぶりな気がする。完母の人だと明太子は食べられないのかな。そのぐらいは平気なんだろうか。

わたしは母乳が出ない。好きなものを食べられるけど、少し寂しい。

「お家近いんですか? サミットにお買い物とか来ます?」

「来ます来ます。いつもサミットです。双子ベビーカーを見かけたらわたしです」

「そうなんだ! 見つけたら声かけていいですか?」

「もちろん、嬉しいです」

「今度もし良かったら赤ちゃんたちと来てくださいよー。赤ちゃんが来るとウチにいる神様がお喜びになるんですよ」

双子を連れてこれるレストランが近所にあるなんて、思いもしなかった。でも、ウチにいる神様って? 宗教?

「あー。伊勢神宮の場所を決めた倭姫さんていう、日本神道の神様がわたしの守護霊さんなんですよ。あそこにある神棚に倭姫宮さんのお札をお祀りしてるんですけどね、赤ちゃんがくると嬉しいみたいなんです。それだけ」

伊勢神宮には一度だけ行ったことがある。結婚1周年記念の旅行で。赤ちゃんを授かりますようにってお祈りしたっけ。

伊勢神宮にはお願いごとはしてはいけないって言う人もいるけど、赤ちゃんは国が栄える源でしょう? わたしはお願いして良かったと思ってる。

「いつでもいらしてくださいね。和室にソファがあるから、赤ちゃんを寝かせてもいいし、座布団を並べて自由に使っていただいても平気ですよ。畳ででお食事もできるし」

テーブルの向かいに見えるあの六畳ぐらいのスペースを自由に使わせてもらえるなら、少し気分転換できそう。たまには自宅以外の場所に行きたい。

「ありがとうございます。お言葉に甘えて、今度は双子と一緒におじゃまします」

「お待ちしてますよ! タイミング合えば旦那さんもいつかご一緒に。あと、たまにはまたお一人で」

ほんの30分ほどのわたしの休憩時間。明太クリームパスタはさっぱりとして美味しく、添えられたバジルの香りがレストランぽくて素敵だった。

空が見えて、光がまぶしくて、いつものサミットが真下に見えて、なんだかリフレッシュした気分。

「ごちそうさまでした。ではまた」

「はい、サミットで先に会うかな?」

久しぶりに一人の人として誰かと話した気がした。お母さんになれたのは最高に嬉しいけど、お母さんである前に自分は一人の人間なんだなと思い出す。

そう思ったらなぜか、夫と子どもへの愛を改めて実感した。わたしは一人の人として、夫を愛し、子どもを慈しみ育てている。

今、34歳の自分がこんなにも幸せだということを、ずっと覚えていたいと思った。暑い夏の太陽の眩しさとともに。

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