デフォルマシオン・オブ・ウォーター➂

 三日が経った。男は依然として浴槽の中でくさくさしていた。会社からの連絡は頻繁に来ていたが、一向に出るつもりはなかった。食料は二日目の夜に底を尽いた。男はもう水の張った棺で死を待つだけの存在になっていた。エラによる変化のおかげか、水温の低さは気にならなかった。男は浴室のタイルを眺めながら、過去の出来事を想い返したり、空想したりしてはふと現実に戻り、胸を重くしていた。

 インターホンが鳴った。

 突然のことに哀れな男は驚き、浴槽から顔を出した。〈誰だか分らないが、概ね会社の上司だろう。連絡がつかなくなった事にしびれを切らしてやってきたに違いない。もう俺に構わないでくれ〉水の中に沈み、相手がいなくなるのを待った。インターホンはつづけて二度鳴らされ、三度目が鳴った後、郵便受けに何か入れられた音がした。男は玄関まで駈け出してそれを確認しに行った。郵便受けを見ると、二日分の新聞やチラシが積み上げられた上に、一冊の青い本が入っていた。表紙に海と星の描かれたその詩集は確かに覚えのあるものだった。一年ほど前、大学時代の友人に貸したもので、さっき来たのは友人だったのだ!男は玄関を開け周囲を見渡したが、その姿はもう見当たらなかった。
 浴槽に戻り、詩集を眺めるようにページをめくった。彼は自分の身に起こったもう一つの異変に気が付いた。詩をいくら読んでも昔のように情景が思い浮かんでこないのだ。文字が文字のまま頭の中を通りすぎて行くだけで、読めば読むほど文字がゲシュタルト崩壊を起こし、しまいには紙の臭いに嫌気がさして詩集を投げ捨ててしまった。空腹による苛立ちか、苛立ちが空腹を浮き彫りにするのか、彼はふてくされて水の底で目を瞑った。
 夜になった気がした。さらに時が経ち、朝になった気がした。ずっと目を閉じていた。そろそろ夜になっただろうか、この小鳥のさえずりは早朝を告げているのだろうか。瞼を閉じても感じるこの光は昼の日か電光か、耳をつんざく鋭い音は夜の風か耳鳴りか。

外部の因果と内部の因果が混ざり合って、水の底に落ちてゆく...

【続く】

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