言語化を言語化した途端失われてしまう沈黙の手触り

「言語化」という言葉に違和感がある。
僕としては、もともと言葉でできている世界をイメージの領域に差し戻す=「イメージ化」する方がよっぽど大変なんじゃないかと思う。
例えばほら、君の思う林檎のイメージを、林檎という言葉を使わずに僕に伝えてごらん?
おっとあぶない、気をつけて。
赤い、丸い、美味しい、もいけない。既にして林檎のイメージを言語化したものだからね。
そもそもこの世界が言葉で作られているってことが少しは伝わったかな?
そう、こわい。
僕らはけっこうおそろしい世界の中を生きてるんだよ。



いわゆる「言語化」という流行り言葉について、みんなが言わんとすることの意味ももちろんわかるんだけど、例えば「自分の中にあるもやもやした気持ちを上手く言葉にして相手に伝えられない」状態を「言語化が下手」「言語化能力が低い」と安易に言語化してしまうことによって、なにか決定的に失われてしまうものがあるような気がしてならない。
ここで言う「安易に」は「拙速に」って意味で、なにごとも大切なのは、遠さと遅さとしつこさと粘り強さ。
来たるべきよりよい雄弁のために、孤独と沈黙をチャージしておく姿勢。


たしかに、「言語化」が得意な人と「イメージ思考」が得意な人、大きな傾向として分かれる部分はあるかもしれない。
とはいえ、それはせいぜいが向き不向きの問題に過ぎず、例えば水系ポケモンと雷系ポケモンの違いといったようなタイプの相違をただちに能力の差異に還元してしまうような物言いは、無意識に自分とは異なる種類のポケモンとの間に距離を開け、うっすらじわじわした分断の契機を生むばかりだから、実に悲しく、もったいない。


本来的な能力の差ではなく、現時点における勉強量の差。同じトランプゲームを始めるにあたって互いが所持している手札の数と種類の差だと考えてみよう。
君が今もやもやした思考の断片を上手く言葉に言い表すことができないでいるのは、その思考のかたちにふさわしい言葉のトランプを(あくまで現時点で)所持していないからに過ぎない。
足りない手札は後から少しずつ揃えていけばいいし、そもそもふさわしい言葉が見つからないうちは無理して言語化する必要はないのだ。
むしろ、ここはひとまずぐっとこらえて、今後手札を増やしていくための算段を練るべきだろう。


いつかのわたしの思考の亡霊が、やがてはっきりとした言葉の肉体を伴ってわたしの背中に追いついてくるまで。断固口を閉ざし、じっくり考え育てていくのもひとつの知性。
「言語化」って本当は、我慢と沈黙によるドモホルンリンクルみたいに地道な創造の過程を言うんじゃないかしらん?


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