見出し画像

さあて今週の『パラサイト 半地下の家族』さんは〜共産主義革命戦士たちのオーシャンズ4、プラトン的喫煙のイデアと風邪には早めのベンザブロック、旧約聖書とライトストーンを持ったジェダイ、の3本です!お楽しみに!うふふふふふふふ〜



※ネタバレシカナイ ヒキカエセ




『パラサイト 半地下の家族』見てきた。
半地下 vs 地上の二項対立に意表を突く第三項をぶつけることで鋭い社会批判を含むエンタメの枠を壊しあらゆる立場の人間が甘んじて笑えなくなるブラックな笑いをまき散らす超ジャンル型劇薬ムービー。


第三項とは言うまでもなく地下、あらゆる地上から断絶し忘れられた地下、いわば半地下に対する“全地下”の存在であり、ちょうど映画全体の半分ほどの地点において不気味なその姿を現す。
全地下登場までを第一部、以降を第二部と捉えていいだろう。むしろ、次元の異なる二つの映画を無理やりくっつけたのが本作である、と言った方が正確かもしれない。
そんなわけで、以下の文章の構成はこうなる。

⑴第一の映画『半地下 vs 地上』
⑵途中休憩『パラサイト 半地下の家族』
⑶第二の映画『全地下 vs 半地下 vs 地上 そして外側』
⑷第三の映画『???』(隠しコマンド)



※オコラナイヤツダケ サキヘススメ






⑴第一の映画『半地下 vs 地上』



・登場人物紹介(あなたとわたしの確認用)


半地下に暮らす貧乏家族、キム一家
父:ギテク
母:チュンスク
兄:ギウ
妹:ギジョン


地上の高級住宅に暮らす金持ち家族、パク一家
父:ドンイク
母:ヨンギュ
弟:ダソン
姉:ダヘ



・逆ホームインベイジョンの『オーシャンズ4』

第一の映画における構図は、半地下 vs 地上という単純なものだ。
半分地下に沈んだ家に住む貧乏な四人家族が、地上の、高台に暮らす金持ち家族(これまた四人。父、母、一男一女という構成まで同じ点に注目)の生活を徐々に侵略していく、逆ホームインベイジョンのおもしろさ。見知らぬ人間がある日突然住居/家族の中に押し入ってくるホラーのサブジャンルとしての“ホームインベイジョンもの”の格別の恐さは、鍵のかかる部屋という西欧近代のスグレモノの発明品がわれわれの精神生活を比喩してしまう現実にかかっている。あなたの部屋はあなたにとって好ましいものでできている。つまり、部屋とは人間の内側にある心や願望が外側に露出した形態なのだ。だからこそ、閉ざされた扉がこじ開けられる物理的な恐怖は、心を暴かれ破壊される精神的な恐怖に繋がるのである。
ホームインベイジョンものでは、多くの場合、侵入される側の人間に焦点が当てられる。近作に例を取れば『us』『イット・カムズ・アット・ナイト』『聖なる鹿殺し』など。とびきりの恐怖が味わえるフランス産ホラー『屋敷女』やサム・ペキンパーの名作『わらの犬』を思い出すのもいいだろう。ホラーなんだから被害者がクローズアップされるのは当たり前でしょ?じゃなかったらちっともこわくないもん!などと言うなかれ、あの大ヒットコメディー『ホーム・アローン』だってそうなのだ。ホラーでもコメディーでも、侵入する側の心模様は描かれないのが常なのである。ところが本作では、侵入する側がメインに据えられる。いわば『ホーム・アローン』に登場する、あのまぬけな泥棒側から見たドラマなのだ。まずこの転倒がおもしろい。
貧しいキム一家は一人、また一人と、金持ちのパク一家の生活の内部へ侵入し、寄生(パラサイト)していく。家族間で共有されるこの“計画”を可能にするのが個々人の特殊スキルであることは興味深い。兄ギウは英語力と誘惑の手練手管、妹ギジョンは美術的才能と大胆なふるまい、父ギテクは運転技術と人あたりの良さ、母チュンスクは料理の腕と三人をコントロールする才覚によって、たちまちエリート一家の信頼を勝ち得てしまうのだから驚きだ。その手際の鮮やかさたるや、オーシャンズシリーズに代表されるコンゲームもの(知的戦略もの)で活躍する詐欺師顔負け、観客はハラハラしながらこの風変わりな『オーシャンズ4』を楽しむことができる。



