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エッセイ その時

 老いて痴呆が進んだ父を引き取ってから始まった奇妙な同居生活も、何だかんだと言ううちに、一ヶ月を越えた。(※ 2012年)
 
 父を人間として一切認めない潔癖性で、民芸系の陶器よりもウェッジウッドを好む、現在長期別居中の妻が、わざわざこんな古民家を訪ねてくるはずがないうえに、ここは、いまだ携帯電話が圏外なこともあり、非常に安らかな環境が維持できている。

 認知症以前に、父はもともと極度のわがままと癇癪持ち故、それなりの苦労やストレスはあるが、根が図太い私にとっては、さほどたいしたことではないのも、正直なところではある。

 ただ、家事の量が激増したことには閉口する。

 大量の薬をきちんと服用する必要性から、三度の食事を定刻に欠かさず用意しなければならないし、メニューの内容も、自分一人の場合のように、あるものでチャッチャッと適当にでは、なかなか済ませるわけにはいかない。

 食事を作れば後片付けも発生する。
 その前に、食材の買い出しを必要とする。

 もちろん複雑な組み合わせの薬の管理と、数種類の病院に通う段取り及び車での送迎は、はなから必須である。

 買物にせよ通院にせよ、私が棲む佐々並は、すこぶる辺鄙な地であるから、どこへ行くにも、最低でも片道30分……つまりひとたびエンジンをかけて外出すれば、確実に一時間以上が消えてなくなるのだ。

 辺鄙だという件に関しては、誰にも文句が言えない。
 自分が望んだ結果だからである。
 自然豊かで静かな場所で、自分自身を掘り下げたい……といえばカッコイイが、どうせ長年暮した都会の雑踏から地方都市に下ったのだから、いっそのこと、とことん田舎暮らしをしてみたいと、自分の人生に欲をだしただけである。

 佐々並という地は、萩と山口のちょうど中間に位置する。
 中間だから、どちらにでも行けるが、同時にどちらからも離れているということを意味する。

 元は毛利の殿様が参勤交代で利用した、萩往還という旧道の宿場町として栄えた。

 江戸から戻った殿様は、城にはいる寸前の最後の宿として、この地に床をとり、ゆっくり休んだあと、翌日颯爽と萩城に入ったという。 

 谷あいの標高300メートルの地に、その昔天領であった棚田が散在し、日本の原風景らしき風情をふんだんにかもしだしている。

「さぞ、静かでしょう」

 と、よく人から言われるが、案外そうでもない。

 清らかな川のせせらぎが24時間、BGMとして流れる。

 早朝は、鶯の独唱から始まり、さまざまな野鳥の歌合戦で盛り上がる。

 また夕方から夜間は、田んぼやその奥の川辺で、さかんにカエルがオーケストラの練習をする。
 しかも山口のカエルのように一種類ではないようで、微妙に異なる声質やキーやコード進行で、重なり合って響いてくるから、素敵に贅沢である。

 あの声がカジカだと教えられても、私にはさっぱりわからない。夜空を見上げて星座を教えられた時と、感覚が似ている。

 私はまだこの地で秋を迎えたことがないが、秋の夜長の虫の声を想像するだけで、今から笑いがとまらない。

 さて、何かと父の世話をしていると、自分の思考が具象一辺倒になってしまう。

 これが最も厄介な問題である。

 時間だけではなく、その延長ですべてのペースが狂ってしまった。
 どうあがいても、頭が創造的にならない。
 ということは、私の場合、仕事に大きく支障をきたすということになる。

 どんなことがあっても、最低、1か月に1曲は書き下ろさねばならないのだ。もちろん、なんにもないところから生み出さねばならない。

 父が熟睡している隙を狙って、家を飛び出し、一人で温泉に浸る。

 町中に出て、洒落た喫茶店でカプチーノをすする。

 隣接する音楽堂で、フルボリュームでレコードをかける。

 読みかけの本を、一気に読む。

 それで、いい感じになってきたと思った頃に、決まって夕食の時間が来てしまい、すべては水泡に帰すのだ。
 
 万策尽きて、わかっていても、最もしたくないことに手を染めてしまう。

 自分の過去にすがるのである。

 自分自身でさえ忘れてしまっている書きかけの文章や、歌詞のネタなどを、パソコンのあちらこちらを開いて発掘する。
 なんとなく蛸の足喰いに似ているが、やめられない。

 そして、ついに手頃なものを見つけた。

 それは、そもそも無題で、日記か詩か歌詞かさえ不明であった。
 自分で書いたことは間違いないが、周辺の記憶を一切喪失している。

 私も父のことを言えないなと、苦笑いをしながら、なんとか記憶の糸をたぐろうと思ったが、書いた日付もわからない。

 ファイルの日時は、それを開いた瞬間に更新されてしまったようだ。
 
  どんなに平凡な息吹も
  艶っぽい吐息にかわることがある
  その時を見逃さずに
  すくいとることが肝心だ
  夢を見ていたとしても
  夢がきらめいているとは限らない
  問題は夢のセンスだ
  夢にも 
  良い出来と悪い出来がある
  駄作がかなっても 
  ほとんど意味がないのだ
 
  どろどろの毎日に腰痛が重なって
  逃げ出すにも立ち上がれない
  悔しい思いが風呂からあふれて
  大量のお湯が涙に変わった
  
  お前には何も見えないだろうが
  お前には一生見えないだろうが
  こっちからは丸見えだ
 
 
 自分で言いながら「お前」とは、私のことであると思われる。
 こういうパターンで、そう仕込むのは、昔からの自分の癖であるからだ。

 この文字が、その後形になっていないということは、私がどこかで捨て置いたということである。
 けれども素材や構成を詩的にとらえれば、決して粗悪品ではない。
 ということは、当時の私が、生理的に排除したのだろうと推測できる。
 
 その時の感情が、はたして、痛かったのか? 臭かったのか?

 いずれにせよ、その時は自分の排泄物のように、忌み嫌ったに違いない。
 その排泄物が、思いのほか今の私にとって心地よいから世の中捨てたものじゃない。

 今の私を、過去の私が見つめていた。
 しかも、丸見えだと大胆に言い放つ。
 その過去の私が、冒頭に強く指導している。
 
「どんなに平凡な息吹も、艶っぽい吐息にかわることがある。その時を見逃さずに、すくいとることが肝心だ」
 
 そのとおりだ。

 よし、今日から焦らず、気を静めて、その時をじっくり待ってみよう。
 
 私の声が聞こえたのか、鶯が、

「そう、それがいい」と、歌った。
 
 

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