オンライン授業の誤解と幻想(7)
前回、「対面授業原理主義」や「オンライン授業=対面授業の代用品」という考え方を見直し、「対面授業+オンライン授業」を初期値として考える発想の転換が必要である、と述べました。
今回は、最終回として、オンライン授業に対する世間の批判をどうとらえたらよいのかについて考えます。ポイントは以下の通りです。
・コロナ禍によるオンライン授業とキャンパス閉鎖を理由に、大学を退学していはいけない。
・「大学に行く価値がなくなった」という意見があるが、大学の機能の一部が一時的に停止しているだけで、大学そのものの価値は低下しない。
・授業料返還は誰も幸せにしない。
・SNS上の極端な大学批判を鵜呑みにしてはいけない。
・SNSによって増幅される「分断の罠」に気をつけなければ、大学と社会、大学と学生・保護者の関係が悪化するばかりである。
コロナで大学を退学していはいけない
8月19日、立命館大学新聞は「秋学期の授業に向けたアンケート」の結果を発表しました。それによると、立命館大学生の4人に1人が秋学期以降の休学を考えており、約10%が退学を検討しているとのことです。
ただし、調査と記事の担当者は、正確なサンプリングができていないこともあり、数字だけがひとり歩きすることを懸念しています。サンプリング上の制約はあるものの、休学・退学を検討している人は、オンライン授業に不満を感じ、全面対面授業を希望している傾向があるようです。
大学のキャンパスが閉鎖され、オンライン授業が行われるなか、SNSでは「大学に行く価値がない」という内容の発言がみられるようになりました。
特に新入生の場合、入学してはじめての授業がオンラインで、新しい友達をつくる機会もないままに四か月を過ごしたわけですから、気分がふさぐのも無理はありません。だからといって、学生諸君は、すぐに退学するという決断をしないでください。
もしコロナの影響で家計が苦しいという皆さんは、大学独自の給付金・奨学金、文科省の「学びの継続」のための『学生支援緊急給付金』や日本学生支援機構の「給付奨学金(家計急変)」など、さまざまな支援制度をぜひ活用してください。
退学を決しておすすめしない理由は二つあります。ひとつは、退学したあとの生活を具体的に描いていないとすれば、現在よりもさらに孤独でつらい生活が待っているからです。もちろん、いまよりも良い生き方があると納得できるのなら、退学を選ぶのもしかたありません。もうひとつの理由は、コロナがある程度おさまって大学が正常化したとき、もし退学してしまっていたら、せっかく手に入れた大学で学ぶ権利を失ってしまうからです。そのときは、また大学に入りなおせばよいと考えるかもしれませんが、そのためには別の手間やお金が必要になります。さらに、今回のコロナ禍のような状況がおこれば、入りなおした大学でも、また同じことが起こるはずです。
オンライン授業で大学の価値は低下したか?
