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無敵

 その社内コンペでも、僕の案が採用されることはなかった。
 車のデザイナーなどというと格好いいが、僕がやっているのは内装のデザイン。外側の造形を担当することはない。それでもデザイナーという響きは合コンに女の子を集めるにはそれなりに力を発揮するらしく、大学時代から付き合いのある友人たちからは、わりと頻繁に声がかかる。ただしそこでの僕の肩書きは、「インテリア・デザイナー」ということになっている。嘘ではないにしろ、多少誤解を招く表現であることはわかっている。だけど友人たちからは、その辺は黙っておくようにときつくいい渡されている。
 デザイナーが来るという触れ込みで集まって来た女の子たちの興味は車の内装とはまったく別のところにあって、正直に話すとあっという間に興醒めになるからだ。
「どんなものをデザインしてるんですかあ?」なんて無邪気に訊いてくる女の子もいるけど、そういうときは、「椅子とか、そういうやつ」とごまかす。インテリア・デザイナーなんだから室内装飾全般とかいってごまかしておけばいいものを、それはそれで僕のプライドの最後の部分が許さない。
「見てみたあい」などと食い下がれるとさすがに困る。「まだ、たいした作品は出来てないから」といって勘弁してもらうけど、これは本当のことだから仕方がない。
 そもそも、車の内装デザインの話なんかで盛り上がるはずがないんだ。「ヘアライン仕上げのアルミパネルが…」とか、「ドリンクホルダーの位置を…」なんて話に彼女たちが目を輝かせるはずもないし、「メータークラスター」なんて言葉は、彼女たちが生きているのとは別の宇宙に属している。逆にそんな話題で盛り上がる女の子はこっちから願い下げしたい。
 一度だけ、ある車の内装を「かわいい」といっている女の子を見たことがある。販売店研修で現場に出ているときのことだ。だけどそれにしたって車全体の話からすればおまけみたいなもので、おまけといえばそれはあるブランドとコラボした特別企画の車の話だった。
 だいたい自動車雑誌のライターだって、それほど内装に興味を持っているわけじゃないだろう。彼らの書く記事の中心は、ガワのデザインとエンジンの話だ。
 内装でちょっと冒険的なことをやると、これでもかというくらいこてんぱんに叩かれる。「メーターの視認性には再考を促したい」とか、「この部分の木目調パネルが全体の調和を乱しており」とか、「このシートでは後席に座らされる家族がかわいそうだ」とか、いいたい放題だ。
 マイナーチェンジをすればしたで、「足廻りを熟成させてきた」だの、「煮詰められたエンジンが」だのと、またぞろ同じような記事が出る。マイチェンではあまり紙面を割くことは出来ないから、内装に改良が加えてあってもそれが文字になることはほとんどない。
 一度、ある有名な自動車評論家がマイチェンでシートが良くなったって書いてくれていたのを読んだことがあるけど、あれはテキスタイルの模様を変えただけ。中身はなんにもいじってない。
 僕は評論家が外装よりも多くを語りたくなるような内装をデザインしてやろうと勇んで入社し、予算という制約に愕然とし、自分の実力のなさに頭を抱えている。
 今回の社内コンペでも、僕はまたもや実力のなさを思い知らされた。
 自分のことを下手くそだというつもりはない。本当の下手くそだったら自動車会社のデザイン部門に就職出来ているはずがないからだ。だけど自分がデザインした内装を乗せた車が走っていないんだから、実力は足りていないということなんだろう。
「この車が走っているときの、全体のイメージにあわないんだよな」と、デザイン部門のチーフはいった。
 どこがどうあわないのか教えてもらいたいものだったが、そんなことがいえるわけもなく、同期のデザインが採用された。そちらの方は全体のイメージにあっているということらしい。
「おまえのデザインも、決して悪くはないんだぞ」
 チーフはそういって僕をなぐさめてくれたけど、そろそろそんな言葉の効き目も薄れ始めていた。僕がコンペにデザインを提出した回数と、その言葉をもらう回数がまったく同じだったのだから。
 付き合っている宏香には、結果は報告しなかった。
「どうだった?」に「だめだった」で返すのもいい加減うんざりしていたし、なんだか母親にテストの結果を報告する小学生みたいな気分になるからだ。それに彼女の方だって、悪い報告ばかり聞きたくはないだろう。
 だから待ち合わせた駅で、僕は昨日ネットで見つけたおもしろい動画の話を始めた。
「そいつが試着室から出て来るとさ、お店が変わっちゃってるんだよ」
「ふうん」
「店員も商品もごっそり変わっちゃってて、女性の下着売り場になってるの」
「ふうん」
「その様子を見て固まっちゃってるそいつにさ、店員がいうんだ。『着け心地はいかがですか?』って」
「で、だめだったのね?」
 僕は毒針で急所を直撃された気分だ。
「うん」と、精一杯なんでもない風を装って答えた。
「まあまあ、気にしないの」
 宏香は僕の肩をぽんぽんと叩いた。彼女は背が小さいから、腕をだいぶ上げないとこの動作は出来ない。
「気にしてないよ」
 この日が結果発表だなんて一言もいわずにいたのに。
「そお?落ち込んでますって、ゴシック太字で書いてあるわよ」
 この辺りこの辺りといって、僕のおでこに手を伸ばす。
「やめろよ」
 払いのけられても、彼女は一向に気にする様子もない。
「バティスタ・ピニンファリーナはね、初めてデザインが認められるまでに八十九回もボツにされたのよ」
「ほんと?」
 バティスタ・ピニンファリーナというのは、イタリアの有名なカロッツェリアの創始者だ。僕は学生時代から内装専門だったから、知っているのは彼の名前と代表作くらいのもので、その点については同僚によく馬鹿にされる。
「さあ、知らない」
 宏香はあっさりといった。
 いつもこうだ。ヨーロッパのマイナーな映画の買い付けをやっている彼女は、おそろしく弁が立つ。本当のことから怪しいこと、もっともらしいことからまったくのでまかせまで、あらゆるものを混ぜ込んでプロデューサーを口説く、騙す。
 付き合い始めて間もない頃、「口八丁だね」という僕に「十六丁よ」と返してきた。「ついでにいうと、舌先は二十寸くらいあるわ」
 こんな調子だったから、僕は彼女との口喧嘩で勝ったことがない。

 その合コンに参加したのは連敗が続く仕事の憂さを晴らす目的もあったかも知れない。
 僕は浮気をするつもりはないし、実際浮気をしたことは一度もない。彼女がいる身で合コンに参加すること自体がもはや浮気だというのなら僕には反論のしようがないけど、それなら僕の友人たちに合コンをセッティングしてあげて欲しい。
 宏香もそれは知っている。だからときどき文句はいうけど、本気で怒られたことはない。ちゃんと合コンの予定をつまびらかにして、終わったらLINEでなく電話をよこすことという約束を守っている限りは。
 五人対五人というそこそこの人数で始まった合コンは、解散するときには三組対四人になっていた。もちろん、僕はそのソロ活動四人の方に入る。
 三組はそれぞれの二次会に消えて行き、四人はそのまま帰路につくことになった。ただ僕ともう一人のソロの男は、帰り道でもう一軒おでん屋に立ち寄った。さっきまで合コンをしていた店とはかなり方向性の違う、赤提灯が誇らしげに揺れる屋台だった。
「親父、ビール」
 僕らはもう一度ビールから飲み直した。僕はお洒落なバーなんかより、こういう店の方がずっと落ち着く。
「はんぺん、ちくわに大根」
 僕の好きなたまごは「まだ味が染みてない」と、親父に却下された。
「なぜ今日の女子たちは俺のような男の良さに気付かん?」
 隣で友人がビールをあおる。僕は笑ってちくわに箸をつけた。
「まあ、今日はな、俺好みの子もいなかったことだし、あいつらに花を持たせてやったわけだが」というわりにはペースが速い。ビールが日本酒に変わるのも時間の問題だろう。
 そうだな、と調子を合わせる僕に、「おまえはいいよな」と悪態を吐く。
「ちゃんとした彼女がいるし、一応デザイナーだし。俺なんかただの営業で、合コンでも持って行かれて、もう噛ませ犬状態だぜ」