・“騙されている”のはだれか?あるいは革命戦士の憂鬱2題

だが、ここで見逃してはならないポイントが2つある。
①貧乏一家は金持ち一家を騙していない
②この“計画”には希望がなく、革命には目的がない
どういうことか?順に見てみよう。


①貧乏一家は金持ち一家を騙していない
なるほどたしかに、キム一家が自称する社会的な肩書き、どこそこのエリート大学の学生であるとか長年立派な家庭の運転手を勤めていたとかいう経歴は事実ではない。だが、彼らがそれに見合うだけの実力を備えていることはまぎれもない事実だ。ギウは友人曰く「そこらの学生に負けない」英語力を持っているし、ギジョンには兄曰く「芸術大学に落ちたのが信じられない」芸術的才能が、ギテクにはカップに入ったコーヒーを揺らさずにコーナーを曲がりきるだけの運転技術が、チョンスクには金持ち一家の舌を大いに満足させる料理の腕が、たしかに備わっている。だからこそパク一家はなにひとつ疑うところなく彼らを信用するのである。おわかりだろう、公平公正にその能力だけを評価すれば、キムファミリーは実に優秀な人間たちなのだ。少なくとも、彼らより遥かに優遇された立場にいるパク家の人々、バスキア風の絵を描き散らすなどの奇行を連発して天才のふりを装い、まんまと両親を“騙している”弟ダソンや、美しく純粋だが精神的に不安定で(おそらく彼女は軽度の鬱病で、日頃から抗不安薬を常用している。その副作用によって深く眠りこんでしまうのだろう。あの不思議な初登場のシーン=庭の机に頭を突っ伏して寝ているところを家政婦に起こされる、を思い出してほしい。後半では「ドラッグを買って·····」と訴える場面も登場する)子供の教育はおろか家事全般も満足にこなせない妻ヨンギュより、よっぽど評価されるべき人材なのである。ところがまったく不当なことに、キム一家には能力に見合うだけの地位が与えられていない。つまり、この映画において“騙され”、虐げられているのは、実は彼らの方なのだ。実質と異なる外観を押しつけられている点において、キム一家こそが詐術の被害者だと言えるのである。むしろ、外観に見合う実質を持たない癖に、さも高潔な人間であるかのようにふるまい、世間の目を欺いているのはパク一家の方ではないのか?
仮に嘘をついていたとしても、キム一家は誰一人“騙していない”。彼らの嘘は、自らにふさわしい立場を要求する正当な申し立てとして受け取られるべきなのだ。その意味において、パラサイトは共産主義革命の小さな実践であると言える。
われわれの労働に見合うだけの賃金を!われわれの能力に見合うだけの肩書きを!それすら叶わない不平等な社会には(誠に遺憾ではあるが·····)実力行使をもって立ち向かわねばならない!というわけだ。
偽造したエリート大学の入学証明書を手に、ギウが初めてパク家に赴こうとする朝、父ギテクとの間に交わされる会話はいわばパラサイトの開幕宣言であり、こうした革命理念の完璧な注釈として読むことができる。
ギウ『お父さん、僕はこれが偽造や犯罪とは思いません。来年、この大学に入るから』
ギテク『計画があるんだな』
ギウ『書類を先に受け取っただけです』
“書類を先に受け取っただけ”。つまり、能力に釣り合う肩書きを自力で掴み取っただけ、ということだ。
待てど暮らせど、いかに努力を積み重ねようと、実力にふさわしい経歴が社会から与えられる日は永遠に来ない。ならば、こっちからそれを捕まえに行き、経歴をして実力を語らせる以外にないではないか?なんらかの社会的条件(この場合は貧困)によって選択を制限された者の道行きは、通常とは逆の順序を辿らざるを得ない。内容に先行して形式を獲得し、遡ってその内容を証明するほかないのだ。実力行使をもって導かれる内容と形式の転覆。まさにこれこそが革命である。だがこの革命は、内容と形式の不一致を是正し、本来あるべき真の姿を回復する、という意味において正当な目的を持つ。だから、一見強引なギウの言いわけ=“僕はこれが偽造や犯罪とは思いません。来年、この大学に入るから”というセリフは、実は真実を語っているのだ。それはたしかに社会を欺こうとする偽造や犯罪ではない。キム一家を欺く社会的な不平等を正すための行為なのだ。
父と子が向かい合い、真剣な面持ちでむちゃくちゃなことを言い合うこのシーンは笑いを誘う。しかし後に見るように、本作におけるセリフの意味は、一度目にはコメディーとして、二度目には恐るべき真実の開示として経験されるのだ。ギウが事実に先行して書類を受け取ったように、彼の無意識もまた、意識に先行して答えを“受け取っている”のである。

