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監禁映画のススメ 〜大寺眞輔氏とのやり取りから〜


「完璧な密室などというものは存在しない。完璧な愛が存在しないようにね」
「すべての愛の発生は監禁状態の成立に起因し、すべての愛の失敗は監禁行為の失敗に帰する」


※以下の文章は、映画評論家の大寺眞輔氏のツイートに対する脱輪の返信ツリーの内容をまとめて加筆修正を加えたものです。


※注
リヴェット=ジャック・リヴェット
ラング=フリッツ・ラング
ルノワール=ジャン・ルノワール
それぞれ偉大な映画監督の名前(調べてみてね!d(≧▽≦*))



・監禁映画というメタジャンルを設定する

まったく同意です。
まず初めに、リヴェット作品の字幕訳出を含めた大寺さんのお仕事に敬意を表し、ささやかながら持論を展開させていただきます。
僕は常々リヴェットのことを“監禁映画の名手”と呼んでいるのですが、ヌーヴェルヴァーグ流の語り口とナレーションによって巧妙にメタ化・多層化されてはいるものの、紛れもない監禁ホラーであるところの傑作『美しき諍い女』においても、約4時間に渡って執拗に、女が、またその不可避的な反射として男が、同じひとつの部屋の中に監禁されていきながら、常にそこからはみ出していくなにかがある。
つまり、物理的な行為としての監禁をいかに完璧に行おうとも、心理的な監禁には必ず耐えがたい取り逃しがある。
『美しき諍い女』はこのことの破格の証明になっていると思うんです。
男性画家と女性モデルの恋、周囲を取り巻く人々の関係の変容を描く恐るべきメロドラマとしても、監禁行為の成立と挫折を数学的な冷静さによって記述していくホラーとしても見れるところに、あの作品の凄みがあるのではないかと。



監禁状態に取り逃しが生まれてしまうのは、監禁の舞台となる場、部屋が、複数の人間の物理的・身体的、心理的・政治的な思惑によって、いわば協働のもとに作り上げられ、親しみや反発をエネルギー源としつつ不断にその内容を変化させていくからで、これによりひとつの完成を目指していた監禁状態は何度でもリセットされてしまう。
特に心理的な監禁には終わりも完成もありません。
比喩的に言えば、監禁という主題が演じられる舞台としての場=〈密室〉には、あらかじめなんらかの〈開口部〉が穿たれている。
完璧な密室なるものは原理としては存在しないわけで、まさにこの点にこそ、ホラーにおける危機脱出のカタルシス、ミステリーにおける謎解きの快感、ラブストーリーにおける甘酸っぱい恋の挫折を同時に成立せしめてしまう神秘的な要素、人間心理の複雑な襞が隠されているのではないかと。
〈監禁映画〉という主題はホラーからラブストーリーまでのあらゆるジャンルを横断する、精神分析的なメタジャンルであるとひとまず定義することが可能でしょう。


〈監禁映画〉において重要なのはしたがって、監禁行為のたしかさよりむしろ、それによって浮かび上がってくる監禁状態のふたしかさ、つまり〈開口部〉の存在です。
〈開口部〉がわれわれに向かって発するのは「なぜ、いかにして、人は自己と他者が作り上げた〈密室〉の内部に出口を発見し、(知らず知らずのうちに)逃れ出ていってしまうのか?」という精神分析的な問いかけであり、この逆説的なテーマの追求がフィルムの中にどのように跡付けられているか?を、僕は作品鑑賞のひとつの評価基準にしています。

以上を強引に大寺さんの提言になぞらえれるなら、身体的監禁の可能性の場として出現する〈密室〉を『ラング的なコントロール』に、心理的監禁の不可能性の比喩として出現する〈開口部〉を『破天荒なルノワール的自由』の痛ましいあらわれとして仮に読むことができるかもしれません。
そして、これら二つのテーマを、いずれをも落とすことなく真摯に追求するならば、その狭間からは必ず『パラノイアックな厨二病的妄想』がくねり出てくる。
以上が、大寺さんの整理を受けた僕のごく私的な整理分類です。

それでいくと、リヴェットの作品には
①身体的監禁の可能性
②心理的監禁の不可能性
③①と②のあいだからくねり出てくる、人と人の本来的なわかりあえなさ
すべての要素が出揃っており、それぞれの尾を噛み合っている点において、まことに稀有な存在であろうと思います。
そして、①からだと②こころのあいだから生まれ出てくる③は、まさに『厨二病的』な『妄想』となって、“君+僕=世界”の密室的な全能感と、取り逃しの苦痛という形で表出してこざるを得ない。


濱口竜介に関して言えば、やはり良くも悪くもコントロールが行き届きすぎているというか、①の徹底が弱いために、②における開口部の表象がどこか観念的なものとなり、結果として③の要素がお上品にまとまっている、という印象です。
あくまで濱口竜介作品を〈監禁ホラー 〉として読む限りにおいてですが。
例えば、『寝ても覚めても』において、朝子が麦の訪問を受け、鳴り止まぬチャイムの音をバックに耳を塞ぎ台所に蹲る恐怖シーンは、はっきりとホラー映画の文法で撮られています。
朝子は麦と亮平という合わせてひとつの他者によって〈密室〉の中に監禁されているとも言え、しかしその監禁にエネルギーを備給し続けているのは朝子自身の愛にほかならず、そのため、あの場面は現実とも朝子の妄想ともつかぬどっちつかずの調子になっている。
監禁が不徹底なわけです。
『寝ても覚めても』はそもそも、愛のふたしかさと似て非なる監禁状態のふたしかさを描く映画であり、あえてその中途半端さに留まろうとする点に作家の美学的な姿勢が発見される、と言うことはできるでしょうが。
しかし先述の通り、監禁状態のふたしかさを真に明らかにするためには、誰にも脱出不可能と思われる確実な監禁状態を先んじて作り出す必要があるわけで、それこそリヴェットの『美しき諍い女』が執念深くそれを実現していくのに比べ、ぶっちゃけ言って『寝ても覚めても』は「まだまだ全然逃げられそうな気がする」(笑)