 ちゃんとしてない彼女というのはいちゃだめだろうと思ったけど、彼のいいたいことはわかった。ただ、「一応デザイナー」という言葉には胸が痛んだ。
 長い付き合いの僕らは、互いの現状を余すところなく知っている。だから彼も、僕のデザインがまだひとつも製品になっていないのは知っている。噛ませ犬という点では、僕は彼に引けを取らない。社内コンペではかなり優秀な噛ませ犬だ。
 彼が知らないのは、「一応デザイナー」という呼び名から「一応」よりも「デザイナー」という肩書きの方が早く取れてしまうんじゃないかと、近頃の僕が思い始めていることだ。
 それでも合コンに女の子を集めるための撒き餌として「デザイナー」と喧伝されてしまうから、こちらとしては砂を噛むような思いだ。いや、僕には彼女がいて本物の餌にはならないから、どちらかというと疑似餌かな。
「昆布ときんちゃく」
 さっきの店でもずいぶん食べたような気になっていたけど、おでんは別腹だ。もしかしたらこれは、メタボへの道一直線かも知れない。
「そんなにいいものじゃないんだぜ」
 いろんな意味を込めていった僕の言葉は、彼にはのろけとしか聞こえなかったようだ。
「じゃあ代われ、この野郎」
 彼がつかみかかってきたのと同時に、胸ポケットで僕の携帯が鳴った。
「ちょっとタイム、タイム」
 届いたメールを確認して座り直す。
「仕事か?」
 職業柄、おかしな時間にメールや電話が来ることはめずらしくない。それも友人たちは知っている。
 特に時差のある海外のデザイン・センターから重要な情報が入ったときなどは、昼夜関係なく連絡が来る。もっともそれは僕に直接届くのではなく、上司を経由してまわってくるんだけど。
 でもこのときのメールは仕事とは関係のないものだった。
「いや、彼女」
 何気ない調子でいったつもりだったけど、それがかえって彼にダメージを与えてしまったらしい。
「ああ、おまえってそういう奴だよな。このタイミングで彼女からメール来るか、普通」
そんなこといわれても、宏香がメールを送ってくるタイミングまでは僕にはどうしようもない。
「彼女は映画関係者だし、おまえは一応デザイナーだし。デザイナーと業界関係者のカップルなんて、はたから見たら羨ましい限りだぜ」
 それははたから見てるからだよ、といっても信じてもらえそうにはなかった。僕か彼女にやり込められている事実は、いいたくもない。
 その日は結局、たまごは食べさせてもらえなかった。
 

 もうずいぶんと肌寒くなって、気の早いクリスマス・ソングが聞こえてくる頃、僕はまたあのおでん屋に立ち寄った。
 屋台はこの前と同じ場所にあって、愛想の悪い親父も相変わらず、僕が負け続けていることも変わらなかった。次のコンペでも勝てそうにない気がしていたし、そうなれば僕の星取り表の黒星はまた数を増やすことになる。まだ白星がひとつもないのに、だ。
 合コンで会った子に街で再会するのはめずらしい。というかそのときまで、僕はそんな偶然にあたった試しがなかったから、そんなものはテレビドラマの中だけの話だと思っていた。ましてや、女の子とおでん屋の屋台で再会するなどというのは。
 それだけレアなシチュエーションだったにも関わらず、不思議なことに僕はいま、その子の顔も名前も覚えていない。確かこの子も合コンのあとはソロ活動だったと思うけど、そのときのこともそれ以上は思い出せない。
 音もなく暖簾をくぐった彼女は、これまた音もなく僕の横に座ると、いきなり冷酒を注文した。
「こんばんは」
 僕は先に声をかけた。しかしあくまでもやましい気持ちはまったくなかった。
「こんばんは」
 彼女は僕の顔を見て答えた、と思う。
「この間合コンで会ったの、覚えてる?」
「ええ」
「よく来るの、こういう店?」
「そうね」
 いいながら、彼女はおでんを注文していく。迷うことなく品目を選んでいく辺り、よく来るというのは本当なのだろう。
「デザイナーをしてるのよね?」
「うん」
 彼女の方も、僕のことを覚えていたらしい。
「インテリア・デザイナー?」
「うん、まあ、そんなとこ」
 僕の答えはちょっぴり歯切れが悪くなる。
「椅子とか机とかのデザイン?」
 普段、こういう流れになったときには仲間がうまいこと救い出してくれるけど、今日の僕には援軍がいない。
「そうだね、机のデザインはしないけど」
 車の中に机なんかない。
「私も見たことあるかしら?」
「いや、ないと思うよ」
 車のシートを注意して見たことのある女の子となんていないと思うし、注意して見ても僕のデザインはどこにもない。
「ほんというとね、僕は車の内装をデザインしてるんだ」
 別に嘘をついていたわけではないから、「ほんとういうと」なんて言葉を付ける必要はないんだけど、半人前だということを黙っていたのが後ろめたかった。
「デザインしてるっていっても、まだ自分のデザインが形になったことはないんだけど」
「そうなの」
「うん」
 こういう時に沈黙されるのがいちばんつらい。宏香みたいに、「なによ、この歩く誇大広告!」とかって揶揄してくれた方がずっといい。
 間が持たない僕はまたいくつかおでんを注文し、ビールを日本酒に変えた。
「負けるのは、いや?」
 一瞬、なにをいわれたのかわからなくて、僕は彼女の方を向いた。
「負けるのは、いや?」
 僕の視線を受けて、彼女はまったく同じ調子で繰り返した。
「負けるのが好きな人なんていないと思うけど」
「そう」
 そういって、彼女はコップに口を付けた。それは見事な飲みっぷりで、「くいっ」という音が聞こえてきそうだった。
「そうだよ。負けていいことなんてひとつもないだろ」
「そう」
 僕は仕事のこと、宏香とのこと、その他いろんなこと、つまりはありとあらゆることで負けが込んでいることを思い出していた。
 高校生のとき短期交換留学生に選ばれなかったことから、中学生のときにサッカーのレギュラーになれなかったこと、小学生のときに徒競走で一度も一等賞を取れなかったことまで、振り返ってみると僕の対戦成績は見事なくらい敗北の連続だ。
 とはいえ僕は別に、普段からこんな風に自分の敗北の歴史を眺めてブルーな気分に浸るほどマゾヒスティックなわけじゃない。ただこのときは、タイミングが悪かった。
 この前日に、また宏香と喧嘩をしていたのだ。というか、またいい負かされていたのだ。
 僕がぽつりと、「俺、才能ないのかなあ」と口にしたとき、彼女は「ない」と即答した。
 いくらなんでもそれはないだろう。彼女なら少しはもり立ててくれ、というより早く、宏香はまくし立てていた。
「才能があるかないかなんて、認められるまで誰にもわからないじゃない。才能があるから認められるんじゃなくて、認められれば才能があったってことになるの。
 自分に才能がないと思ってデザイナーを辞めるなら、認められるなんてことはあり得ないから、あなたには才能がなかったってことになる。認められるまでやるんなら、あなたには才能があったってことになる。
 才能がある人っていうのは、認められるまで懲りずにやり続けた人のことよ。才能は執念の別の名前だわ」
 それはまあ、そうなんだけど、と僕は黙り込んでしまった。
「勝てるわよ」
 冷酒を飲み干した彼女の声が間近から聞こえたように思えて、僕は現実に引き戻された。
「なにに?」
「すべてに。あなたが勝ちたいと思っているすべてのことに」
「そうだといいな」
 僕も負けじと日本酒をあおった。隣で早くも出来上がってしまっているらしい女の子に追い付くために。
「勝てるわよ」
 彼女はまっすぐに前を見つめたままいった。その目はうっすらとしか開かれていないけれど、奇妙な光をたたえていた。
「勝てるわ、あなたに勝つ覚悟があるのなら」
「覚悟はいつでも出来てるよ。ただ勝利の女神があさっての方を向いてるんだ」
 その女神を強引にでも振り向かせる力を、才能というのかも知れない。
「それなら、もう負けない」
 そういって、彼女は自分の皿から僕の皿へと赤いウインナーを移してよこした。スーパーの食品売り場でもめっきり見かけなくなった、例の安いウインナーだ。屋台の親父がウインナーの耐久力テストでもしたのか、何時間も煮込まれていたらしいそれはぱっくりと縦に割れていた。