②この“計画”には希望がなく、革命には目的がない
ところがどっこい、息子ギウが端緒を開き、父ギテクが主導するこの“計画”にはビジョンがない。家族全員が一時の職にありついたとて、そんな状況が長く続くとは思えない。いつかはほころびが出るに決まっている。であれば、寄生が安定期に入った段階で、金銀財宝かっぱらえるだけかっぱらい、はいおサラバ!とやるのが現実的な筋だろう。だがそんな次善の策が講じられる気配すらない。彼らはせいぜい、リビングでどんちゃん騒ぎをして憂さ晴らしをする程度なのだ。ここがポイント。
真の貧困とは、単に物質的な窮乏を指すのではない。今・ここではない理想郷を思い描くエネルギーの喪失、精神の窮乏をこそ意味するのだ。長年染みついた貧乏暮らしによって、彼らは想像の世界で羽ばたく自由を失ってしまっている。金持ちになることではなく、ほんの束の間そのふりをする=“pretend”(ギウがダヘの家庭教師をしている場面に登場する意味深なキーワード)ことによってうっかり満足してしまうのはそのせいだ。できないのではなく、できないと思いこんでしまっているところがミソなのである。
従って、キム一家が能力にふさわしい肩書きを手に入れられないのは必ずしも社会のせいばかりとは言えない。なによりも真っ先に、彼ら自身がその可能性を排除してしまっているのだから。精神の貧困を描いてこれほど恐ろしい一幕も他にないだろう。希望を欠いた計画はやがて破綻し、目的のない革命は志半ばで潰える。その終焉をもたらすものこそが“全地下”なのだ。




⑵途中休憩『パラサイト 半地下の家族』

『パラサイト 半地下の家族』には韓国語の他に英語のセリフが登場し、その多くがどちらとも解釈できる二重の意味を含んでいる。英語のセリフが出てくるのは、家庭教師として雇われたギウがパク家の姉で高校生のダヘに英語を教える関係からなのだが、ここにはおそらく「セリフに潜む真実の意味を韓国語を解さないより多くの観客に読み取らせたい」というグローバルな戦略が隠されているだろう。
観賞中に気づいたのは8箇所ぐらいだが、探せば他にいくらもあるに違いない。オモテの意味=映画において実際に伝達されているはずの意味はほとんど空虚で、発話者が伝達するつもりのないウラの意味が真実を雄弁に語るところが心憎い。無意識はいつも答えを知っているのだ。
例えば、父ギテクを運転手として引き込むためのギジョンの誘導に、セレブ妻ヨンギュがまんまと乗っかる一言。気取った英語で、“I'm deadly serious”。これが笑える。オモテの意味はもちろん「わたしはめちゃくちゃ真剣よ」なのだが、“serious”の強調表現である“deadly”を字義通り解釈するとこうなるからだ。「わたしは今死ぬほどヤバい(危機的な)状況にいる」。どうだろう?自分の家族が乗っ取られる計画にうっかり加担してしまっている状況にピッタリのセリフではないか!
この通り、本作の登場人物たちの無意識、なんとな〜くのカンはいつも正しいにも関わらず、意識がそれを裏切ってしまうから皮肉だ。無意識を意味する英単語“subconsciousness”は、フロイトが理論化する以前の19世紀には“underconsciousness”=下意識とも呼ばれていた。物理的な空間においてだけではなく、個人の肉体という心理的な空間においても、意識=地上と無意識=地下の戦いが繰り広げられているわけだ。油断してはならない。平常時には意識に抑圧されている無意識、地上から見放された地下は、ふとしたきっかけから急浮上し、“死ぬほどヤバい”真実をわれわれに告げることがあるのだ。




