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もし自分の小説が国語の授業に使われたら、という妄想

昔、私の書いた小説を読んだ友人に「教科書みたい」と評されたことがある。それが「教科書に載っている小説みたい」という意味なら、なんとなく納得できる。実際私は賢治や中也、芥川や太宰といった教科書常連の近代文学作家に大いに影響を受けているし、作風としても子ども向けを意識したものが結構あったりする。もちろん、私の文がそんな錚々たるメンバーに連なるものすごい名文だとはちっとも思えないが。

そこで、もし本当に国語の授業で私の文章が使われたら、という妄想をひとつ繰り広げてみようと思う。
作者だからこその先入観や前提でバイアスがかかってしまうのは仕方がないとして、それをできるだけ防ぐような内容を考えてみよう。教科書によく載っている小説でさえ大体の解釈や文脈は定説として共有されているものだし、その定説に頼りすぎない、と考えることは一つの手だ。


先ほど言った通り、私の作品の中には子ども向けを意識したやわらかく短い文体のものがいくつかある。noteに即興で書きつけるような場面ではそれが一番やりやすいこともあって、今年7月に作った短編集「星の杯」に収録した3作品は、そのまま『創作童話』と銘打っている。


しかし今回は、同じ短編集から「手の肖像」と題した小説を扱っていこうと思う。全文をpixivに載せてあるので、適宜確認しながら読んでいただきたい。
この小説は文量も若干多く、敬体ではなく常体を使っていることに加え、後述する通り『大人になること』をテーマの一つにしているため、中学生や高校生向けとなりそうだ。

さて、それでは妄想を加速させていこう。どうせ自分で書いた文章なんだから、どう調理したって自分の楽しみの範囲内だ。

なお、授業中に行われる問いかけや活動にあたりそうな部分は、以下太字で書いてみることにする。


とりあえず一度読んでみて、基本情報を整理する

基本的な登場人物は、”語り手”と”彼女”。主人公は”彼女”だと考えてよいだろう。
まえがきで二人の会話が描写され、その後は『語り手が彼女から聞いた話』という設定の物語(いわば回想シーン)に進んでいく。そして物語が最後までたどり着くと、まえがきの会話の場面に戻ってくることなく、小説自体が終わっている。
自分でも書き終わった後に気づいたのだが、中1の教科書によく載っている「少年の日の思い出」(ヘルマン・ヘッセ)もこれとほとんど同じ形で書かれている。物語の語り方が似ているということは、語られる内容にも似ている部分があるのだろうか。

途中で実在の絵画や彫刻に言及しているところは、高校現代文でよく扱われる「檸檬」(梶井基次郎)にアングルの画集が登場することにも似通っている。というか、こういう芸術の古典的名作の名前をさらっと書いたりする近代文学の(ともするとちょっと衒学的な)雰囲気が結構好きなので、これは半分わざと真似している。実際に『アルブレヒト・デューラーの有名なスケッチ、それに高村光太郎のブロンズ像、或いは数々のギリシャ彫刻』の写真を見て、そこから受けた印象と小説での描写を比べてみてはどうだろう。

また、全体を通して多用される比喩表現や、地の文に突然主人公の心の声がそのまま反映されている部分など、表現にも注目してみたい。特に後者については、漢文の白文の中に隠れた会話を見つける問題のような難しさを感じるかもしれないし、むしろ主人公の思考が一気に流れ込んでくるようで盛り上がりを感じるかもしれない。