 僕は「ありがとう」といってそのウインナーをつまんだけれど、彼女がいつの間にか席を立っていたのには気付かなかった。
 

 翌日の朝は、寝坊した。勝つ覚悟があっても眠気には勝てないらしい。それとも、何度も僕を起こそうとしたに違いない携帯のアラームに完封勝ちしてしまったということだろうか。どうやら昨日は飲み過ぎてしまったらしく、二日酔いで頭が痛くて仕方がない。
 寝坊といっても会社に遅刻するほどではなかったから、僕は急いで身支度を整えると駅に向かった。自動車会社に勤めてはいても、街の真ん中にあるデザイン・センターに通う僕の通勤手段は車ではなく電車だ。
 ホームに降りると、ちょうど電車が滑り込んでくるところだった。動き出す電車の中、僕は降りる駅の階段の位置を考えて、車両を移動していった。いつもとほんの少し時間が違うだけで、車内は驚くほど人が少ない。かといって座れるほど空いているわけではないのが残念なところだ。
 ところが二番目の車両に差しかかったとき、僕は車両の中程、七人掛けシートの真ん中にぽつんと一人分の空きがあるのを見つけた。そこはもう、二日酔いの僕のために用意されているに違いない席だった。
 その空白を目指して歩き始めたとき、車両の反対側から僕と同じように歩いて来るサラリーマンが目に入った。
 こういうとき、二人の人間の間では無言の戦いが繰り広げられる。
 我先に走り出すことは出来ない。たとえ座れたとしても、周囲から非難の視線を浴びるのは社会人としての矜恃が許さない。その席にたどり着いてしまうのが避けられない運命であったかのように、互いに相手よりほんの少しだけ速いペースを維持しようとする。自分がその席を選んだのではない、その席が自分を選んだのだといい聞かせながら。
 この日、選ばれたのは僕だった。
 一歩、二歩と歩みを進めるうち、向こうが脇に抱えていた折りたたみ傘を落としたのだ。ライバルがしゃがみ込んで傘を拾っている間に、僕は悠然と席に座った。
 これはもう、文句の付けようがない勝利といってよかった。折りたたみ傘を持って来たのは彼の意志だし、それをカバンに入れず脇に挟んでいたのも彼の判断だ。その判断が彼の不利に働いたのは、誰のせいでもない。
 思えば、これがすべての始まりだったと思う。でもそのときはそんなことにはまったく気付かなかったし、鈍感な僕が気付くほどのことが起こるのは、もう少しあとになってからのことだった。 

 十二月に入り、次の社内コンペが目前に迫っていた。
 今回のプロジェクトは既存の車のモデルチェンジではなく、まったくの新規開発となる超小型車だった。軽自動車よりは大きいけれど、本当に四人乗れるのかと思えるくらいの小ささ。シャシーは先頃発売された中型車のものをスケールダウンして、足廻りも、エンジンも新設計。いま流行りのプラグイン・ハイブリッドだ。
 このサイズでの本格的なプラグイン・ハイブリッドエンジン搭載車は前例がない。おかげで自動車雑誌でも大きな注目を集め、企画立案の直後から毎月のように「スクープ!」と称する記事が掲載されていた
 いっちゃっていいのかどうかわからないけど、ああいう記事のほとんどは内部から意図的にリークされたものだ。写真だって、車内の人間が見ればテストコース周辺のどこから撮ったものかなんてすぐわかる。それを放置しておくのも、ある程度話題性を作るためだ。ただ時々、漏れちゃいけない情報が載っちゃってることがあって、そういうときは大騒ぎになる。
 僕は何度も会議に出席し、アイデアを煮詰めていった。
 この段階での会議というのは、開発主査を中心としたチームが決定した基本方針を各部門に伝えていくというものになる。エンジンとかサスペンションの開発部門にはもっと具体的な指示が行ってるんだろうけど、こっちはまだイメージ先行だ。
 最終的なデザインは世界に数カ所あるデザイン・センターからあがってくる候補の中から選ばれ、その候補になるには各デザイン・センター内のコンペで勝ち残らなくちゃならない。僕が毎回敗北を喫しているのはその段階だ。
 コンペ前日、僕は会社に残って自分が描いたデザインに最後の修正を加えていた。この段階からCADを使う人もいるけど、僕はいつも手描きだ。
 全体としては完成していたし、それが勝敗を決するとも思えないような修正を僕は加えた。こういうことは、デザイナーならみんなやる。軽い強迫観念症みたいなものだ。
 ところが翌日、広い部屋の壁一面に貼り出された何枚ものデザイン画の前を歩いていたいチーフは、僕の絵の前で足を止めるとこういったのだ。
「メーターの意匠がいいな。この車にふさわしく近未来っぽいけど、安っぽくない。それにセンターコンソールに付けたアールがおもしろい」
 チーフの指は、僕が前日修正した部分を次々と指していった。
 僕は昨日の夜のことをチーフがどこかで見ていたんじゃないかとさえ思った。しかし、そんなことはあり得ない。デザイナーが使用している通称「タコ部屋」はそれぞれに机があるとはいっても、仕切りは極めて低いものだ。チーフが机にへばりついて息を殺していたならともかく、そんなことをするわけがない。
 結果、僕のデザインが日本案として採用された。もっとも、これはまだ原案とでもいうべきもので、このあとチーフの監修の下、何度も修正を加えて完成となる。
 僕は天にも昇るとはほど遠い気持ちでいた。「なんで?」というのが正直なところだった。
 まったく新しいカテゴリーの車ということで、いろいろと新しい試みを入れてみたつもりではあるけれど、これまで何十枚も描いてきたデザインより特別優れていると思えるものでもなかった。部分的にはこれまでに使った手をもう一度使ったところもある。以前にははまらなかったデザインが、今回はぴたりとはまったということだろうか。
 僕のデザインはこれから世界中のデザイン・センターから寄せられる候補たちと並べられ、比較検討されることになる。そのことが、なんだか僕を日の丸を背負ってオリンピックに出場する選手になったような、背筋が伸びるような気持ちにさせた。
 もちろん、すぐにメールで宏香に連絡を入れたけど、仕事でフランスに行っている彼女からすぐには返信はなかった。
 そしてその日の帰り、またしてもあの子に会った。場所は僕の会社の最寄り駅だ。
「君の会社もこの辺だっけ?」
 ホームに並んで立ちながら、僕は訊いた。
「いいえ、今日はたまたま」
 続けてその子は、どうしてこの駅を使うことになったのかを話したような気がするけど、僕はよく覚えていない。それば僕が、初めてデザインが採用されて舞い上がっていたからかも知れない。
「そうそう、デザインがね、採用されたんだ」
「そう、よかったわね」
 誰かに盛大に祝ってもらいたい気分の僕は、「よかったわね」だけでは物足りない。だけど例の友人たちだってそれぞれに仕事を抱えていて、突然の招集に答えられるのは一人もいなかった。むしろお祝いメールにこれでもかと使われている絵文字が、僕をよりいっそう欲求不満にさせていた。しかも、宏香がフランスから帰って来るのは四日後のクリスマス・イヴだ。
「あなたは、もう負けない」
「ありがとう」
 とはいえそれは褒め言葉というには大げさだ。普通にお祝いの言葉が聞けると思っていた僕の返事は、ちょっとちぐはぐになる。
「あなたは負けない」
 そりゃあいい、と僕は思った。この先もう負けることがないのなら、僕の人生は安泰だ。
「それなら、いまからサッカー選手にでもなろうかな」
 僕は適当なことをいってみた。そんな夢は中学校時代にとっくにあきらめていたけど。
「はなから勝負にならないものは、だめよ」
 僕の冗談に、その子は真面目に応える。
「じゃあ、なんなら勝てる?」
「あなたがちゃんと参加できる勝負」
「それなら、アメリカ大統領選とかはだめなんだ」
「だめね。そもそも立候補の要件を満たしていないから」
 要件なんて、ずいぶんと難しい言葉を使うじゃないか。
「でもあなたが大統領選挙のスタッフとして雇われたのなら、その候補が負けることはないわ」
 僕は政治に興味はない。日本のいまの首相のフルネームだって、漢字で書けるかどうか怪しいものだ。その僕がアメリカ大統領選のスタッフに選ばれることはないだろう。いや、興味があってもだめなんじゃないか?