⑶第二の映画『全地下 vs 半地下 vs 地上 そして外側』


・登場人物紹介(あなたとわたしの確認用)

半地下に暮らす貧乏家族、キム一家
父:ギテク
母:チュンスク
兄:ギウ
妹:ギジョン

地上の高級住宅に暮らす金持ち家族、パク一家
父:ドンイク
母:ヨンギュ
弟:ダソン
姉:ダヘ

パク家の秘密の地下室(全地下)を不法占拠するぶっとび家族
妻:ムングァン
夫:グンセ



・思いがけぬ第三項の出現により、戦士は資格を剥奪される

というわけで、第一の映画では意識に抑圧されていた無意識が、地上から締め出されていた地下のエネルギーが、下水道の底から大量の汚水が噴き上がる。第二の映画『全地下 vs 半地下 vs 全地上 そして外側』の幕開けだ。
どしゃ降りの雨の中、インベイジョンによって追いやられたパク家の元家政婦、柴田理恵似(中島哲也の『来る』の霊媒師役で見せた狂気を思い出した)のムングァンが泣き笑いの不安定な表情で訪ねてくる。ちょうどパク一家が旅行に出かけた無人のリビングで、キム一家がへべれけに酔っ払って騒いでいた折。なになにいったいなんの目的!?パラサイトに成功し、ゲラゲラ笑いあっていた彼らが一転、侵略される側の立場に立たされるのだからおもしろい。
仕方なくドアを開けると、ムングァンはなにやらぶつぶつつぶやきながら侵入してくる。すわ、狂ったか!?ただならぬ様子に不審の念を抱く隙もあらば、一直線に彼女は突き進み、本棚の裏に隠された秘密の地下への扉を開けるのだ。恐ろしい“全地下”の存在がわれわれの前に開示されるこのシーンは、とびきりの恐怖演出に彩られている。
冷気が吹き上がってきそうな暗い地下階段を全面に捉えた映像に、あんたー!あんたー!というムングァンの金切り声が画面外から重なり、弦を掻きむしるような音楽が否応なしに不安を煽り立てる。はいみなさんここから別ジャンルの映画になりますよ〜そうそうそうです、ホラーなんです!というサインだろう。
そしてとうとう、四年もの間外界との交渉を断ち、パク家の地下室で生活していたムングァンの夫・グンへの存在が明らかになる。想像を絶する異常な境遇にいるこの地下の王の登場によって、キム一家の立場は大いに揺れ動く。それまではあまい汁を啜るブルジョワに対する道義的な報復として、資本家の搾取に立ち向かう闘争として、わが物顔で推し進められてきた革命=インベイジョンの大義名分が失われてしまうからだ。なぜなら、同じ理屈が適用された場合、パク家を占拠する権利があるのは明らかに半地下よりも全地下の方であり(実際に、ムングァンとグンへはキム一家よりずっと先に、完全な形でパラサイトを成功させていた)、さらには、これまた同じ理屈によって、今度は自分たちが彼らに寄生されても文句は言えないからだ。
こうして“計画”の正当性は疑問に付され、“半地下”であることのアイデンティティは失われる。第一の映画においては、虐げられた労働者としてふるまうことのできたキム一家は、今や、全地下と地上の間に位置する中間層、いわば単なる普通の人々でしかない。やつらほど貧しくもなければ、あの人たちほど裕福でもない。こうしたがんじがらめの構造によって、上にも下にも不満をぶちまけられなくなってしまうわけだ。
第二の映画がもっとも過激なのは、まさにこの点、貧乏でも金持ちでもない“普通”を標的にし、撃ち抜く点であろう。




・なぜキム家の中でギジョンだけが殺される?またはプラトン的喫煙と風邪には早めのベンザブロック!