最後のシーンを解釈してみる…手、朝日、色鉛筆

これまで何人かの知り合いからこの作品について感想をいただいたが、やはりそれぞれが着目する点は違い、受ける印象も違うようだ。その中でも、私は物語の最後のシーンについて解釈を寄せてくださった方のことを印象深く覚えている。物語の最後で彼女が描いた「朝日に伸びる手の肖像」は、何を表していると解釈できるだろうか。
物語の序盤では、主人公が「幼少期の自分を大切にしている」ことが描かれている。中盤では、自分の手が突然知らない人間の手に見えたような経験から、体や心がその幼少期から遠ざかり大人へと向かっていることを実感する。醜い手の描写や暗い夜の部屋のイメージ、そして涙を流していることから、その実感には恐怖や嫌悪感といったネガティブなイメージが含まれていると考えられる。
そして終盤、目覚めた”彼女”は朝日にかざした手を色鉛筆で描く。朝日は一般的に新しいものごとの始まりや希望のイメージを持っているし、ずっとうまく描けなかった手を描くことができたという点で、これを自身の変化の受容と捉えることもできる。しかしよく読むと、色鉛筆は序盤で『あたたかい幼少期の記憶』を列挙する場面に登場しており、苦手な油絵を満足に完成させることなく元々得意な画材に逃げたと考えれば、これは変化の拒絶と捉えることもできる。この場面に関しては、人によって解釈も読後感も分かれ、さらに初読時の考えと描写を細かく検討したあとでの考えが変わることも大いにありえるだろう。正解のない問題だとしたうえで、ディスカッションなどしたら盛り上がるだろうか。


冒頭の問いに答えて、作文を書いてみる

まえがきで、”彼女”は”語り手”に「大人になるって、どういうことなんでしょうか」と訊いている。これは、少し前に成人を迎えた”語り手”に、来年成人を迎える”彼女”が、その後に描かれる一連の経験を踏まえて発した問いだ。
私がこの小説を書いたのはまさに”彼女”と同じ、あと一年で成人を迎える頃だった。十八歳成人が浸透していくことだし、特に17歳の生徒が多い高校2年などでは、「大人になる」ということについて考えてみる機会をとることも良いのではないか。例えば、この問いに対して自分ならどう答えるかを端的に書き、その理由を自由に作文してもらう、など。
先ほど書いたように、この小説の主人公は大人になることに対して当初ネガティブな感情を抱いており、ラストでもその感情が消え去ったとは明言されていない。生徒も大人になることについて複雑な感情を抱いているだろうから、一概に明るい宣言を良しとするのではなく、様々な感情の表出を許容し、共有する機会になればと思う。


発展:他教科の授業と繋げてみる

例えば、美術の授業で実際に自分の手を描く活動をしてみてはどうだろう。一つは写実的に鉛筆でデッサンし、もう一つは好きな画材で『一番自分らしい』と思う手(あるいは『自分がそうなりたいと思う未来の自分』の手)を自由に描く。写実とデフォルメそれぞれの利点を発見できると面白いだろう。自画像を描く題材もよく授業で扱われるので、その前段階の活動にもなるかもしれない。

また、十八歳成人に関しては、公民や現代社会の授業で取り上げられることだろう。投票や契約など、制度的な面での「大人になること」についても学ばなければいけない。


おわりに

ひととおり妄想してみた。活動としてはオーソドックスでいささか単調な授業のようだが、なんとなく読解の骨子は捉えていると思うので私としてはひとまず満足だ。

また、この記事を書きながら、高校のときに体験した印象深い国語の授業を思い出していた。古典の授業で、漢文「邯鄲の夢」とそれを基にした芥川の「黄塵夢」を読み比べ、それらの違いを踏まえて自分の思う『人生之適(人生のたのしみ)』について意見交換する、という活動内容だった。自分の思想や将来について文学作品を通して考え、それを友人と共有することは、忘れられないほど楽しかった。私はそういう感動の経験を糧にして生きているのだ、だからこんな記事を書こうだなんて思うのだ、と一人で納得した。

それと、私はもう一つ、「もし自分が国語や倫理の資料集のように略歴で紹介される人物になったとしたら、どんなことを書かれるのだろう」なんてことを時折妄想していたりする。年表は何年までで、どんな出来事が書かれるのだろう。何か作品は紹介されるだろうか。写真は使われたりするだろうか。自分の残した功績を他人が取捨選択したとき、そこには私の歴史的・社会的な価値づけが反映される。そしてその略歴を見て誰かが生前の私に思いを馳せるようなことがあるかもしれないのだから、ロマンを感じるではないか。

まぁそんなことも反実仮想、夢のまた夢。私のような人間にとって、「自分の作品や自分自身が他人によってどう分析されるか」という視点での自己分析は、片手間に楽しくやるだけの面白い遊びなのだ。



(見出し画像は、短編集「星の杯」で『手の肖像』の扉絵に使った消しゴム版画。)

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