見出し画像

【短編小説】和女食堂・スペアリブの塩スープ


日本に来て6年が経った。

僕はアメリカ北西部で生まれ育ち、いわゆるアイビーリーグと呼ばれる大学を卒業し、シリコンバレーにある世界中の誰もが知るIT企業に入社した。

大学時代からの恋人もシリコンバレーの同業他社に入社し、パワーカップルと呼ばれた。人生は順風満帆で、何も怖いものはないように思えた。

26歳で彼女と結婚、28歳でヘッドハントされて年収が2倍になった。僕と同レベルで自信満々のメンバーが集うベンチャー企業だったが、CEOが突然精神的にダウンして求心力を失い、あっという間に解散。

いくらでも転職の道は開けたが、このタイミングで期限を決めずに休むことにした。ちょっとのつもりで。行き先を決めずに世界を旅する中、何の気なしに立ち寄った日本に心を奪われた。

礼儀正しい人々、美味しい食事、美しい街並み、穏やかな気候、清潔感のある暮らし、治安の良さ。それに、思ったよりも外国人が多かった。白人の僕が歩いていても、ときどき小学生に「外人だ!」と言われる程度だ。

妻に、「一年ほど日本で過ごしたい」と告げると、「あなたにはそうする権利がある。わたしにも自分の人生を選ぶ権利がある」と言われた。完全にドロップアウトしたと思われたようだ。そんなつもりはなかったが。

それならばと、思い切って東京でIT企業に入社した。英語で仕事をできる企業は東京にいくらでもある。アメリカと比べたら年収は下がるが、専門型裁量労働制の働き方を選んだ。東京で一人暮らしするには十分以上だ。

そんな暮らしを始めたら、節約することに楽しみを見出してしまった。日本人の多くは慎ましい生活をしている。僕もそれに倣い、シンプルで清潔な暮らしに憧れ、実生活に反映させた。

独学で日本語の勉強を始め、今ではほとんど不自由なく会話できる。少しだけ漢字は苦手だけれど。

節約と利便性のバランスを考え、僕が選んだ住む街は大森だ。都心に近く、物価が安く、家賃も高くはない。あらゆる種の商店が立ち並び、特に混雑しすぎることもない。

普段は簡単な炒めものや煮物を自炊している。でもときどき、お手本が食べたくなる。和食の味付けは複雑で、レシピ通りに作ってもそれが正解なのかどうかわからない。

特に助かるのは、ごく普通の家庭料理を出してくれるお店だ。ちょうど僕の家の近くに、そんなレストランがある。和女食堂さん。いつもお世話になっています。

【お品書き】 
スペアリブの塩スープ 450円
冷やしたぬき蕎麦 300円
冷やしたぬきそうめん 300円
カニカマねぎたまごそうめん炒め 200円
とろけるちくわチーズ 200円
豚キムチチーズ 400円
貧乏人のパスタ 150円
グリーンリーフサラダ 80円
ツナマヨネーズ海苔焼きうどん 200円
カレーライス 200円
もり蕎麦 200円
おにぎり 10円
おかかクリームチーズおにぎり 80円
ゆでたまご 50円
たまごサンド 100円
味噌汁(玉ねぎ、あおさ)60円
ごはん 10円
麦茶 20円
アイスベリーティー 40円
薄焼き煎餅クリームチーズサンド 100円

「おー、ハローマイケル。ハワユ」

「元気ですー。ワジョサンは?」

「いつも元気に決まってら」

和女さんの日本語は少し早口で勢いがある。ご先祖さんは江戸っ子だと聞いた。「本物の江戸弁はこんなもんじゃねんだい」と彼女は言う。ところどころ口調が落語家さんみたいで興味深い。

常連の僕は、大抵メニューの一番上にある料理を頼む。あとは和女さんにおすすめの組み合わせを選んでもらう。

「今日はスペアリブの塩スープとおかかクリームチーズおにぎりの組み合わせがおすすめちゃんよ」

「ではそちらをお願いします。和女さんのおすすめのお茶もください」

「はいよー。ベリーティーがいいね」

スープが温まってきたら、なんとも良い出汁の香りが漂いだした。具材はスペアリブ
でもこれは完全に和食なのだろう。アメリカではこんなに穏やかで複雑な出汁の香りを嗅いだことがない。

「お待たせ。これはね、一晩寝かせた昆布出汁で作ったんよ。あとは日本酒とお塩だけ。めっちゃ自信作。どうぞ」

昆布出汁か。僕にはいまだに使い方がわからない。鰹出汁はなんとか取れるようになったのだけれど。

ひと口いただくと、濃厚な旨みに襲われた。うますぎる! 昆布出汁よ、お前は! なぜにこんなにうまいのか!

「ワジョサーン、とても美味しいです。ありがとう」

「昆布ちゃんありがとうだよね。あ、そうだ。こんぶ土居の煮昆布を少し持っていく? お水につけて、最短で10分、理想的には3時間、余裕があれば一晩そのまま置いといて。調理スタートで点火して、沸騰直前で昆布を取り出せばOKよ。そのまま煮ちゃっても別に平気よ。難しくはない」

難しくないのか。しかしその先に昆布出汁をどう使うのかもわからない。

「お味噌汁にしてもいいし、葉物野菜と肉を入れれば鍋になるよ。今日みたいに日本酒とお塩で豚肉か鶏肉を煮ても美味しいし。一番簡単なのは湯豆腐かな。昆布出汁にお豆腐を入れて、温まったら出来上がり。お豆腐にかつおぶしをのせて、お醤油かポン酢をつけて食べると和食の代表選手です」

和女さんはいつも、一番簡単な料理をささっと教えてくれる。いつも作るとは限らないけど、気が向いて作ってみるととても美味しい。僕の料理の先生だ。

「やってみます。湯豆腐。覚えたよ」

サミットでお豆腐を買って帰ろう。

「ありがとうございます! 650円です」

ドアを出てすぐにその場で、和女さんに教わった昆布出汁の取り方と湯豆腐の作り方をスマホにメモし始めた。

すると、ドアの向こうで和女さんが持ち歩いているスマホからYouTubeの音がかすかに聞こえてきた。

「What’s popping! How are you guys doing? Let’s get this started!」

英会話チャンネル?? 和女さん、英語の勉強してるのかな。僕の前ではいつも完全にカタカナ発音でハワユしか言わないけど。

それならば、いつも料理を教えてもらってるお礼にミニミニ英会話レッスンなんてどうだろう。今度控えめに提案してみようか。丁寧な日本語で。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?