「わたしは100%ハラスメントをする人間である」から始める社会構築

あらゆるハラスメントがなんらかの立場の不均衡や権力関係を前提にしている以上、その本質は「わたしが手に入れた道具(特権的な状況)の力を試してみたい」という道具(被)使役欲求にある。
だから、たとえハラスメントの内容がセクシャルな要素を含み持つものであっても、加害者の動機を性的な領域のなかに求めようとすると、かえってその本質を見誤ってしまうおそれがある。
「あの人と同じように、わたしも新しい道具を手に入れたら使いたくなってしまう。だからこそ、それを入手したり使用したりできる状況が生まれないようにしよう」という発想が大事。

そもそも「わたしは100%やらない。ハラスメントに加担するような人間ではない」という常識的な思考は極めて危険だ。
道具と環境が用意されれば、一度くらいその力を試してみたくなってしまうもの。そして、一度でも使えば力の奴隷になる。
思い出してみよう。
種々のハラスメントの事案において特に悲惨と言えそうなケースほど、数年間、時には数十年間もの長きに渡って行為が継続されていることを。
なぜこれほどまでに非道なふるまいがまかり通っていたのか·····到底信じがたいような現実にわれわれはショックを受けるのだが、しかし、それが起こってしまったことは事実なのだ。
ハラスメントが長期に及ぶ理由のひとつは、人間の欲望の構造にある。
ある道具を使役する者は、それがもたらす効果が絶大であればあるほど、次第にその力の虜となっていき、しまいには使役者から被使役者(道具に逆に使われる立場、道具それ自体の欲望を叶える立場)のポジションへと転落する。そうして自身の行状が白日の元に晒されるまで、他の誰かの手によって断罪されるまさにその瞬間まで、行為を継続してしまうのだ。
ハラスメントの本質は道具(被)使役欲求にある。
要するに、ハラスメントを可能にするようなポジションがあらかじめ社会構造の中に内在しており、その権力的な位置にわたしも含めた誰かが常に配置されてしまうというシステムそのものに問題があるのだ。
それが構造的な問題であるからこそ、「わたしはやる。100%やる。だからハラスメントが可能になる状況をなるべく遠ざけよう」という発想が重要になってくるわけだ。

「そう考えるのはおまえが異常なだけだ!私も含めたまともな人間はハラスメントなど絶対にしない!」とあくまであなたが叫び続けるならそれもよかろう。
翻って僕自身は自分のことを道具と環境が与えられた暁には100%やってしまう側の人間だと思っているので、パズルのピースが揃わないよう、よく注意している。

「ハラスメントをするろくでもないやつ」と「ハラスメントをしない普通の善良な人々」の二種類に予め人間を分類して考えているようでは、いつまで経ってもこの問題はなくならない。
もし仮に自分がやらないにしても、道具と環境が揃えばやるやつはやる。必ず出てくる。その点で、「自分はやらない」倫理的な選択には実はあまり意味がない。
誰にあっても力のピースが揃わないような社会構築、システム作りを考えていく必要がある。

「今までの自分がハラスメント加害者になっていないのは(それも本当はどうだかわからないが·····)、今までの自分にたまたまそのようなポジションが与えられてこなかったからではないのか?」という問いを、ぜひ一度自らに発してみてほしい。
では、その二つが唐突に手に入ってしまったらどうなるのか?
積年の恨みを抱く相手や自分にとってなにかしらの欲望の対象となり得る魅力的な相手がもし目の前に現れたら?
それでも私は絶対にやらない、と即座に断言してしまえるような人はずいぶん危ういと思う。

念のため断っておくが、以上は現実のハラスメント加害者を免責するための論理ではない。
そうではなく、だれもが加害者のポジションに落ち込むことを未然に抑止するための論理なのだ。
当たり前すぎて忘れられているが、加害者が生まれなければ被害者は生まれない。したがって、加害者を生まないことはだれもが被害者にならない未来を作るための唯一確実な手段なのだ。
「わたしは100%ハラスメントをする人間である」という自己規定から出発することは、ハラスメント根絶のための極めて現実的な最初の一歩なのである。


野生動物の保護にご協力をお願いします!当方、のらです。