「なんだったら勝てるんだい?」
 僕は改めて訊いてみた。普段ならこんなばかばかしい会話を続けることはないけど、まだ僕の身体の中にはデザインが採用されたことによるアドレナリンが残っていたんだろう。
「いくつも勝ってるんだから、そろそろわかるでしょう」
 その子は物わかりの悪い子どもを諭す母親のように、ため息混じりにいった。
 ばかいうな。僕が勝てたのはデザインの社内コンペくらいじゃないか。他に勝てたといえるのは、電車での座席争いと、ホームセンターで並んだレジがいちばん速く進んだことと、売り切れ必至のクリスマス・プレゼントの最後のひとつを予約できたことと……。
 負けてない。
 僕は顔を上げた。そういえば、その子と目が合ったのはそのときが初めてだった気がする。
「覚悟が出来ている人は、もう負けないわ」
「どうなってるんだ?」
 僕はちょっと落ち着かない気分だった。
「勝ってるのよ」
 にべもない。
「ずいぶん小さな勝利だな」
 僕はわざと冗談めかしていった。
「それは、あなたが参加している勝負が小さいからよ。大統領選は無理でも、国政選挙に出れば勝てるし、自民党の総裁選に勝つことも出来るわ」
 自民党の総裁選に勝つってことは、ほぼ日本の総理大臣になるってことじゃないか?
「じゃあ、包丁で刺されても死なないとか?」
 僕はまだ冗談で紛らすつもりだった。
「そんな都合のいい話はないわ。刺されれば、死ぬわよ」
 なんだ、当たり前か。僕の肩から少し力が抜けた。
「でも、あなたは刺されない。誰かがあなたを刺そうとして争いになったら、その人は自分の持っている刃物で自分の身体を刺すのが関の山」
 確かに、それは勝負といえるかも知れないけど。
「勝つというのはそういうことよ。競争がなんであれ、勝ってしまう」
 僕はこの子が薄気味悪く感じ始めていた。
「君のいうとおりなら、僕はずいぶん恵まれてるな。このあともずっと勝ち続けるんだろう?」
「そうね、あなたは勝ち続ける」
 彼女は目の前の線路に視線を戻した。
「もう、負けることは出来ない」
 やって来た電車にその子と一緒に乗ったのかどうか、僕の記憶は定かではない。
 

 朝目が覚めて、僕はベッドで昨日の夜のことを反芻していた。まんまとはめられた気分だった。
 あの子がやっていたのは、そこらの三流占い師と変わらない。相手から聞き出した情報を、意味ありげな言葉に変換して投げ返す。それを聞いたものは不安になり、興味をそそられ、またしゃべる。これの繰り返しだ。
 しゃべっている当人は、占い師が投げかける言葉に驚くばかり。だけど実際は、自分一人で勝手に話しているに過ぎない。
 僕はベッドを抜け出すと、身支度を整えて会社に向かった。
 会社に着く間際、宏香からメールが入った。

『前略 才能溢れるデザイナー様
 一夜明けて、ご気分はいかがですか。デザインが採用されたんだから、あなたには才能があるってとうとう認められたのよ。彼女としては鼻が高くなるばかり。伸び過ぎた鼻が機内持ち込みの制限に引っかからないかどうか、いまから心配しています。
 もう少ししたら帰るから、そしたら二人で盛大にお祝いしましょう。日本のワイン消費量が跳ね上がるくらいにね。
草々』

 彼女は大の赤ワイン好きだから、今頃はフランスのワイン保有量はごっそり減っているんじゃないかと思う。日本に帰って来たら、その続きだ。
 僕は気分よく仕事場に向かった。今日から早速、採用になったデザイン案をもとにチーフと修正を加えていく。僕より早くデザインが採用されていた同期は、「いやあ、プレッシャーだぜ」なんていっていたけど、僕は楽しみで仕方がなかった。
 実際、チーフがアイデアを出し、僕がアイデアを出し、線を引き、線を消し、そしてまたアイデアを出しという作業は、ようやく自分も仕事をしているんだという実感を持たせてくれた。
 チーフが帰った後も一人残って仕事をし、切り上げたときにはずいぶん遅い時間になっていた。さすがに初日から飛ばし過ぎだ。目が疲れて、鏡を見なくても充血しているのがわかる。瞼を閉じると、しばらくは涙さえ目に染みる。
 明日からはもうちょっとペースを落とそう。せっかくデザインが採用されたのに、最後の仕上げが人まかせでは泣くに泣けない。
 そんなことを考えながらマンションのある駅で電車を降りると、外は冷たい雨が降っていた。この町で雪が降ることはあまりないけど、それでも風は身を切るように冷たい。いつ雪に変わってもおかしくないような寒さだった。
 おまけに僕は傘を持っていなかった。自宅までは結構な距離がある。寒い思いをしながらとぼとぼ歩いて帰るのは勘弁して欲しかった。
 タクシーを、という考えは甘かった。十二月も末になり、忘年会が盛んに行われている時期だ。普段ならここで客待ちをしているタクシーも、みんな繁華街の方へ出払ってしまっている。
 僕は仕方なしに、コートを頭からかぶって歩くことに決めた。
 街路樹や建物のひさし伝いに走っては止まり、走っては止まりしながら先へ進む。こんなとき、どうしてもっと駅に近い部屋を借りなかったんだろうと後悔する。ちょっと家賃をけちったのがいけなかった。歩いても歩いても、マンションは一向に近づいてこない。
 ほら見ろ、なにが「もう負けない」だ。僕は心の中で、あの子に文句をいっていた。
 負けないっていうんなら、僕が電車を降りたらタクシーがドアを開けて待ってるくらいのことがあってもいいだろう。それか、僕の歩くところだけ雨が降っていないとか。真冬の雨に打たれながら深夜の街を歩くのを勝ちというのはおこがましいだろう。
 もういい加減身体が冷え切ったところで、後ろから近づいてくるヘッドライトが見えた。そしてその車の屋根に灯るぼんぼりも。
 タクシーであることは間違いなかったけど、ダッシュボードに光っているのが「賃走」なのか「空車」なのかまではわからない。それとも時間が時間だから、「割増」かな?
