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三つの大学論:その誤解と幻想(3)

今回は、「三つの大学論:その誤解と幻想」の最後として、「大学不要論」についてお話します。前回までの「大学過剰論」「大学無用論」とあわせてお読みください。なお、詳細は『大学論の誤解と幻想』の序章「大学論を語るまえに」をご覧ください。

◆大学不要論――大学はいらない

 大学不要論には、二つの立場があります。ひとつは、大卒の学歴がなくても生きていけるので大学に行く必要はない、という「学歴不要論」の立場です。もうひとつは、大学などに行かなくても勉強はできるし生きていけるから大学は不要だ、という立場です。いずれの立場も、大学過剰論や大学無用論と密接に関係しています。
 学歴不要論は、学歴に関係なく成功した人の発言によくみられます。しかし、みんなが同じように成功できるわけではありませんし、それが可能になるためには、本人の強い意志と努力、そして、それを受け入れる社会的環境が必要です。
 学歴で人間の価値が決まるわけではないことは、いうまでもありません。また、「生きるために稼ぐ力」の有無や高低も学歴で決まるわけではないと考えると、大学に進学しないという選択肢もあります。しかし、大卒と高卒の生涯賃金の差をみるかぎり、数字上は高卒が不利にみえます。
 『ユースフル労働統計2019』によると、学校を卒業後すぐに就職し、60歳で退職するまでフルタイムの正社員を続ける場合、退職金を含めないとして、大卒・大学院卒と高卒では、男性で約5,800万円、女性で約6,700万円の格差があります。また、学校を卒業後すぐに就職し、60歳で退職するまでフルタイムの正社員を続けて退職金を得て、その後、フルタイムの非正社員を続ける場合、大卒・大学院卒と高卒では、男性で約7,700万円の格差があります。ただし、この数字は平均値であり、極端に高い(あるいは低い)賃金の層があれば、それに平均が引きずられることがありますし、会社規模によっても賃金のばらつきがあります。それに、「60歳で退職するまでフルタイムの正社員を続ける」という想定は、コロナ禍でリストラにあった人々が多くいることを考えると、どれだけリアリティがあるか疑問です。このように、よく使われる生涯賃金統計は、数字にまどわされないように冷静にみる必要がありますが、一般論として、大卒と高卒のあいだで生涯賃金の格差がでることは予想されます。

 さて、学歴は必要かという問いに関連して、興味深い説を紹介します。それは、高学歴お笑いコンビ・ロザンの菅広文さんの「学歴=浮き輪」論です。これは、学歴を問わないお笑いの世界で、成功した芸人ほど自分の子どもには学歴をつけさせたいと思うのはなぜか、という疑問からはじまっています。結論を簡単にいうと、次の通りです。

 社会という大海原を泳いでいくとき、浮き輪をつけたほうが泳ぎやすい。だから、はじめは浮き輪があったほうがいい。学歴も「浮き輪」みたいなものだ。学歴がなくて成功した人は、浮き輪なしに我流で泳いできた。最終的には泳げるようになるとしても、それまでにかなりしんどい思いをしただろう。だから、自分の子どもには「浮き輪=学歴」をつけさせたいと思うのではないか。

 菅さんの説のなかで重要だと思うのは、自分で泳げるようになったら、浮き輪が邪魔になって、自分からはずさなければならない時期がくる、ということです。つまり、学歴にしがみつくことなく、自分の力で生きていく時期がくるということです。これは、「ふだんづかいの『学び術』」のなかでもふれる予定の「まなびほぐし(unlearn)」というテーマとも関わります。

 さて、もうひとつの大学不要論は、大学などに行かなくとも勉強はできるし生きていける、という主張です。このような立場は、ITを過大評価する評論家や起業家によくみられます。この立場の代表的な意見は、「知識は本やインターネットで十分に学べるから、なにも大学に行く必要はない」というものです。
 たしかに、単なる知識なら本やインターネットで学べることは多くあります。しかし、「大学無用論」でもふれた「学び習慣」仮説を思い出してください。社会人の多くに自ら学ぶ習慣がないことを考えると、インターネット上に知識があふれていても、学ぶ習慣自体がなければ、独学を続けることは困難でしょう。また、オンライン学習についても、動機づけの高い学習者には向いていますが、そうでない学習者にとっては、あまり向いていません。このことについては、「オンライン授業の誤解と幻想」で取り上げる予定です。
 「知識は本やインターネットで十分」という人には、みんなが独学できるという「独学幻想」があります。最近、書店のビジネス書コーナーに「独学」をテーマにした本が多く並ぶようになりました。これは、独学ができない人が世間に多いことの裏返しだと思います。
 さて、加藤秀俊氏は、学校というものの必要性について、次のようにいっています。

 じっさい、かんがえようによっては、学校というものは、「独学」では勉強することのできない人たちを収容する場所なのだ、ともいえないこともあるまい。一般的には、学校に行けないから、やむをえず独学で勉強するのだ、というふうにかんがえられているが、わたしのみるところでは、話はしばしば逆なのである。すなわち、独学できっちり学問のできない人間が、やむをえず、学校に行って教育をうけているのだ。
(加藤秀俊「独学のすすめ――現代教育考」『加藤秀俊著作集』六、中央公論社、1980年)

 これにしたがえば、独学する力を育成するとともに、学ぶ習慣を身につけさせるのも、大学の重要な役割であると考えられます。その意味で、大学の存在意義は色あせないのです。

三つの大学論:その誤解と幻想(完)


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