さて、SNS等でみられる「大学に行く価値がない」という意見は、具体的には何を意味するのでしょうか。この言葉には、オンライン授業に対する不満とキャンパスで友達との交流ができないことへの不満の二つが含まれているといえます。
前者は、オンライン授業が「まがいもの」あるいは対面授業の「代用品」であるという考えともあいまって、オンライン授業を対面授業よりも一段劣るものとしてみる傾向と関係します。また、普段からの授業の「うまい/へた」が、教員のコンピュータ・リテラシーの有無によって増幅されます(もちろん、オンライン授業によって、対面授業ではわからなかった「うまさ」を発揮する教員もいます)。そのため、学生にとって「へた」な授業は、オンライン授業でさらに「へた」にみえてしまい、場合によっては「手を抜いている」ともとられかねません。その結果、オンライン授業に対する不満も高まります。
一方、キャンパスで友達との交流ができないことへの不満は理解しやすいものです。たしかに、サークル・クラブ活動ができないということは、学生生活の楽しみのひとつがなくなるわけですから、当然、不満も高まります。また、図書館やパソコン等の施設・備品を使えないことへの不満もあるでしょう。
このように、二種類の不安があいまって、学生たちが思い描く「キャンパスライフ」が一時的に崩壊したことが、「大学に行く価値がない」という意見につながったと考えられます。
しかし、大学そのものの価値がなくなったとは思いません。正確にいえば、大学の機能の一部が一時的に停止しているだけです。そのことが大学自体の価値を低下させるものではありません。
では、大学の価値とは何でしょうか。様々な意見があると思いますが、私は「学びの増幅装置」としての役割に大学の価値があると考えます。大学教員のなかには、学校基本法の第83条をもちだして、「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究」することが大学の目的だ、という人もいます。たしかに知識を授けることも大事ですが、大学は「人・モノ・コト(出来事)」との出会いを通して、学生を学びに導く場でもあります。「学び」というのは大げさなことではなく、また特定の科目や分野に関わらず、日々の「気づき」や「疑問」から広がる「面白い」「もっと知りたい」という態度や行動のことです。その「学び」を増幅する「仕掛け」としてキャンパスという「プラットフォーム」があるのです。
もちろん、学生たちはそのように思っていないでしょうが、日常生活のなかの「居場所」のひとつである、キャンパスという「プラットフォーム」を奪われたことに対する不安・不満が、今回、大学に対する不満となってあらわれたと考えればよいでしょう。
人は何かを失ったときに、その大切さに気づきます。学生諸君も「居場所」「プラットフォーム」としての大学の大切さに気づいたはずです。その意味で、コロナの収束後は、いままで以上に大学を活用してもらいたいものです。
授業料返還は誰も幸せにしない
さて、オンライン授業に対する不満と大学の施設を使うことができないことへの不満は、授業料の返還を求める声にもつながっています。大学生をもつ親ならば、心情的に理解できるかもしれません。
しかし、たとえ一部でも大学が授業料を返還することは、学生と大学の双方にとって決してよい結果を生みません。もし、授業料の一部が返還されれば、不満をもつ学生・保護者は、一時的に気が晴れるでしょう。しかし、授業料を返還する前例ができると、またコロナを含めた感染症が拡大して、大学がキャンパス閉鎖とオンライン授業を行うようになったとき、大学は授業料を返還せざるをえなくなります。その先にあるのは大学倒産です。
これは冗談でいっているのではありません。私立大学の収入の約7割は授業料です。もし、感染症拡大でキャンパス閉鎖のたびに授業料を返還していたら、マンモス大学と一部の私立大学のぞいて、多くの大学で倒産するリスクが高まります。そうなると、せっかく入学した大学も、卒業して何年後かには消滅している可能性があります。母校が消滅することは、決して学生にとってもよいことではないでしょう。
もちろん、大学経営を維持するために学生・保護者が授業料を払っているわけではありません。しかし、授業料収入が激減すると、諸管理経費さらには人件費を削減することになります。そうなると、教育の質も落ちざるをえません。「そこは経営努力で何とかしろ」といわれても、やがて何ともできない局面をむかえることになります。つまり、授業料の返還は、学生・保護者と大学の双方にとって、よい結果をもたらさないはずです。
このようにいうと、大学人が保身でいっているのではないか、と思われるかもしれませんが、当然、大学側にも授業料を返還しないことについての説明責任があります。
