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品とはなにか、上品さはなにを示しているのか?

はろーこんばんわ。

友人が職場に皇族が来る、
下品な人は室蘭送りになる。

そんなことを言っていました。

というわけで、
そんな彼女のために
祖母が昔園遊会に行ったわたしが
品について書いていこうと思います。

ちなみに、
祖母に品性というものは
存在しません。

※わりかし誰でも行ける

今回の記事の概要は

・品とは資本力の表れである

・それと直結しないのは、
 そうでないように見せかけているから





◆そもそも品とはなんなのか


上品とか下品とか、
そういうことを言うまえに
まずは定義をきちんとしておく必要があります。

自分の感覚だけでモノを言うのは、
論とはなりえませんからね。

とりあえず、
まずは辞書を引いてみましょう。

ひん せい [1] 【品性】
(1) 人柄。品位。 「―下劣な男」
(2) 〔倫〕 道徳的価値としての性格。 〔character の訳語〕
ひと がら [0] 【人柄】 (名・形動) [文]ナリ
(1) 自然に感じ取られる人の性質や品格。じんぴん。 「―がいい」 「―を見る」
(2) 品格がすぐれている・こと(さま)。 「おとなしやかで,―で,利発なお方と思ひしのみ/当世書生気質逍遥」 「目の清らかな,眉の濃い,二十八九の―な兄哥(あにい)で/歌行灯鏡花」
ひん い -ゐ [1] 【品位】
(1) 見る人が自然に尊敬したくなるような気高さ,おごそかさ。品。 「―が身にそなわる」 「―に欠ける」
(2) 金銀の地金や金貨銀貨の中に含まれる金・銀の割合。 「金貨の―が落ちる」 (3) 鉱石中の金属の割合。 「―の高い鉱石」
ひん かく [0]
【品格】 その物から感じられるおごそかさ。品位。 「―を保つ」 「―が劣る」
[19:49]
おごそか [2] 【厳か】 (形動) [文]ナリ
いかめしく,近づきにくいさま。威儀正しく威厳があるさま。 「―に儀式をとりおこなう」 「―な雰囲気」
ひん 【品】 [0] (名)
人や物にそなわる性質のうち,自然と外にあらわれる,好ましい,洗練された様子。品格。風格。 「―がよい」 「―が悪い」 「―がある」 「―がない」

だそうです。

なんだかよくわかりにくいので、
適当にまとめると
品の定義は

・自然と好まれる
 またはオシャレな感じ

しかし、
なんだか世間一般で使われてる上品さという
言葉と少しズレがあるように思えませんか?

確かに好まれる感じ、
オシャレさ洒脱さ、
洗練された感じというのは
品があるように思えます。

でも、
言葉遣いが上品といったような言葉には
そういった意味合いではなく

・場に合った適切な言葉を使う

つまり

・公の言葉を使える

そういった意味合いの方が
強いように感じます。

これがそう感じるのには

・オシャレさや洗練されたという
 言葉がわかっていないから

この話はあとでするとして、
品という言葉の定義を
もう一度直して書きましょう。

・洗練されている、
 好ましいと他者が思えるモノ


◆品はなぜ好まれるのか


品の定義はわかりましたが、
なぜそれが品と言われて
持っている人はよいとされるのでしょう。

それは

・品がある人は資本を持っているから

テーブルマナーとかそういったものは、
貴族のみが持ち得るものでした。

なぜそれを貴族が持っているかというと、
たくさん肉を食べる機会があり、
そしてそれを他者にふるまうような機会があったからです。

そのために、
衛生の手法として、
また他者との差別化を図る要因として
テーブルマナーが生まれました。

また、
衣服にお金をかけられるのは
生活に困窮しておらず、
裕福な人だけです。

ピアノが習えるのも
クラシック音楽を堪能できるのも
たくさん読書ができるのも、
裕福な人だけ。

一部今の情勢とあってないものもありますが、
世の中で上品と呼ばれるものは
資本の見せびらかしという側面が、
非常に強い。

それを資本の見せびらかしではなく、
努力により身についた技能と
偽装されたものが品性

これら品があるとされるものは、
習得に時間がかかるものです。

ですからもっている人と、
そうではない人で差が付きます。

そしてそれゆえに、
資本がある人しか
持ち得ることができません。

言葉遣いといったものも、
教育・訓練をされなければ
品があるといったものよりも
より欲求にそったものを
直接的に表現する方へ向かいます。

しかしこの、
資本を時間に変換することで
直接的な資本の見せびらかしにならず、
世の中において平等の表現となる
努力によって身についた技能とみられる。

実際には資本
(お金、もしくはそれがあることによって身についた、受け継がれた嗜好)
によって、それらは習得され得たものなのですが。

変換され偽装されているので、
好ましく思われます。

またセンス、
オシャレさ洗練さのように、
生得的に持ち得る能力かのように
表現されるのにも関わらず、
それが好ましく思われるのは
誰にでも持ち得た可能性があり、
身分や階級から持ち得たものではないように
思われるからです。