 わかるのは、僕よりタクシーに近いところに何人か、同じように雨宿りと小走りを繰り返している人たちがいて、彼らもそのタクシーに心を奪われているということだ。
 僕はダメもとで手を挙げた。数えてみると、タクシーを阻むディフェンスの数は四人。そのすべてをかわすのは、メッシの突破力をもってしても難しいだろう。
 ところが、そのタクシーは華麗な四人抜きを披露すると僕の横でぴたりと停まった。
 僕は脱いだコートを振って水滴を飛ばし、後部座席に乗り込んだ。
「いやなに、お客さんがね、駅からいちばん長く歩いていたんだろうからね」
 東北訛りの人のよさそうな運転手は、わざわざ僕を選んで乗せた理由をそう説明した。
「こういうことやってちゃだめなんだけどね。ほんとはいちばん近い人から乗せてあげるんだけど、今日ほら、寒いでしょ」
 走り出すタクシーの中、冷たい雨に打たれ続けている人たちの視線を避けるように、僕はシートに深く身を沈ませた。このタクシーが僕を乗せてくれたのは、僕のせいじゃない。ましてや今日雨が降っているのだって、僕の運とはまったく関係ない。彼らが誰一人傘を持っていないのだって、彼ら本人の自由意志だ。
「北の方はもっと寒いからね、私なんかはこのくらいなんでもないんだけど、都会の人にはこの寒さはこたえるでしょ。でも最近はあれかい、地球温暖化かい?あんまり雪も降らなくなってきてるけどね。降るには降るけど、やっぱり昔ほどではないもんね」
 時折無線で連絡を入れながら、運転手はしゃべり続けた。なんだろう、東北の人の話し方って、なんとなく心が安らぐ。
「くにの方でねえ、スキー客向けのペンションかい?あれやってた連中なんてみんな困っちゃってるもんね。雪、ねぐなってしまったって」
 それは僕とは関係ない。僕のせいじゃない。
「私なんてこっち出て来て働いてたから、はあ、よかったなんて思ってたども、したら前に勤めてた会社が不渡りだって潰れちゃって、今年からタクシーの運転手だもの」
 僕のせいじゃない。会社が潰れてあんたがタクシー運転手になったことと、僕は一切関係ないんだ。 

 宏香がフランスから帰って来るまでの間も、僕の勝利は続いていた。それも、加速度的に。
 アメリカのクリスマス商戦が絶好調だったことと、日本の複数の大手銀行が外国債投資で出した多額の焦げ付きを隠していたことがばれ、円が暴落した。
 おかげで僕の、わずかばかりのドル建て貯金は円換算では大きく増えることになった。僕がなんとなく口座のドルを円に換えると、円は再び値を戻した。問題の焦げ付きの額が、当初報道されていた額よりずいぶん小さいことが判明したからだ。
「レアもの、限定品!」という触れ込みのネットオークションで競合相手が現れず、いともあっさりあるアーティストのLP(CDじゃない!)を手に入れた。
 いつも昼飯を食べている定食屋が、この時期にあり得ない食中毒を出した。僕はこの日に限ってその二件隣の牛丼屋を選んでいたから、当たりを引かずに済んでいた。
「今年は彼女とのクリスマスはあきらめろよ」と楽しげにいっていたチーフが突然倒れ、うちの部署は例年と変わらず年明けまでの休みになった。ならばと急遽申し込んだクリスマス・ディナーは、雑誌で取り上げられて満席状態となっていたところに急なキャンセルが出て席が取れた。
 もう僕は、喜べるような気持ちにはなれずにいた。
 そして、宏香が帰って来た。
「考え過ぎだって」
 僕の部屋に上がってコートをハンガーに掛けながら、彼女は笑った。
 クリスマス・イブ、本来ならフランスからの帰国をロマンチックに出迎えるべきところだったんだろうけど、僕はとてもそれどころではなかった。これから出かけるディナーも、あまり気乗りがしない。
「でも、あまりにうまく行き過ぎるじゃないか。まるで僕が世界の中心になったみたいだ」
「ねえ、この間まで自分はだめだ、だめだっていってたのに、ちょっとうまく行ったら今度はびびっちゃってるわけ?もう、情けないったらありゃしない」
 円暴落でちょっと儲けてしまった話はしたけど、日本を留守にしていた彼女はその裏で何人もの個人投資家が破産しているニュースは知らない。
 僕がなんとなく手に入れてしまったLPは、いつもつるんでいる友達がずっと欲しがっているものだった。それを後から知った僕は、なにもいえずにそのLPをそっと机の奥にしまった。
 チーフが倒れたことまではいっていないから、クリスマスが休みになったことも宏香にとってはただのラッキーでしかない。おまけにあきらめていたディナーまで付いてくるんだから。
「そうじゃなくて、なにかがおかしいっていってるんだよ。こんなにいろんなことが都合よく行くわけないだろ」
「じゃあこれまでのことはおかしいとは思わないわけ?なにをやってもうまく行かない、デザインも採用されず、ドライブに行けば釘を踏んでパンクし、お年玉付き年賀葉書の切手シートすら当たったことのないこれまでのあなたは?」
 宏香は指を折って数え上げた。
 それはそうかも知れないけど。ドライブとか年賀葉書とかは運かも知れないけど、でも仕事は違う。
 これまでデザインが採用されなかったのだって、今回採用されたのだって、運なんかじゃない。それは僕の実力だ。デザインは運じゃ決まらない。
「ずっとうまく行かない時期があってもそっちは普通で、うまく行くのはおかしいなんて、それこそ変じゃない。どうしてそんなに自虐的なの」
 デザインっていうとみんなすぐにセンスとか才能とかって話をしたがるけど、そんなに簡単なものじゃないんだ。もちろんセンスや才能があるに越したことはないけど、それだけじゃだめなんだ。
「パリで占ってくれたボヘミアンがいってたけど、足は靴を、剣は鞘を見つけるって。もう大丈夫、ばっちりってことよ」
 自分のデザインが出来るようになるまでには、本当にたくさんの努力がいる。鉛筆を何本も消費してデッサンし、何百もの色の名前を覚え、絵画の歴史を勉強し、教授に何度もだめ出しをくらいながら徹夜で卒業制作に取り組むんだ。
「上昇局面に入ったのよ。新進気鋭っていうにはちょっと年くっちゃったけど、気合いが入ってることは間違いないんだから」
 実際に仕事に就いてみれば、自分よりうまい奴なんて山ほどいる。それ以上に世渡りがうまい奴だってたくさんいるんだ。そいつらを向こうにまわして自分のデザインを認めてもらうには、並大抵の努力じゃだめなんだ。
「そりゃ、いつかはまたうまく行かないときが来るかも知れないけど、そのときは私がついてるんだから大丈夫よ」
「簡単にいうな!」
 僕の語気は荒かった。彼女が面くらって固まってしまうくらい。
「君がついてるからどうなるっていうんだ。突然アイデアが閃くとでも?だったらこれまでだって閃いてたはずだろう。僕はずっとがんばって来たんだ。それが認められたのは運や才能なんかじゃない。一生懸命努力したからだ」
「誰もあなたが運とか才能だけで認められたなんていってないでしょう。努力してるのは知ってるわよ」
「じゃあ簡単に才能があるなんていうな」
「いってないじゃない。いろんなことがうまく行くようになってよかったっていってるのよ」
 これは彼女にしてはめずらしいミスだった。
「メールで、才能溢れるデザイナー様なんて書いただろう」
「書いたわよ。それがなに?努力もせずに才能だけで生きてるデザイナー様って書いてあった?」
「そんなことは書いてなかったよ。でもあれを読んで、必死で努力してる人間がどんな気持ちになるか考えたのか?」
 僕はあれを読んだとき、彼女が僕のことをなにもわかっていないと思って怒りに震えたものだ。
「あなたが努力してるのを知ってるから書けるんでしょう。私があなたの努力を認めてないとでもいいたいわけ?私があなたの努力を知ってるってことくらい、あなただって知ってると思ってたわ」
 いや、あれを読んで、僕はすごくうれしかったんじゃないか?
