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沖縄の海を知りたくて、私は本を開く

「カープが勝ったらお好み焼き100円」

店の前に掲げられた点数表とその文言に、思わず目を惹かれる店があります。

入店し、メニューを開くと、
チャンプルー、海ぶどう、グルクン、島らっきょう…
並ぶのは沖縄料理。

広島焼きをはじめとした広島料理も名を連ね、沖縄と広島をミックスしたような居酒屋。

野球中継のある日は歓声が外に漏れるほど賑やかな店も、
この日は、澄んだ青の穏やかな海の映像が流れ、島唄の朗らかな歌声が店内を満たしていました。

沖縄の海。

調べずとも指一本の動きで流れてくる情報は、ここ数日、同じ話題を繰り返しています。

誰が正しいのか、
どうするのが善いのか、
誰かが傷つかなければ成り立たない世界なのか、
傍観する私は悪とすら思えて、
何もわからなくなります。

誰かが誰かを憎むのが、
現状を嘆くのが、
誰も救われないのが、
あなたは愚かだと言われているようであって、
純粋な吐き気をもよおします。

自分だけはいつも正義の側に立っていると信じていて、仲間より他の相手にならどんな酷たらしいことをしてもいいんだと、そういうサディックなやり口こそが偏見のない態度だと、思い込んでるタイプはいるものね

大江健三郎『燃え上がる緑の木〈第1部〉「救い主」が殴られるまで』p.334

ネットニュースや各番組を観る気にはならず、本を開きます。

一人の人間が抱えるアイデンティティは、それほど多くありません。
ですから物事に直接関わりがあるという意味で、当事者になれることは限られるでしょう。

私が当事者になり得るのは、女性の人権問題と宗教2世問題くらいです。
それすらも、"痛み"はすでに過去のものです。

ですが、本を開けば、私は自分ではない他者の視点を得ます。
当事者にはなれなくとも、「2.5人称の視点」を得ます。

私が沖縄出身だと話すと、沖縄っていいところですね、アムロちゃんって可愛いよね、沖縄大好きですなどと仲良くしてくれるひとは多かったが、ああ、こんなところで暮らしているひとに、軍隊と隣り合わせで暮らす沖縄の日々の苛立ちを伝えるのは難しいと思い、わたしは黙り込むようになった

上間陽子『海をあげる』p.232

救いを求める他者がいることを、本を通じて知ります。

型にはまった活動の網に囚われた人間は、以下のことを忘れてしまう
ーー自分が人間であること、唯一無二の個人であること、たった一度だけ生きるチャンスを与えられたこと、希望もあれば失望もあり、悲しみや恐れ、愛への憧れや、無と孤立の恐怖もあること。

エーリッヒ・フロム(訳・鈴木晶)『愛するということ』p.34

私のことを救ってくれる、私でない他者がいることを知ります。

自分自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい

レビ記 19章18節

隣人を愛するためにとった行為が、第三者を傷つけるかもしれません。
今を救おうとして、過去を傷つけるかもしれません。

本を開く。そこに答えはありません。
それでも、本を開く。

あの青く澄み切った海の映像よりも、
黒々としたこの文字の中に、
沖縄の海を見るような気がして。

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