もしそれらであるように思われているなら、
成金のように嫌われたでしょう。

しかし実際には、
資本を技能へと変換しているのですが。

成金は資本を時間に変え切れていないから
金銭的な資本を見せびらかすしかなく、
ゆえにそれしか資本がないから
好ましく思われない。

ただ資本をみせびらかしては、
他者の体面を傷つけますから。

つまるところ、
生得的に見える技能ですら
資本を変換したものであるというのが事実です。

大谷翔平はマンダラチャートをやっていたから
大谷翔平になれたのではなく
それを実行できるような資本があったから
大谷翔平になれたというのが事実です。

生得的に野球選手に向いていたのではなく
家庭環境、周囲の環境により
野球選手となれた。

そうではない、
それは大谷翔平個人の気質であると
いったふうに受け止めるのは、
まんまと偽装に引っかかっています。


これでは、
わたしたちは
品を磨くことができないように思えますよね。

しかしそんなことはないので、
ちょっと磨く方法を考えましょう。


◆品性は余裕をみせること


お腹がとても空いた人は、
ごはんをひたすらガツガツと
流しこむように食べるでしょう。

しかし、
お腹が空いていない人であれば
ゆっくりと食べます。

テーブルマナーを思い出してみましょう。

それにはたくさんの決められた動作があり、
守るのはとても大変です。

また、
日本ではそうではありませんが
中国やミャンマーは、
食べ物を残すことが品とつながります。

これらの違いは、
お腹が空いていなかったり
食事自体が食べなれたものであることで
ガツガツと食べる気にならない、
もしくは食べなくていいからといった
余裕があるからこそ
テーブルマナーを守ったり、
残すことができます。

先ほども書いたように、
品があるとされることは
大抵資本があり、
生活が豊かであったり
時間的な余裕がなければできません。

だからこそ、
欲求を抑えた振る舞いが
できるとも言えます。

これらのことを踏まえて、
改めて品の定義を書くと

・欲求を抑えて、
 他者を思いやった行動ができること

これであれば、
尊敬される、好まれるといった
辞書の定義とも合致しますね。

性的な話題が下品なのは、
性的な欲求が強いように思われたり、
公ではタブーとされる
話題を取り扱って
公の言葉、他者からの見られ方を
知らないように思われるから。

友人はうん〇の話を職場でしたいと
言ってましたが、
そんな小学生みたいな話題は、
欲求を抑えられない
小学生のようにとられるので
下品な会話であって、
それは皇族がいようがいまいが
職場でしたらそういうやつにみられるでしょう。

ちなみに女性がそういう話をすると

・同性の友達あまりいなさそう

・付き合ってきた男の質が悪そう

といったように、
女性からは思われます。

男性はそういうモノなので、
男性的な価値観によっているということで
そう判断をされてしまう。

それに相手の男性は、
女性扱いしていないからこそ
品のないふるまいをその人の前でする。
また、
その人自体に
女性らしさみたいなモノを期待していない。

だから、
そういう話ができるし
好むのだなと思われてしまいます。


◆なぜニートには品性がないのか


ところで、
余裕の出で立ちが品であり、
品性であるのなら
なぜニートにはそれがない人が多いのでしょう。

見た目に気を遣わず、
ただ寝ているだけみたいなのが
ニートの世間一般イメージです。

なぜ、
そういったイメージをおわされているのでしょう?

その理由は

・彼らは余裕を失わされているから

この国での美学は、
勤労奉仕であり
勤勉であることです。

ニートはそれに対して
真逆の姿勢をとっているため、
常に周りからせっつかれます。

それによって、
余裕が失わるから
彼らには有り余る時間があるのに
品を身に着ける余裕が持てない。

ただ働いていないこと、
それが許されない。

また、
働いていないことは
他者に奉仕をしようとしないと
現代ではみなされてしまいがちです。

それによって、
そもそも品があると
思われないかもしれないでしょう。

加えて家庭で、
品があると思われるようなことに
興味付けがされ、
働かなくてもいいという
経済的余裕、資本が
品への資本へと変換されなかったことも
ニートが品を持たないゆえんです。


◆終わりに


品のある行いをするには、
欲求を抑えることに
なにか楽しみを見つけられなければなりません。

ウン〇とか言わずに、
むしろそれを言っている人たちを
上品な言葉でボコるみたいなことに
気持ちよさを感じなければならない。

でも、
それは時間をかけて教育されたり
自らが身に着けてなにかを得られると
思わなければ難しいでしょう。

わたしは友人は、
おとなしく室蘭に行ったほうが
楽しく過ごせると思います。

所詮品なんて、
資本の見せびらかしですからね。

それを好ましく思ってしまうのは、
人間の脆弱さを感じます。

それではまた。

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