「だったらそういう風に書けよ。自分勝手な前提で話されても困るだろ」
 違うぞ、こんな話をしていたんじゃない。話がどこかで違う方向にずれてしまっている。それに、「才能がない」なんて弱音を吐いていたのは僕の方だったじゃないか。
「君は勝手過ぎるんだよ。なんでも大丈夫、大丈夫っていって、自分がいいと思う方向にどうにかして持って行こうとするんじゃないか。そのためには手段を選ばないよな」
 その大丈夫、大丈夫にさんざん励まされて、僕はデザイナーを続けて来られたんじゃないか。
「さっきの占い師の話だって、どうせ嘘だろ」
 その嘘で、僕はいつも勇気づけられていたんだ。
「よくそういう作り話がぽんぽん出て来るよな。それこそ才能だよ。努力してやってるんなら、これほどたちの悪いものはないぜ」
 押し黙った彼女はくちびるを固く結んで、握った手を震わせていた。
 と、突然、平手打ちが飛んで来た。しかしその手が僕に届くことはなかった。
 僕の左手は寸前で、彼女が伸ばした右手を掴んでいた。
 彼女はぼろぼろと涙をこぼしながら部屋を飛び出して行った。
 

 僕が宏香と言い争って勝つなんてことは、あり得なかった。
 これまでもつまらない理由で喧嘩したことはあったけど、口の達者な彼女はそのすべてに勝利していた。僕は別段、負けることに鬱憤をつのらせることもなかったし、むしろ「よく口がまわるなあ」くらいにおもしろがっていた。
 もう、事態は僕の手に負える範囲を超えていた。いや、もうとっくにそんな範囲は超えていたんだ。
 僕はもう一度、あの子に会う必要があった。
 なにがどうなっているにせよ、あの子はなにかを知っている。そんな気がしてならなかった。
 ところが、僕はあの子の住所や電話番号はおろか、名前すら知らない。友達に連絡しても、「わからない」の輪唱だった。
「おまえさあ、なんでそんなにあの子を追いかけまわしてるわけ?」
 事情を知らない友達は気楽にそんなことを訊く。
「映画屋の彼女と喧嘩でもしたか?だからって次を探すのには早過ぎないか」
 喧嘩はしたけど次を探すつもりなんて毛頭ない。ましてやこれは不測の事態だ。そんなことを説明しても仕方がないので、僕は電話を切った。
 クリスマス・イブの街は人でごった返していて顔しか知らない人間を捜すにはまったく向かない。そもそも、あの子が街をうろついているという保証もない。
 そして日が沈むと通りからは嘘のように人が消えていき、それにあわせるかのように空気も冷えていった。身も心も疲れて、焦りばかりがつのる頃、僕はあのおでん屋の前を通りかかった。
 そして暖簾の向こうに、あの子の姿を見つけた。
「ちょっと」
 僕は暖簾を跳ね上げて隣に座った。
「どうなってるのか、説明してくれ」
「なにを」
「なにをって、いま起こってることだよ。わかるだろう」
「わからない」
「僕がこんなに勝つはずないんだ。君が勝つっていってから、僕は急に勝ち始めた。これまでこんなことなかったんだ。おかしいじゃないか」
「わからない」
「わからないわけないだろう!」
 僕の方を見ようともせずにのらりくらりと返答する彼女に苛立って、僕はつい大声を上げた。
「勝っているのに、どうしてあなたが怒っているのか、私にはわからない」
「勝ち過ぎなんだよ」
「勝ちたいっていったでしょう」
「いったけど、でも、こんなの、こんなのはだめだ」
「身勝手な人」
 彼女はこの寒い中、今日も冷酒を飲んでいる。
「身勝手もなにも、誰がこんなことしてくれって頼んだ」
「頼まれてなんかいないし、私はなにも知らない」
 彼女は前を見つめたまま続けた。
「勝つ覚悟は出来ているんでしょう。それならこれからも勝ち続けるわ。もし私のおかげで勝っているというのなら、私は感謝されこそすれ、文句をいわれる覚えはない。よかったわね、望みがかなって」
 彼女は僕を見た。見たと思う。そして口許だけで笑っていた。
 これからもずっと、永遠に勝ち続ける。
 社内コンペで、僕が負けることはもうないだろう。この先どんな適当なデザインを描いてしまったとしても。でもそんな車が売れるわけがない。
 僕が買った株が急騰して、煽りを食ったどこかの企業が倒産するかも知れない。
 ちょっとした怪我で呼んだ救急車が、重病人を無視して飛んで来てしまうかも知れない。
 僕の代わりに誰かの乗った飛行機が墜落するかも知れない。
 無意味な勝利で誰かを傷付けることなんて、数え切れないくらいあるだろう。
「どうにかしてくれ」
 僕の声はもう、情けないことに消え入りそうなほど細かった。
 勝利の輝きに縁取られた真っ黒な道が、目の前に永遠に続いているような気がした。
「なにか食べたら?」
 彼女は皿に載せたおでんを僕の方に押してよこした。
 この大根を食べても、ちくわを食べても、たまごを食べても、僕は誰かに勝ってしまうかも知れない。そのせいで誰になにが起こるのか、僕には想像もつかない。
 僕はもう、呼吸をすることすら怖ろしくなっていた。
 だって話をしようとしただけで、僕は宏香を打ち負かし、失ってしまったのだから。

 翌日も、その翌日も、宏香には電話が繋がらなかった。LINEは既読になるけれど、返信はひとつも来なかった。
 僕は二日間、まったく部屋を出なかった。どこかでまたなにかに勝ってしまうのが怖かったからだ。それに、クリスマスの温もりがまだ残っている街を一人で歩くのも嫌だった。
 しかし三日目、とうとう冷蔵庫の食料が底をつき、僕は部屋を出ざるを得なくなった。といっても、近くのコンビニまでだ。それ以上の遠出は、いまは出来ない。
 外は、また冷たい雨が降り始めていた。今年の冬は雨が多い。北の方では近年まれに見る積雪で、雪の重みに耐えかねて倒壊する家もあるらしい。これもまた、僕のせいのような気がしていた。
 僕は棚にあるのが最後の一個ではないことを確認して、弁当と、今後のためにパンとカップラーメン、それに切り餅を買った。あと数日で正月を迎えるんだから、せめてお餅くらいは食べたかった。出来れば一人ではない方がよかったけど、誰かと一緒に食べたりしたら、その人は僕の代わりに喉を詰まらせかねない。
 強い風のおかげで差していても無意味に近かった傘を下ろすと、マンションの入口に立つ宏香が見えた。僕と同じようにすっかり濡れそぼって、凍えきった彼女はじっとこっちを見ていた。
 顔が見られてうれしかった。でも僕は、彼女と話をしたくなかった。話して、これ以上勝ってしまうのが怖かった。
 ところが、そんな僕の思いを無視して彼女はいった。
「リターンマッチよ」
 僕は首を振って自動ドアをすり抜けた。
「やめとこうよ」
「だめよ」
 宏香は僕を押し込むようにしてエレベーターに乗ると、僕の部屋の階ボタンと閉ボタンを勢いよく押した。
「口喧嘩で私に勝つなんて十年早いって教えてあげるわ」
 十年後にも僕らが喧嘩していられる可能性は、とても低そうだった。このまま彼女がついて来たら、十年後どころか十分後にも、二度と連絡も出来ない間柄になりそうだった。
「やめようよ、お願いだから」