グンへの登場により、恐るべき地下のエネルギーが地上へと噴出する。降り続く雨は町に洪水をもたらし、慌てて舞い戻ったキム家のトイレからは大量の汚水が吹き出す始末。それを押しとどめようとする妹、ギジョン。便器の蓋にどっかと腰かけ、天井裏に隠してあった煙草(奇跡的に水没を免れている)をゆうゆうと吹かす。
グッとくるシーンだ。煙草を吸うのに、これ以上最高なシチュエーションが他にあろうか!世界的に締めつけが強化されつつある喫煙(わけあって先日フランス映画を82本見たのだが、その中でも喫煙所が廃止される描写が多く見られた。それこそゴダールの『勝手にしやがれ』など、かつてはならずものの英雄を表す記号として活用された煙草は、今や完全に貧困と落伍者のトレードマークとして機能してしまっている。僕などは、在りし日のフランス映画に登場する男女たちのカッチョイイ喫煙シーンに憧れて煙草を始めたというのに!一方、こうした規制の裏返しとして、未成年者やキレイな若者が“あえて”喫煙するシーンがエモを表す記号として捉えられつつある現象は興味深い。ためしに、昨今の若手ロックバンドやラッパーのエモい曲のMVをチェックしてみるといい。エモさなるものが、夜、セックス、雨、ネオン、煙草という背徳の記号によって構成されている事実がわかるはずだ)という営みを巡る哲学が、ここには端的に表現されている。
世界から一人切り離されて、だれにも遠慮することなく、今この瞬間それ以外なにもできないという行為の純粋性に身を委ね、くつろいだ状態で意識を無の中にさまよわせる、ささやかで自由な営み。
これこそが喫煙という体験のイデア=あり得べき理想の姿である。現実世界における喫煙体験は、このイデアがさまざまな社会的制約によって毀損された形態であるにほかならない。そこへいくとどうだ、このギジョンの喫煙シーンは、全喫煙者の、いやそればかりか、“社会の外側でちょっぴりくつろぐ余裕”の、完全なイデアではないか!確認してみよう。
世界から一人切り離されて(洪水という非現実的な危機によって現実から遊離し)、だれにも遠慮することなく(精神的に癒着した家族と離れ、トイレという密室で)、今この瞬間それ以外なにもできないという行為の純粋性に身を委ね(文字通り、他にどうしようがある?)、くつろいだ状態で意識を無の中にさまよわせる(“計画”は気持ちいいほどまっさらになってしまったから)、ささやかで自由な営み(開き直りと勝ち誇りが入り交じった、満足げなあの表情を見よ!)。
素晴らしい。完璧な、ほとんどプラトン的な喫煙ではないか!
ところが、まさにこのゆえに、映画の中でただ一人だけ社会の外側に出てしまった、という罪のゆえに、ギジョンは処刑されてしまうのである。煙草に火をつけ吸い終わるまでのわずか数分、そのたった一瞬でさえ、個人の自由を満喫することは許されないのだ。全地下ー半地下ー地上という縦の空間構造を“横に”抜け、うっかり世界の外側を経験してしまった人間に、もはや内側に留まる権利は与えられない。ギジョンはあの瞬間、断じて生かしてはおけない異分子として社会からマークされてしまったのである。

