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ボーイソプラノ


1 十国峠から見た富士だけは

「じゃあ次、瀬下」
 別に誰でもいいような調子で、国語の老教師が指名した。その証拠に、教師の目は生徒の方など見ていない。彼の目がなぞっているのは教卓の上に置かれた出席簿だけだ。
 高校の教師を何十年も続けていればそうなるのかも知れない。よほど荒れた学校にでも赴任しない限り、教師の目から見れば近頃はどの生徒もおとなしく、厄介ごとを嫌い、みんな等しく同じに見える。だからよほど偏らない限り、どの生徒にあてようとたいした違いはないはずだった。
——だったら、他の奴にあてればいいのに……。
 教室の真ん中あたり、いちばん目立ちにくいわりにはいちばん教師の目がいきやすい席に座る瀬下ハルユキは、渋々立ち上がりながら思った。
 隣の生徒はさっきから机の下でスマホをいじっているし、斜め前の女子なんて教科書に隠れて化粧を直している。
——こいつらにあてればいいじゃないか。
 それでも、そんなことは教師からすればおかまいなしだった。なにしろ彼が向き合っているのは教室にいる生徒ではなく、出席簿に印刷された名前のリストの方なのだ。
「十国峠から見た富士だけは、高かった。あれは、よかった。はじめ、雲のために、頂が見えず……」
 ハルユキは前の生徒のあとを継いで、『富岳百景』の続きを読んだ。不自然に押し潰したような声で。
 その声には、さすがの教師も反応した。彼は老眼鏡の上から覗き込むようにしてハルユキの方に視線を向けた。
「どうした?風邪でも引いたか?」
 このクラスの担任でもある老教師の言葉には、それでも本物の心配が含まれていた。30年も前なら、教師をからかうためにおかしな声で朗読する生徒もいただろうが、いまではそんな生徒はとんと見かけない。
 生徒が苦しげな声を出しているのなら、それは本当に苦しいのだろう。ただハルユキが苦しげな声で教科書を朗読するのは、今回が初めてではなかった。それどころか、あてられるたびにこうして潰れた声を出していた。
 しかし、出席簿を相手に授業をしている教師には、そんなことは記憶の外にあった。
「はい、ちょっと」
 そう答える声にも、苦しげな響きがあった。
「そうか、じゃあそこまで。それじゃあ次、太田」
 次に指された生徒は、あからさまに「なんだよ、もうちょっと読めよ」という顔で立ち上がったが、よく考えれば自分が読むのは段落の途中からということになる。
 一段落ごと順番に読んでいくという暗黙のルールからして、ハルユキが読むはずだった段落の途中から読むことになったということは、それだけ分量が少なくなっているということだ。それはちょっぴりラッキーといえて、すぐに彼は機嫌を直して読み始めた。
 その声の向こうで、クスクスと笑う声が聞こえた。
「アイツの声、おかしくね?」
「わたしアイツがまともにしゃべってるの聞いたことない」
 明確に聞こえたわけではない。
 それどころか、本当に誰かがしゃべっていたのかも定かではない。
 それでも誰かが自分の声をそんなふうに嗤っていたように、ハルユキには感じられた。
 その声が、ハルユキには不快だった。
 そして、自分の声も。
 中学生の頃は、まだよかった。いや、中学2年生の頃までかな。まわりにもまだ声変わりしていない奴がいたし、ほとんどの生徒が小学校時代からの顔見知りだから、昔からの声を知っていた。だから自分の声が高いことを気にかける奴はいなかった。
 だけどだんだんと男子は声変わりを経験していき、いつまでも女の子みたいな声をしている男はいなくなってしまった。
——いや、オレだって声変わりはしたはずなんだ。
 しばらくのあいだ、声がかすれていた時期があった。いまでは立派な喉仏だってある。にもかかわらず、その声枯れが治ったときには元通りの女子みたいな声に戻っていた。
 初めはなにも気にならなかった。それどころか、声の出づらかった時期が終わって、すっきりしていたくらいだ。
 ところが、あるとき気がついてみれば、いつまでも女の子みたいな声をしているのは自分ひとりだけだった。
 確かに、体格的にもがっしりしているとは言い難い。背だって、それほど高くない。自分より背が高い女子もざらにいる。
 だけど、それにしたって。と、ハルユキは思った。ここまで声が高くなくてもいいじゃないか。
 自分より声の低い女子だってめずらしくない。もちろん向こうは気づいていないが、話す声を聞いていれば明らかにわかる。
 異常という気もないし、おかしいと思うつもりもなかった。だけどめずらしいと認めるくらいにはハルユキは正直だったし、それが周囲からどう見られるかもわかっているつもりだった。
