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夢中の散り椿

私は「椿」と名乗るモダンな少女と知り合いになった。
ある日、四ツ谷にある数百年続くという洋館へと招待された。

入口は和風の作りで、黒く厳めしい檻のような鉄の門の上には大きな一本松が凭れ掛かっていた。私は門を開くときの重さと冷たさ、手のひらに二、三付着した赤茶色の錆を今でも覚えている。

白やピンク色、疎らに咲いた躑躅の丸く丁寧に整えられた数メートルほどの植木通りを進むと、マーブル模様の石畳が洋館への一本道を示していた。その両脇には白いギリシャ様式の柱が等間隔で置かれており、その上に据えられた盆栽は、そのどれもが逞しくうねり上がる見事なものだった。

盆栽から目を離すと、その奥には馬小屋や井戸が見え、薄茶色のエプロンをつけた数人のメイド達が世話しなく働いている。
はて、今日は休日だったか?

洋館の中に入ると、一人のメイドが事務的に私を「椿の間」へと案内した。
部屋というよりは机や椅子もなく、広間のようで、マホガニーの床はニスが塗られたてで赤く輝き、椿をモチーフとした幾何学模様が施された天鵞絨製の絨毯が敷かれていた。入り口の向かい側にある大きな窓からは、イタリア式の迷路のように入り組んだ庭とその中心には四角いプールのような池が見える。
広間に視線を戻すと、天井は高く、百合の花が連なった形状のシャンデリアから発せられる暖色の光が部屋を穏やかな空気で満たしている。中央には鉄製のワイヤーをぐるぐると巻いて作られた、白鳥の羽ばたきを真似た少女のバレリーナを模したオブジェが置かれており、瑞々しさを湛えた一輪の椿の花が、髪飾りの位置に真っ赤に咲いていた。
 
「大変長いことお待ちしておりました。つまらない場所だけど、秘密を隠すにはうってつけの場所ですわ。」
「桜は好きじゃないの。水たまりに浮かぶ百合の花は雅でしょう?桜の花びらだと醜いわ。儚いものは好きよ。私がおばさんになったら殺して頂戴。いくら可愛いおばさんだからって構わないでよね。血が紅いうちに死にたいの」
「ねえ、椿の花びらのように紅い血…フフフ」
 
私は一連の彼女の声を聴いた。部屋中に彼女の笑い声が響き、とうとう姿を現さなかった。
 

数年前に見たこの夢を未だ鮮明に憶えている。この記憶だけが他の夢と違い、現実に融解せずに形を残していることに対し、どこか特別な感情があった。いつも私は眠りにつく前、彼女に再会できることを心のどこかで期待していた。

終に夢の中の彼女達は私に背を向け、勿体ぶった速度で、数えきれないほど多くの扉を開けて出て行ってしまった。私は割れた三面鏡に映る彼女の長い黒髪の後姿が豆粒のように小さくなって無くなってしまうまで、こちらに振向いてくれることを期待していた。
 
彼女の瞳、声色、髪の匂いなどはもうとっくに忘れてしまった。あの時の記憶はあの時のままで、現実との間に大きな乖離を残しながら、恐ろしいほどの速度で遠ざかっていく。記憶を組み替えて仮初の記憶を捏造しても、それは孤独の輪郭をより鮮明にすることでしかない。
 
ある時は夢の中の視線、ある時は覚醒後の煩悶。彼女は夢と現実の境界から溶け出し、あらゆる空間から溢れ出す。普段何気ない日常の風景、自室の本棚が彼を見つめている。
 
私は第三者としてその哀れな男を見つめる。呆れと諦念と多少の愛おしさとで。
絶え間なく記憶を塗り替える粘性のヴィーナス、腕を捥がれ、足は捻じれてもそっけない態度で私をいつまでも殺さない。
 
つまり私は出口のない渦の構造へと飛び込んだのだ。虚空を形作る極彩色のレトリックの中へ。
 
「ずっと孤独でいてね。」
ふと、彼女の幼い声が頭の中に響いた。
 

#眠れない夜に
#2000字のホラー


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