が、それだけではない。
ギジョンは便座に腰を下ろし、汚水の噴出を食い止めた。恐ろしく猥雑な地下のエネルギーが地上を覆うことにストップをかけたのだ。思い出そう。雨が降り出し、街が洪水に襲われるのは、ムングァンがパク家にやってきて全地下の存在が地上に出現した、まさにそのタイミングだった。闇の底から姿を現し、半地下の家族に牙を剥き、さらには地上を侵略せんとする全地下のパワーの迸りを、彼女はなんとお尻ひとつでブロックしてしまったのだ!
終盤で彼女を刺し殺す人物、縦の空間から遣わされる死刑執行人が、他でもない全地下の王・グンへであることは、だから当然のなりゆきだと言える。あれはギジョンの便座ブロックに対する、地下からの正当な報復だったのだ!(ただし二度目のブロックは不発に終わる。「くそっ!」)

とはいえ、安全な地上世界を全地下の恐るべき魔の手から救ったのがギジョンであることもまた事実だ。社会の外側を経験した人間がうっかり社会を救ってしまうという皮肉。もしかすると彼女は、縦の世界が今後も整然とした営みを続けていくための犠牲の羊=イエス・キリストだったのかもしれない。



・キリストといえば·····いかにもだれかが言ってそうな意地悪いミスリードっぽくも思えるけどなくもない聖書解釈(と、つげ義春)

聖書にはユダヤ教徒が信仰する旧約とキリスト教徒が信仰する新約がある。旧い約束と新しい約束のことだ。
ユダヤ教の戒律(トーラー)をちゃんと守れる人だけ救ってあげますよ、これが旧約の神が人間たちと交わした約束。ところがトーラーは日常生活の細部に渡って厳格なルールを定めており、これを律儀に守れるのは実質暮らしにゆとりのある上流層に限られていた。
それでは不公平ではないか貧しい者は切り捨てるのか!こう言って登場したのがイエス・キリストだ。だから、どんな人間でも差別なく公平に救いましょう、なんならダメなやつから順に贔屓しますよ、というのが新しい約束になった。あの有名な聖書の文言“貧しき者は幸いである”はこうして出てくる。
旧約の神は怒れる神、金持ちエリートを優遇する神、反対に、新約の神は赦す神、社会からこぼれ落ちた者を優遇する神だ。キリストは基本的にすべての人間に優しく、貧乏人や病人、娼婦には率先して救いの手を差し伸べたが、当時のエリート層であった聖職者には異常に厳しく、「神聖な場所で金勘定するとはなにごとかー!ばっかもーん!」と叫んで彼らが神殿に持ちこんだカウンターをひっくり返したりした。つまり、キリストはマルクスより純粋なマルクスだったのだ。嘘ではない。事実、イエスと弟子たちから構成される原始キリスト教の共同体は、いっさいの所有を禁じ、信者からの施しによってのみ生活する、歴史上初めての過激な共産主義結社だったのだ!(単なる乞食とも言える)
現代型の共産主義革命を闘うギジョンをキリストになぞらえたのにはこんな含みがある。階級闘争は、マルクス以前から何千年も続けられてきたのだ(裏を返せば一度も成功していない)。
とはいえ、本作が下敷きにしているものがあるとすれば、それはキリストが登場する新約の方ではなく、怒れる神が猛威を奮う旧約の方だろう。この神、とんでもないメンヘラのかまってちゃんで、最近なんとなくボクに対する忠誠が足りない気がする〜という理由だけで町を焼き払ったり雷を落としたり洪水で世界を滅亡させたりするのだから恐ろしい。ある時など、ウチほんまに愛されてんのかなあ?不安やわあ、ちょっと息子人質にとってみよ(๑♡ᴗ♡๑)というとんでもない思いつきから、信仰心の篤い彼ピッピ・アブラハムに息子イサクを殺すよう命じたほどだ。「ねえ、あたしのこと好き?好きだったら子供ぐらい殺せるよねえ?ねえ!」的なテンション。個人的に好みのタイプではあるが間違いなくキチガイである。
そんなクレイジーヤンデレゴッドが引き起こした洪水が、貧乏一家を襲った洪水になぞらえられているのではないか?というのは誰でも考えつきそうなことだ。たしかに旧約聖書が参照されている可能性はある。いかにも怪しいのが、ギウが友人から譲り受ける“幸運を呼ぶ石”。この石は物語において、とりわけ終盤におけるギウの意志決定において重大な役割を果たす。
しかし、どうなのだろう?旧約聖書で石といえば、まずなによりもモーゼが山上で神から授かった教え(いわゆるモーゼの十戒)が記された石盤のことを指すから、例えばギウはモーゼで、そうするとあの洪水はノアの方舟に関連したものではなく、ユダヤの民を率いてエジプトを脱出するモーゼが海を割った(紅海を切り裂いた)エピソードにちなむもの、だからこそあの石は水面を割るようにして汚水の中から浮かび上がってくるのだ、とかなんとか。まあどうにでもこじつけられそうではあるが、どうもこの線は監督の誘導に乗せられている気がしてならない。それに、既に多くの人がやっているに違いないから、ここではあえて別の線を提示してみたい。
つげ義春だ。つげの漫画に、ぼんくら男の主人公が隣に住む李さんという中国人から不思議な石を譲り受ける話がある。なんとこの石、内側から自然に水が湧き上がってくるのだ。大きさや形も、ちょうど本作の石と同じくらい。不思議とこのことが思い出されたのは、なにも石、水、李という中華圏の姓、という偶然の一致のためばかりではない。作品から漂うひょうひょうとした雰囲気が似ているのだ。
まさかポン・ジュノがつげ義春を参照した、などと言うつもりはないが、つげ漫画の特色である四畳半的日常と非日常への跳躍の二本柱には、本作と大いに通じるところがあるのではないだろうか?



