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処女作遠望談 変物と奇人

そこで、ふと建築のことを思い当たった。建築ならば衣食住の一つで世の中になくてかなわぬのみか、同時に立派な美術である。趣味があると共に必要なものである。で、私はいよいよそれにしようと決めた。

夏目漱石「処女作追懐談」

十五、六のころに夏目は文学の道をめざす。

頭のできのよい青年がその年ごろから志せば文豪にも辿りつくだろうと思うのだが、この時点では兄に止められている。
文学は accomplishment(芸事、戯れ)にすぎないと、むしろ叱られた。

それでも変人の自覚があった夏目は、変人なりに社会の役に立てる道を他に探した。
そこで佐々木東洋を思い出す。彼も変人だが、世間に必要とされている。それがいい。しかし、彼は医者だ。夏目は医者がきらいときた。医者はイヤだ。

で、建築に思い当たる。衣食住を支える仕事であるし、美術との距離もほどよい。わかる。

今度は友人の米山保三郎が止めにかかる。
日本ではロンドンのセント・ポール大聖堂のような建築を後世に残すことはできないじゃないかとか何とか。
そして、哲学者たちの名前を並べ立てた大議論の末、夏目にはまだ文学がいいと言う。

漱石は洋行時の日記に「St.Paulを見る。」とだけ記した。

ところでこの米山という男はなかなかの奇人天才で、『吾輩は猫である』の「天然居士」のモデルになっている。
哲学科のちに数学の道に進んだのであるが、正岡子規が哲学科進学をあきらめたきっかけの人物でもある。

「米山は奇人であるが研究すべき奇人であると思つてゐる」と語ったのは狩野亨吉であった(われわれからしたら狩野も充分に研究したい奇人である)。

で、説得された夏目はまたのんきに文学者を志すことにした。

夏目が在学した時期の東京帝国大学工科大学(現在の東大工学部建築学科の前身)では、辰野金吾が教鞭をとっていた。
もし当初の予定通りに建築を志していたら伊東忠太が学友になっていたかもしれない。
しかし、神経衰弱の彼が建築畑で実を結ぶことはなかなかきびしかったのではないかと想像する。

そうでなくとも夏目漱石の文学が今の世にも広く愛されている以上、米山の提言はまちがいなかった。

この「処女作追懐談」初出は1908年。
漱石がいっさいの教職を辞め、朝日新聞社で職業作家としての歩みはじめたのが1907年であるから、小説家として歩む決意をしたためたのだと思われる。

この年は、米山が二十八の若さで亡くなってから十年が経っている。



近々、私は文学から医学に転向した学友に会いに行く。
学友は就職活動のタイミングで進路転換を決め、半年の受験勉強で国立の医学部に合格した。

彼女の進学先は、東京から列車で半日かかる。
あまりに辺鄙で、どうしようもないほど穏やかな土地だ。
活力的な彼女にはずいぶんと退屈なようだが、物価の安さや地域のつながりの濃さには驚かされていた。
私には、(虫の出現率をのぞいて)うらやましい土地だ。

東京よりずっと空が広い

お互いに夏目と米山ほどの秀才ではないにせよ、彼らのつながりが私と学友との関係に近しい匂いを感じた。
個々の資質でなく、変物と奇人との間に通った管のようなものが似ている。おそらく糸や柱のような中が詰まったものではない。

もし私が処女作を振り返るエッセイを出すようなことがあれば、夏目がそうしたように、彼女のことを書きしたためるのだろうか。
道中、綴ってみようか。


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