早稲田大学は、全国でオンライン授業がはじまった早い段階で、学生と保護者向けに「早稲田大学の学費に関する考え方について」という田中愛治総長のメッセージを公表しました。そのなかで、各種支援金制度を用意したうえで、授業料・実験実習費は減免しない方針を明らかにしました。そして、授業料等は、全学生に還元できるような教育環境の整備にあてることを明確に示しました。
学生・保護者に納得してもらうためには、各大学が情報発信し、授業料をどのように学生に還元するのかを説明する必要があります。また、オンライン授業に対する不満に対しても、学生の声に耳を傾けて、真摯に対応する必要があります。
たとえば、国際基督教大学の「2020年春学期 オンライン授業に関するンライン授業に関する学生アンケートまとめ」は、学生から寄せられた改善要望に対して、詳細な解決策を提示しています。これくらい丁寧なフィードバックが、各大学にも求められるでしょう。そうでなければ、学生・保護者の不安・不満ばかりがつのることになります。
「分断の罠」に気をつけろ
いま、様々なところで「分断」がおきています。「医療従事者/非医療従事者」「コロナ感染者/非感染者」、大学に関連していえば「非常勤教員/専任教員」「大学/学生・保護者」といった分断です。
物理的な接触を断たれて、正確な情報が伝わらず、他者についての想像力がはたらかないところでは、差別・憎悪・不信感がうまれます。
つい先日も、「高校までは登校を再開したのに、大学だけが学生をキャンパスから締め出して、学生の学ぶ機会を奪っている」という趣旨の発言をした政治家がいました。また、「大学はクラスターをだして責任を取りたくないからキャンパスを閉鎖している」という内容のツイッターの書き込みもありました。
別に、大学は責任を取りたくないからキャンパスを閉鎖しているわけではありません。大教室にぎゅうぎゅうに学生を詰め込んで、何の感染対策もせずにクラスターが発生したら話は別ですが、万全の対策をしていても感染リスクはゼロではありません。大学で感染者がでた場合、いったいどう責任を取ればよいというのでしょうか。現実には、責任など誰にも取れません。重要なのは、万全な感染対策と感染者が出た場合の適切な処置でしょう。
先の政治家の発言にしても、高校までのクラス制と大学の授業形態は根本的に違いますし、キャンパスでの滞在人数、滞在時間、通学圏の広さなど、大学特有の状況について理解しているとは思えません。もちろん、知っていながらの政治的発言(アピール)かもしれませんが。
実際、後期の授業にむけて、多くの大学では、教室での着席方法や学内施設の利用方法等について、気の遠くなるようなシミュレーションをしています。私の勤務する大学では、オンライン授業に加えて、1年から4年のゼミナールは対面授業にして、すくなくとも週1回はキャンパスで教員と学生、学生同士が顔をあわせる機会をつくる予定です。
オンライン授業については、相変わらず根強い「大学過剰論・大学無用論・大学不要論」とあいまって、SNS上に極端な発言がみられます。たとえば、「大学の授業が全部オンラインですむのなら大学はひとつだけでよい」「知識はインターネットで学べるから大学は不要だ」などというものです。
コロナ禍でしかたなくオンライン授業を実施しているだけで、大学を全部オンラインにしようなどとは、誰も考えていません。また、すでに述べたように、大学の重要な機能は、知識の伝達に加えて「学びの増幅装置」です。学生が求めているのも、オンライン上の討論ではなく、対面での人間の関わりであり、それを可能にするキャンパスという「プラットフォーム」です。
また、「知識はインターネットで学べるから大学は不要だ」という意見には、すでに別のところでふれたように、みんなが独学できるという「独学幻想」があります。いくら役に立つ無料のコンテンツがインターネットにあふれているとしても、どれだけの人がそれを有効に活用しているでしょうか。書店のビジネス書のコーナーに「独学」をテーマにした本が多く並んでいるのは、独学できない人が世間に多いことの裏返しです。そう考えると、「学びの増幅装置」としての大学の価値は色あせません。
コロナ禍で、大学に向けられる視線は、ますます冷たくなってきました。以前から、「大学過剰論・大学無用論・大学不要論」という三つが社会に根強く存在します。これについては『大学論に誤解と幻想』で詳しく書きました。この三つの大学論を背景にして、SNSをはじめ様々なメディアで大学を批判する意見が多くみられます。
「分断」というのは、誰かが仕掛けた「罠」ではありません。しかし、はからずもSNS等が「分断」を増幅させています。先に紹介したような極端な意見でも、感情的にフィットすれば、人々はその意見に飲み込まれていきます。この意図せざる「分断の罠」に気をつけなければ、大学と社会、大学と学生・保護者の関係は悪化するばかりです。
このことを訴えて、「オンライン授業の誤解と幻想」の連載を終えたいと思います。
「オンライン授業の誤解と幻想(7)」(了)
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