・父ダースベイダーの遺志を継ぎ、息子ジェダイが立ち上がる 〜そして伝説へ〜

映画終盤、パク家で開かれたパーティーの席上で事件が起こる。全地下・半地下・地上という強固な縦構造はついに瓦解し、混じり合い、それぞれの領有を主張しつつ血みどろの争いを繰り広げる。事件後、息子ギウは、地下室という暗黒面に堕ちた父ダースベイダー(ギテク)の遺志を継ぎ、家族の悲願を達成すべくジェダイとなって生まれ変わる。一種の発狂を経験して、ライトセーバー=光る剣をライトストーン=軽めの石に持ち替えて。
あの事件が単なる刃傷沙汰を超えた意味を持つのは、それまで不変のものと思われていた全地下ー半地下ー地上という縦の空間構造に大きな変化が生じるからだ。今さら言うまでもないが、『パラサイト 半地下の家族』では、上下の空間性はそのまま社会的身分の上下に通じ、さらには世界を正常に運行している理性=明晰な意識と、その存立を脅かす制御不能のエネルギー=無意識という心理学的な上下に繋がっているのだった。
従って、あの事件は、これらすべての安定した関係を破壊する深刻なエラーとして立ち現われる。
まず、地上の住人だったパク一家は逃げるようにどこかへ越し(おそらく、これまでと同じ裕福な生活は望めないに違いない。ヨンギュの症状=無意識の内面は間違いなく悪化するだろう)、ギテクはかつての住人グンへに代わって全地下の王となる。チュンスクとギウは半地下暮らしに逆戻りするが、しかし、息子は父の願いを聞き入れ、いつか本当の金持ちになってあの高台の家を所有し、堂々と父を迎え入れる日を夢想する。
ここにおいて、本作は第三の映画へと劇的な変貌を遂げる。即ち、『全地下 & 半地下 & 地上の家族』へと。
キム一家は、目的なき革命の、希望なき“計画”の手痛い代償(外側を経験した妹ギジョンの死)を支払い、家族ちりぢりになりながらも、ついに3つの縦空間すべてをパラサイトするに至るのだ。
・全地下=父親が潜む
・半地下=息子と母親が住む
・地上=いつか三人が再会する
このように。
もちろん、現段階では地上へのパラサイトは成功していない。だが、想像の世界において、それは確実に視野の中に捉えられている。思い出そう。真の貧困とは、今・ここではない世界を思い描く力の欠如のことを言うのだった。第一の映画で金持ちのふりをするだけで満足していた彼らは、ついに自ら金持ちになることを決意し、能力に見合う肩書きを得る未来を目指すようになったのだ。革命の理念にも“計画”にも頼らず、まったくの独力で。つまりこの“地上”は、無意識において既に手に入れられている。内容よりも『先に受け取』られていると言えるのだ。まるで序盤でギウが受け取った入学証明書のように。あの書類は、こうして家族全員を繋ぐ夢となるのだ。
先にキム一家の貧困について触れたが、実を言えば、精神の貧困に蝕まれていたのは彼らだけではない。何年も地下に暮らしそこから脱出しようと考えなかった全地下の住人(グンへとムングァン)も、自らの安定した地位が崩れ去ることなど想像すらしていなかったであろう地上の勝者(パク一家)も、今・ここではない空間を思い描けないという共通の病において、半地下の家族と同じ種類の貧困に囚われていたのだ。