確固たる監禁状態が実現されないために、〈開口部〉は出口としての有効性を持つことができず、結果として、『パラノイアックな妄想』も『破天荒なルノワール的自由』も前に出てきづらくなってしまうわけです。
言ってみれば、濱口竜介は、映画作家としては見事にコントロールが行き届いている反面、監禁作家としてはコントロールが不充分なんですね。
反対に、リベットが特殊なのは、ほとんど完璧な監禁作家であると同時に、映画作家としてはどこか歪つで不完全な印象を与える点でしょう。

監禁は最も映画的な主題のひとつであり(映画と映画館はわれわれを光り輝く〈開口部〉のある真っ暗な〈密室〉に監禁する)、そのような主題を扱うにあたって大切なのは、「いかにして観客の身体的・心理的な出口を塞ぎ切るか?」という視点を持つと同時に、「完全に塞ぎ切ったはずの出口がしつこく回帰してくるのはなぜか?」という問いをとことんまで突き詰めることでしょう。

・脱輪おすすめの監禁映画

例えば恋愛は身体的・心理的な監禁行為の共同正犯であり、したがって苛烈な愛を描く映画は、必ずと言っていいほど監禁ホラーとしての性格を合わせ持ちます。
逃げ場のない監禁状態からそれでも逃れ出てゆく愛の姿を描いたリヴェットの『美しき諍い女』は、まさにこのことの破格の証明であると言えるでしょう。
ちょうどこのような
①監禁映画としての強度がズバ抜けているために
②ラブストーリーやメロドラマとしての体裁をぎりぎりで保ったまま別種の領域へと突き抜けてしまった
作品の例として真っ先に思い浮かぶのは、
アンジェイ・ズラウスキー『狂気の愛』
ジョゼフ・ロージー『召使』、『できごと』
の三本です。
これらに比べればやや落ちるものの、優れた作例として、
リリアナ・カヴァー二『愛の嵐』
ベルナルド・ベルトルッチ『ラスト・タンゴ・インパリ』
和田勉『完全なる飼育』
などを挙げることも可能ですし、例えばルキノ・ヴィスコンティの『家族の肖像』は、〈侵入〉という主題の導入によって、〈密室〉が破れ、変貌していくさまを描いた逆説的な監禁映画になっていました。


このように、映画史の文脈に〈監禁映画〉というメタジャンルを設定してみることで、いろいろと見えてくることがあるのではないかと考えます。
芸術映画としてではなく監禁映画として見れば、リヴェットの『美しき諍い女』に近いのは、濱口竜介作品よりむしろ『ホステル』や『グリーン・インフェルノ』であることがわかったり。
まあ、これはこのままではお遊びですが。

最後に黒沢清について私見を。
ジャック・リヴェットが“監禁ホラーの名手”だとすれば、黒沢清は“カーテンと開口部の魔術師”なんですね。
リヴェットと違い、黒沢清はあえて完璧な監禁状態を作らない。
正確には、「〈密室〉を作った上でその扉をちょうど人が気持ち悪く思える程度に開けておく」ことに執着する作家なんだと。
つまり、黒沢清の興味の本質は、〈監禁〉ではなく〈開口部〉の方にあるように思われるんです。カーテンという通り抜け可能な柔らかい壁はそのあらわれでしょう。
以下、「黒沢清は、硬い壁を柔らかい壁に作り変え、あの世とこの世の境い目に開口部を取り付けるリフォームの匠なのだ」ということを書いた拙文になります。
メモ書きのため乱文ですが、ご興味あればご一読下さい。



以上です。
最後になりましたが·····
大寺さんのYoutubeも拝見しており、いつも勉強させていただいております。あれが無料で見れるというのは、ちょっとすごい!
ありがとうございます!
またご講演などにも足を運び、直接お話をうかがう機会に与れればと願っております。

脱輪拝


・大寺氏とのやり取りの解説

冒頭のツイートをはじめとして、大寺氏は『コントロール・フリークのラング的側面』と『破天荒なルノワール的自由』という両軸を立てることで、黒沢清、濱口竜介、ジャック・リヴェットのそれぞれが、映画作家としてどのくらい似ているか、あるいは似ていないかについて持論を展開しておられたように思う。
これに対し脱輪は、「濱口竜介にはジャック・リヴェット作品に見られるあやうさ、『破天荒なルノワール的自由』が良くも悪くも欠けている」という氏の主張に沿う形で、〈監禁映画〉〈監禁作家〉というジャンル横断的なメタ概念を設定することによって、特に『コントロール・フリークのラング的側面』と『破天荒なルノワール的自由』のあいだに位置するように思われる『パラノイアックな厨二病的妄想』の側面に注目しつつ、精神分析的な視点からアプローチを試みた。
監禁行為の不可能性が暴くのは愛の不可能性であり、人間同士の本来的なわかりあえなさではないだろうか?
われわれがホラーとラブストーリーを等しく楽しむことができるのは、それらがともにディスコミュニケーションをスパイスとしているからなのである。



・監禁映画批評のその後の発展に向けて

以下、大寺氏による脱輪ツイートへの返信と、脱輪によるそのまた返信。
こちらは自分用のメモなので、いずれの発言もそのままの形で掲載させていただきます。


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