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吉野家xWAGYUMAFIA

オーストラリアから帰ってきたのは10歳だった。

そんな子供の時、吉野家は高嶺の花だった。当時松屋はたしか400円ぐらいで味噌汁がついてきた。吉野家は味噌汁なしで同じ金額ぐらいだったと記憶している。今から考えると大した差ではないのだが、小遣い片手にいく子供にとってはその味噌汁の差額が支払えず、吉野家の牛丼は贅沢な食事のように映ったのだった。ガラス越しに丼を片手に持ち、掻き込む大人たち。いつか、背伸びしてあのガラスの向こう側にいきたい、そう思ったことを覚えている。

毎日2時間ほどの自転車通学をしていた高校時代は、足を伸ばせばどこの吉野家にも通うことができた。JRの駅のキオスクに新聞配達をするアルバイトでもらったバイト代と吉野家、そして自転車通学。その頃から僕にとって牛丼といえば吉野家になっていったように思える。この時間はあの吉野家の方が混んでいて旨いような気がする。そんな話を同級生としていた。高校から僕はアメリカの南部に留学をした。学校に持っていたのも、あの吉野家風の牛煮だった。留学を終えてアメリカから帰ってきて真っ先に向かったのも吉野家だった。熱々の白い飯に甘辛に煮たいつものUSビーフのバラと玉ねぎをかけてもらう。ガッツリと紅生姜をかけて掻き込む。日本帰り4年ぶりの牛丼の味は今でも覚えている、それは期待を裏切らないいつもの吉野家だった。

狂牛病でUSビーフの輸入がストップされた間、6年間も他国産の牛を使うのを拒否して一途に待ち続けた企業姿勢、競業他社はオーストラリアの牛に切替えた。食べ納めの吉野家にも行った覚えがある、慣れ親しんだ食がなくなるんだっていう原体験はその時にした初めての経験だ。そして、頑なにアメリカに恋し続けたあの吉野家。アメリカに忘れてきた僕のあの感覚を、絶対取り戻して世界を目指せよと、背中を押してもらっているような気分だった。

それから6年語、復活したいつもの味。僕もすぐに食べに行って、隔たれた時間を忘れたかのようにいつもの紅生姜をガツッとのせる、そして喰らう。日本の味なんだけど、USビーフ、それがアメリカを体験した僕にとっては何よりも嬉しいコンビネーションだった。それから僕はしばらくして吉野家のレシピの再現に没頭した。2015年にフードトラックで和牛で作った吉野家の牛丼インスパイアを出した。2016年、京都でのWAGYUMAFIAファーストイベントでもメニューの中にこの牛丼は登場した。食の原体験というのは偉大だ、決して消えることはない、確かな食の記憶となるからだ。

「いつか吉野家とコラボレーションしたい。」

ちょうど一昨年の2018年の10月頃。共通の知人を介して、吉野家吉野家の伊東正明常務と会うことになった。相方の堀江も一緒に、昼下がりの西麻布にてカウンターを囲みながら僕らの想いをぶつけたのだった。しばらくして伊藤さんからコラボレーションを進めましょうとの夢のようなメッセージを頂いた。

そこから一ヶ月後、僕らは吉野家のテストキッチンにいた。僕らWAGYUMAFIAの和牛と吉野家のレシピを支えている中枢の皆さんとのレシピ開発がスタートしたのだった。こだわったポイントは僕らがこよなく愛して育った吉野家の牛丼であるということ、これは和牛を使うことで吉野家の味を壊してはならず、しっかりと僕らが長年感じてきた吉野家の味になっていることを目指したのだった。

遡ること1899年に生まれた吉野家。日本橋の魚河岸に創業するこの丼。創業者松田栄吉は牛めしを河岸の労働者に提供した。しっかりとした有田焼に乗せた牛めし。それが吉野家の原点だ。河岸を移した築地、そして豊洲にも吉野家があるのは歴史を紐解くと分かるのだ。そこから120年ほど経って、テストキッチンではしっかりとそのイズムを守る職人たちがいた。

幾度となくテストキッチンに足を運び、和牛の種類、そして部位、厚さ、温度、玉ねぎの種別チェックなどを繰り返し、出来上がった新しい牛丼。一口食べたとき、懐かしさと美味しさが溢れた。なんだろうな、それは吉野家を愛する心と、その味を支える職人である皆さんとの牛肉への飽くなき追求がもたらした一杯の丼というまさしく奇跡だった。

完成した夜のキッチンの終わりに、僕は赤坂のWAGYUMAFIAの隣にある吉野家に食べにいって、祝丼をあげたのだった。あの夜からしばらくたって、この2021年2月1日にWAGYUMAFIAの会員と吉野家の皆さんと、この牛丼を食べる日を迎える。

感無量すぎて、もうこれ以上は裏側も表側も書けない。無言で紅生姜をガツッとおいて喰らいたいあの気分だ。あとは皆さんの心でこの歴史ある一杯の丼を味わっていただきたいと思う。

このプロジェクトに関わっていただいたすべての方々に感謝したい。


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