 僕はなんとかこの事態を沈静化させたいと思っていた。なにか原因を見つけなくちゃならない。そもそも原因なんてものがあればの話だけど。
 それでも彼女は僕の部屋まで上がり込んで来てしまった。こうなるとまた僕が勝って、彼女が飛び出して行く以外の結末はない。
 テーブルの向こうにどっかりと腰を下ろした彼女は、腕組みをしていった。
「まずね、自分の彼女がコートもなしで寒空の下に飛び出して行ったっていうのに、追いかけても来ないっていうのはどういうわけ?」
「突然飛び出して行かれたら、どうしていいか困るだろう」
 いきなりフルスロットルでまくし立てる彼女に、僕はさすがにたじろいだ。彼女のコートはいまでもこの部屋のハンガーに掛かったままだ。
「そこがだめだっていってるのよ。喧嘩の原因がなんであって、その結果がどうであれ、彼女が飛び出して行ったら追いかけるのが普通でしょう。この、ダメ男!」
 そうはいうけど、僕だって初めて彼女との口喧嘩に勝ってうろたえていたんだ。
「追いかけて欲しいんだったら、最初から飛び出さなきゃいいじゃないか」
「追いかけて欲しいんじゃないの。追いかけるものなの。自分の彼女捕まえておきたいならそうするの」
「そんなややこしい……」
「ややこしくない!」
 みなまでいわせない。
「自分がどうしたいかっていうだけの話でしょう。あなたはどうしたかったの?私があのまま出て行って、連絡もつかずにそのままになってもよかったの?」
「よくないよ。だから電話したりLINEしたりしたじゃないか。返事くれなかったのはそっちだろ」
 反撃のスイッチが入ってしまったのが、自分でもわかる。
「電話にも出てくれないんだったら、話のしようがないじゃないか。どうしろっていうんだよ。手紙でも書いて送れっていうのか?電話もLINEも通じない相手にそんなもの送ったって、読んだかどうかもわからないだろう。連絡もつかない人が相手じゃ、埒が明かないよ」
「その埒をどうにかして明けるのが男でしょう!車のデザインだって、そうやって明かないものをどうにかして明けたんじゃない!」
「デザインの話と一緒にする……」
「一緒よ!」
 そうやって自分のリズムで一方的に話そうとする。でも僕と戦って勝てるわけがないんだ。
「ずっと自分のデザイン信じてやって来たんでしょう。何度も何度も何度も何度も社内コンペで落ちながら。その根性があるのに自分の彼女一人どうにかしてやろうって気概はないの?」
「気概はあるけど……」
「じゃあなんとかしなさいよ!私はそんな情けない男に付いて行くって決めた覚えはないわよ」
「付いて行くってなんだよ」
「あなたが自分の描きたいデザインを描き続けるなら、私がずっと応援してあげるっていってるの!私がついてるから大丈夫っていったでしょう。そういう大事なこと、覚えてないの?ていうか、どうしてあの時点で気付かないのよ」
「ごめん」
 これは、僕の負けといっていいんだろうか。
「ああ、もう、なんで私からこんなこといい出さなくちゃいけないのかしら。一生に一度のプロポーズを、どうして女の私からしなくちゃいけないの。普通はもっとロマンチックなシチュエーションで、男の方からするものでしょう。フランスではね、男が膝をついて恋人に求婚するものなのよ」
 膝の代わりに肘をテーブルについた彼女は、両手を頭で抱えた。
「一度とは限らないんじゃないかな」
 やぶ蛇だった。
「なに、あなた、二度も三度もするつもり?」
 宏香の目が光る。
「いや、しないです」
「今度そういうこといったら、本気でぶつわよ」
「この間だってぶとうとして、だめだったじゃないか」
「筋肉痛だったのよ。フランスで映画会社まわるたびにワインを何ケースも手土産にしてたんですもの。そうでなかったらあなたに止められるわけないでしょう。わたしは全国高校生カルタ取り選手権で十八位になった女よ」
「そうなの?」
 そんな微妙な順位、確かめようもない。
「試してみる?」
 彼女がすっと右手を挙げようとした。
「いや、いいです」
 それが本当であろうとなかろうと、僕には絶対に止められない自信があった。
「ところで、まだお返事をいただいていないんですけど」
「なんの?」
 彼女はテーブルの向こうから両手を伸ばすと、僕の頬を左右に引っ張った。
「プロポーズの返事に決まってるでしょう。あなた、わざとやってる?」
 頬をつねられるのすら止められないんだから、平手打ちなんて止められるわけがない。
「いや、わざとじゃない。ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
 彼女が頬をつねったままだったので、僕の一生に一度はだいぶフガフガしたものになってしまった。
 彼女は、「ああ、もうっ」といったまま、また頭を抱えてしまった。
 

 大晦日、僕と宏香は年をまたいで初詣に行った。
「神社仏閣は静かな雰囲気でお参りするべきだろ」と、松の内の最後あたりに行こうという僕の提案は、「盛り上がりに欠ける」という彼女のひと言で却下になった。
 とはいえ、毎年ニュースで人出が発表される神社に行くというのは、やはり無謀だった。
 見渡す限りの人、人、人。ラッシュアワーの満員電車だって、これよりはましなくらいだ。
 おまけに、彼女とはぐれた。
 携帯は除夜の鐘が鳴り始める前から、「ただいま電波が混み合っております」だ。
 子供じゃないんだから一人でも無事に帰ってくるとは思うけど、それでも後で、「私の手を離した」といじけられるか怒られるかのどちらかだ。
 でもこの人込みじゃ、探しようがない。
 僕は賽銭箱を目指してじりじりと前進を続ける人の波から抜け出して、眩しいくらいに明かりをともしている露店の列に向かった。
 焼きそば、たこ焼き、ベビーカステラ……、どうして露店で食べるものはどれもこれもこんなに安っぽくて、身体に悪そうで、美味しいんだろう。
 端から順に露店を冷やかして行くと、露店特有の黄色い灯りに照らされて、あの子がいた。
「こんばんは」と、僕は声をかけた。
「こんばんは」
「この前はごめん。ちょっと、いろいろあって」
 連勝の原因を彼女に求めてしまったことが、いまでは恥ずかしい。
「勝ち慣れてないから、神経質になってたみたい」
「この間は、なにを食べたかしら」
 今日の彼女は真っ直ぐ僕を見ている。だけど話が噛み合わない。
「この間って?」
「あなたが私を糾弾しに来たとき」
 糾弾などというおっかない言葉を使われて、僕は苦笑いするしかなかった。
「なんだっけ。大根とか、たまごとかかな」
「たまごは、始まり」
「え?」
 年の終わりに彼女とはぐれてしまうのも困りものだけど、だからって不思議ちゃんと一緒というのもちょっと。
「たまごは始まり。振り出しに戻る」
 この子は飲み過ぎたんだ。屋台のおでん屋に一人で来るような子なんだから、今日は早くから飲んで、もう出来上がっちゃってるんだろう。
 宏香もよく飲むけど、けたけた笑ってパタリと寝込む。こんな風にわけのわからないことをいい出したりはしない。
 振り出しに戻るって、僕はなにもまた連敗街道まっしぐらになったわけじゃない。
