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三つの大学論:その誤解と幻想(2)

前回に続き、「三つの大学論:その誤解と幻想」についてお話します。今回は、「大学無用論」について取り上げます。なお、詳細は『大学論の誤解と幻想』の序章「大学論を語るまえに」をお読みください。

◆大学無用論――大学は役に立たない

  大学無用論は、大きく二つに分かれます。ひとつは、「大学教育は役に立たない」という主張で、もうひとつは、これと密接に関係しますが、「大学は社会のニーズに対応していない」という主張です。昨今よくいわれる「文系学部不要論」は、両方に関わるものです。これについては、ここでは詳しくお話しませんが、『大学論の誤解と幻想』の第三章「もうすぐ絶滅するという文系学部について」をご覧ください。

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 「大学教育は役に立たない」という主張について考えるのに、社会人を対象とした濱中淳子氏の調査が参考になります。濱中氏は、大学教育は役に立たないという主張を「大学教育無効論」と呼び、どれだけの企業関係者がそれを支持し、それはどのような人たちなのかを分析しています。そして、企業の採用面接担当者を対象とした調査の結果、大学教育無効説が大勢を占めるわけではないが、かといって大学教育の意義が積極的に認められている状況でもない、と結論づけています。興味深いことは、従業員数一万人を超えるような大企業関係者ほど、大学教育は役に立たないと考えていることです。濱中氏がいうように、大企業関係者ほど発信力が強く、結果として、大学教育無効論が流布することになったとも考えられます。
 また、大学(院)時代に専門の学習・研究に意欲的に取り組んだ人ほど、専門の教育・学習に意味を見出し、反対に、意欲的ではなかった人ほど意味を見出していないという結果もでました。つまり、学生時代に勉強しなかった人ほど、大学教育が役に立たない、と考える傾向があるようです。
 こういった個人の意識とは別に、大学教育が役に立っていることを示す分析結果があります。「noteことはじめ:予告編(2)」でも紹介したように、矢野眞和氏は、調査結果から、大学時代の「学び習慣」が現在の学習・読書を支え、その成果が所得の上昇につながっている、という「学び習慣」仮説を提示しています。

学び習慣

 こうみると、大学教育が役に立っているにもかかわらず、役に立っていないという思い込みだけがひとり歩きしているようにみえます。では、大学教育は役に立たないといっている社会人は、その後、学んでいるのでしょうか。すでに、「noteことはじめ:予告編(2)」でも紹介したように、働く人の七割弱が自ら学ぶ習慣をもっていないという調査結果がでています。

 さて、大学無用論のもうひとつの主張は、「大学は社会のニーズに対応していない」というものです。苅谷剛彦氏は、大学改革に関する政策文書にみられる「社会の変化に対応できない大学の『失敗』」という考え方を「大学性悪説」と呼んでいます。苅谷氏によると、大学の閉鎖性、硬直性、画一性(多様性の欠如)などによって、社会の要請や社会の変化に対応できない大学、という考え方が1960年代初頭にあらわれ、70年代には確率したといいます。その後も、この考え方は現在にいたるまで、大学改革に関する政策文書の、いわば「通奏低音」になっています。
 かつては、欧米に追いつけ追い越せの「キャッチアップ型」社会であった時代も、大学教育は社会の要請や変化に対応できなかった。そして、日本が先進国の仲間入りをして「追いつく目標とすべきモデル」を失った時代においても、個性・創造性・主体性が求められるが、これにも大学教育はうまく対応できなかった、というわけです。
 90年代以降、政策文書はしばしば「予測不可能な時代」という言葉を使います。苅谷氏のいうように、「未来は予測できない」のなら、教育目標や育成すべき資質・能力も抽象的であいまいなものにならざるをえません。また、それが達成できたかどうかの基準もあいまいなままです。中央教育審議会答申「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン」(2018年11月26日)には、次のような一節があります。

 予測不可能な時代の到来を見据えた場合、専攻分野についての専門性を有するだけではなく、思考力、判断力、俯瞰力、表現力の基礎の上に、幅広い教養を身に付け、高い公共性・倫理性を保持しつつ、時代の変化に合わせて積極的に社会を支え、論理的思考力を持って社会を改善していく資質を有する人材(中略)が多く誕生し、変化を受容し、ジレンマを克服しつつ、更に新しい価値を創造しながら、様々な分野で多様性を持って活躍していることが必要である。

 このような「スーパー日本人」がいったいどこにいるのか、といいたくなりますが、ここにあげられた資質・能力はいずれもあいまいで多義的です。したがって、論理的には、いつまでたっても大学教育は社会の要請や変化に対応できないでいる、という結果になります。また、始末が悪いことに、苅谷氏が指摘するように、大学性悪説の背景には、日本経済の再生を第一義とする「経済ナショナリズム」があります。そのため、経済成長が実感できる時代には大学性悪説はなりをひそめますが、経済成長が鈍化するやいなや、その「真犯人」として大学性悪説が浮上します。ということは、日本経済がめざましく再生するまでは、大学はいつまでも「時代の変化や社会の要請」に応えていない、と責められ続けるでしょう。

「三つの大学論:その誤解と幻想(3)」に続く

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