だから、コメディーでもホラーでも社会風刺でもあり、またジャンルを超えた正体不明のなにものかでもあるこの映画のラストは、ハッピーエンドである。他でもない半地下に暮らすキム一家のみが、想像の翼を手に入れ、精神の貧困から抜け出すきっかけを掴んだのだから。それが可能になったのは、彼らが第一の映画と第二の映画を通り抜けたからであろう。第一の映画で革命の理論の脆弱さを、第二の映画で理論なき理論の強靭さ(ギテクがギウに語る印象的な言葉“無計画という計画”は、このようなポジティブな意味に受け取られなければならない)を知ったからこそ、固定された縦構造をぶち抜くことができたわけだ。“地上”を侵略し、“全地下”の氾濫を食い止めた“半地下”であったからこそ、三つの空間すべてを繋げて思い描くことが可能になったのである。
とはいえ、半地下の家族はわれわれから隔たった特殊な存在なのではない。第二の映画を振り返ってみよう。全地下の出現によって革命の大義名分を奪われたキム一家は、自らのアイデンティティを喪失し、いわゆる普通の人々として社会の中に位置付けし直されたのだった。普通の人々、例えばそれは、今この文章を書いているわたしや読んでいるあなたのことだ。
やつらほど貧しくもなければあの人たちほど裕福でもない。そんながんじがらめの構造によって上にも下にも不満をぶつけられず、日々鬱積を溜め込みつつ“pretend”で得られるかりそめの満足感(メルカリで高級ブランドのバッグを落として金持ちのふり、ツイッターで政府の悪口を言って共産主義者のふり、インスタでオシャレなカフェの写真を上げてリア充のふり、ネットで得た知識でテレビを叩いてインテリのふり)によって去勢され、革命の意思をあらかじめ奪われた善良な一般市民。耐えがたいほどの普通を生きるわれわれの姿こそが、キム一家なのだ。
だから『パラサイト 半地下の家族』の真実の局面、第三の映画はたぶん、われわれが退屈をやり過ごす日常的な空間から始まる。キムファミリーとともに夢見ることによって。
あのラストシーン、雪の降りしきる窓を背に、寒さに凍えながらひたすら地上を夢見るギウの姿は、きっとそんな想像の革命のポートレートだ。ただ夢見ること、無計画な計画にトライし続けることだけが、堅固な縦構造を突破する道に繋がる。『先に受け取った』書類が徐々に現実化していく未来を切り開くのだ。ここにおいて、形式=無意識はもはや内容=意識に従属せず、誰も見たことのない豊かな内容を作り出していくに違いない。
夢見ること。妄想すること。バカみたいに思い描くこと。本作がわれわれに突きつけるのは、そのなによりの力強さと、「結局のところそれ以外に道はない····」という遥かなる困難だろう。




⑷第三の映画『パラサイト 全地下 & 半地下 & 地上の家族 そしてわれわれ』

TO BE CONTINUED.......?


野生動物の保護にご協力をお願いします!当方、のらです。