 チーフが倒れた原因はただの過労とのことで、心配いらないという連絡をもらっていた。それと同じメールで、「たっぷり休んだだろうから、デザインが完成するまで休みなし」と、チーフは宣言していた。
 試しにこの前儲けた円の半分をドルに戻してみたけど、為替相場はぴくりとも動かず、手数料の分だけ損をした。「せっかく儲かったのに!」と怒られそうなので、これは宏香にはいってない。
 だけど残りの半分をユーロにしてみたら、こっちはわずかばかりの儲けが出た。これも彼女にはいっていない。
 僕の部屋で例のLPを見つけた友人は、「なんでこんなの持ってんだ?」と僕に詰め寄った。そしてためつすがめつしたあと、「これはジャケットだけ限定版に見せかけた偽物だ。中身は通常版」といって放り投げてよこした。
 勝ったり負けたりだ。
「あなたは自分の負けばかりを見ていただけ」
 僕はちょっと薄気味悪くなった。
「ドーナツの穴だけを見て、食べるところがないといっているのと同じ」
 笑っていいのかどうかわからなかったから、僕も彼女と同じように無表情でいたけれど、本当は一刻も早く人込みの中へ消えてしまいたかった。
「最初の時は、なにを食べた?」
 最初って、屋台で偶然会ったときのことか。
「覚えてないな」
「ウインナーをあげたでしょう」
「ああ、うん」
 思い出した。彼女がくれた、真っ赤なウインナー。皮に張りがなく、噛みしめても歯ごたえのない、煮崩れしないのが不思議なほどにヤワな奴。
「ウインナーのウインは、勝利のウイン」
 彼女は真顔で、僕に向かってVサインを突き出した。
「そんな」
 ばかばかしいにもほどがある。
 僕が勝ち始めたのはあのときからだけど、それにしたってウインナーで勝利って。それならキットカットを食べた受験生は全員合格間違いなしだ。
「たまごは、始まり。振り出しに戻る」
 彼女は真顔だった。でもその顔が、どうしても思い出せない。
 確かに、たまごを食べてからまた負けるようになったけど、でも、そんなの、ばかばかしい。
「ウインナー、ウイン・ナー、ウイン、ウィン、win」
 最後のwinは、僕が聴く限りではまったく完璧な発音だったと思う。
「まさか、そんな、そんなことで……」
 後ずさる足の下で、玉砂利が音を立てた。
 ばかばかしい。ばかばかしいことだ。そんな下らない駄洒落みたいなことで、僕の勝敗が左右されていたっていうのか。
 この子は、なんなんだ?
 露店の裏にあるディーゼル発電機が、時々咳き込むような音を立てて回り続けていた。
「ばかねえ、冗談よ」
 突然、彼女は笑い出した。
 そういわれて、僕は初めて自分が息を止めていたことに気付いた。
「ウインナーのウインは、勝利のウィンとは関係ないわ。本当はウィニーソーセージっていうの。w-e-e-n-i-eよ」
 その博識ぶりが、かえって怪しい。
「そんなの、なんで知ってるんだよ」
「袋にでもなんでも書いてあるでしょう。あなた、おもしろいわ」
 こっちはちっともおもしろくない。
「ああ、可笑しい。あなたみたいな人をからかって遊ぶと、本当におもしろいわ」
「なんだよ、ばかにするな。僕だってそんな話、信じたわけじゃない」
 僕は彼女に気付かれないように、溜めていた息をゆっくりと吐き出した。
 すると、彼女は再び真顔になってこういった。
「もう一度、食べてみる?」
 僕らが立っていたのは、おでんの露店の前だった。
 あの湯気の向こうでは、今度はなにが煮込まれているんだ?
 なんであれ食べて、彼女の話なんて信じていないと示すべきなのか?それとも食べずにおくべきなのか?
 僕が口を開きかけたとき、いきなり後ろから腰のあたりを殴られた。
「フィアンセほっぽっといて一人で露店めぐりとは、いい度胸だ!」
 振り向くと、宏香がいた。
 振り向かなくても、僕の腰のあたりをパンチしてくるような背の低い人間は宏香ぐらいしかいない。
 左手にコップと食べかけの焼き鳥を持っている。その焼き鳥はさっきまでは右手に持っていたに違いない。その証拠に、右手の指先にはまだタレが付いている。コップに入っている透明な液体は、当然水じゃないだろう。
 私をほっぽっといてというわりには、一人で露店めぐりを満喫しているのは宏香の方だ。
「いや、そうじゃなくて」
 一人じゃない、という言い訳は余計な誤解を招きそうだったからいわずにおいたけど、それでもあの子と二人でいるところを見られてしまったから同じことか。
 僕はあの子が妙なことをいい出さないうちにと振り返った。
 ところが、もうそこに彼女の姿はなかった。
「ほら、行くわよ」
 宏香は僕の手を取って、焼き鳥屋の方へ引っ張って行った。
「おじさん、ごちそうさま!」
 残りを一気に飲み干すと、宏香は勢いよくコップを置いて、竹串をゴミ箱へ放り込んだ。ナイスシュート。
 見れば、焼き鳥屋のメニューには日本酒はない。「いったいどこから?」という僕の問いに答えたのは、宏香ではなくて焼き鳥屋の親父だった。
「その日本酒は俺の暖房用なんだけどよ、このお姉ちゃんが、おじさんの美味しい焼き鳥と一緒に日本酒が飲めないなんてこんな不幸なことはないとかなんとかうまいこと抜かしやがるから、一杯くれてやっちゃったよ」
 宏香の舌先はまだまだ成長中らしい。
 それから僕はまた宏香に引っ張られて賽銭箱を目指す行進に復帰し、さんざん揉みくちゃにされた挙げ句、奮発して百円を投入し、二人で並んでいろいろと祈願した。
 それ以来、あの子には会っていない。
 消えていなくなりました、なんてことはないと思う。合コンをセッティングしたツテをたどれば、たぶん彼女に行き着くだろう。あのときだって、きっと眼を離した隙に人込みに紛れてしまったに違いない。
 でも宏香からは、「もう合コン禁止!」といい渡されている。「本当に私が笑顔で送り出しているとでも思ってたの?」という、違う意味での笑顔付きで。
 だからきっと、もうあの子に会うことはない。
 でもあの子がいった、「あなたみたいな人をからかって遊ぶと、本当におもしろいわ」という言葉が本当はどういう意味だったのか、訊いてみたいような気はする。
 初詣の帰り道、コートのポケットに手を突っ込むと、クリスマスに渡せなかったプレゼントが出て来た。
 これをもちまして婚約指輪とさせていただきます、なんていったらきっとまた怒られる。「そもそも婚約指輪とは」とかなんとか、本当だか嘘だかわからない講釈が始まって、最終的にえらく高い愛の証を買わされそうだ。
 だから、「お年玉」といって指にはめてあげた。
 宏香は、「ありがとう」といいながら横目でヒイラギ模様の包装紙を見てにやりとしていたから、たぶんばれてる。この先も、彼女には勝てそうな気がしない。
 でも、僕らはそれでいいのかも知れない。
 彼女は映画の仕事でがんばって、僕はデザインの仕事でがんばって、どちらかがうまく行かないときには支え合って、僕らは二人で一人分、勝てばいいんだから。


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