 だから周囲のヒソヒソ話す声や小さく笑う声が、距離を超えて突き刺さる。ああ、そうだよ。高1にもなってこんな女の子みたいな声してるのは、オレだけだよ。
 小学校から中学校に上がるのと違って、高校での新生活では知らない人間の方がまわりに多い。同じ中学出身同士でかたまろうにも、そんなのはクラスにひとりかふたり、ポツリポツリといるかいないかだ。そうなると強制的に見ず知らずの人間と関係を作らざるを得ないことになり、そのためにはまわりにいるのがどんな人間なのか知ろうとせざるを得ない。
 自分と気が合うのか、おもしろい奴か、いやな奴じゃないか、付き合っていけそうな奴か。
 新しい教科書の表紙がどうだとか、受験のときはどうだったとか、中学のとき部活はなにをやっていたとか、そんな当たり障りのない話から、少しずつお互いのことを知っていく。
 かっこいいとか可愛いとか、あの子は恋愛対象としてどうかとか、気の早い生徒はひとつの教室に入れられた瞬間からそんな値踏みを始めていた。
 そのときに頼りにするのは、もちろん声だ。
 LINEやインスタでのメッセージ交換はもちろんだ。しかしそれだって、友だち登録するのも相互フォローするのも、まずはクラスで会話をしてからだ。
 その会話が、ハルユキにはなによりのハードルだった。中学校ではなんの気なしにできていた会話が、高校に入って突然できなくなった。
 高校生活初日、入学式が終わって生徒たちが入った教室は、奇妙な静けさに包まれていた。誰もが平静を装いながら、それでいてソワソワと落ち着かない様子でまわりの様子をうかがっている。
 まるでみんなで見えないジェンガをやっているみたいだった。
 お互い、素知らぬ顔をしてそっとブロックを抜き取る。だけど心の中では、誰かがタワーをバラバラにしてくれることを願っている。バラバラにして、グチャグチャにして、どこになにがあっても、どれとどれが重なり合っていても気にならないようにしてほしい。
 きっと、いや間違いなく、この教室もそんなふうになる。ただそれが、数分後なのか、数時間後なのか、それとも何日も先なのかがわからなくて、誰も最初の一手を繰り出せないでいるのだった。
 誰か、早く口火を切ってくれないかな。そうすれば、あっという間にこの緊張感は崩壊して、おなじみの心地いいざわめきにひたることができるのに。誰か、できれば自分以外の誰かが……。
 誰もが同じ思いをしていることを、誰もがわかっていた。
 わかっていて、わからないふりをしていた。だからわからないふりのまま、横目で、視野の隅で、スマホの画面を見ているふりで、お互いのことをひそかに観察していた。
 アイツ、話しやすそうだな。
 あの子、ちょっとお洒落かも。
 あそこの奴、真面目そうだな……。
「あれ?御木元みきもと?」
 教室中で、誰もが心の中で印象と直感だけのクラスメート・リストを作っているさなか、太い声が沈黙を破った。
 教室の前の方から聞こえたその声に、新入生たちの目が一斉に集まった。
 後方に座るハルユキからは声の主の顔は見えなかったが、それでも体格のいい、がっしりとした男子生徒が斜め前の女子生徒に話しかけているのがわかった。
 呼びかけられた生徒が半身になって振り向くと、その表情にはおどろきの色が浮かんでいた。
「あ、秋山……、くん?」
 長い睫毛に整えられた眉。短めにもかかわらず先端だけ軽くカールした髪は全体的に少し明るい色で、目立たないようにインナーカラーも入れられていた。
——すごいな、高校……。あれでセーフなのかよ。しかも初日から。
 そうは思ったが、ハルユキ自身がこの高校を選んだ理由のひとつも、校則が緩いという評判にあった。
 学校見学や、ときおり見かけた登下校時の生徒の様子も、きっちりと制服を着ているという生徒はまれで、ほとんどみんななにかしらの形で着崩しているようだった。そのくせ素行不良や近隣に迷惑をかけているという話は聞いたことがなく、学校説明会で聞いた「生徒の自主性を重んじています」という言葉は、看板に偽りなしといったところだった。
 だからきっと、公立高校とはいえあれくらいなら許容範囲内ということなのだろう、とハルユキは思った。
「やっぱり御木元か。おまえ、この高校受けてたの?なんで?」
「秋山くんこそ、どうしてここに?」
 御木元と呼ばれた生徒にとっては、その男子生徒の存在は想定外のようだった。
「え?だってここ柔道強いじゃん。オレ、高校でも柔道やるならここって決めてたんだよ。ていうか、柔道推薦で取ってくれたようなもんだし」
 アイツのガタイがいいのは柔道やってるからか。いや、ガタイがいいから柔道やってるのか。ハルユキは自分の身体をかえりみた。
 決して痩せ細っているわけではないが、それにしてもあの生徒と比べると体躯の差は歴然だった。身長にいたっては、あちらは優に180センチを超えているだろう。
「あ、ああ、そうなんだ……」
「だけどさあ、ぜんぜん御木元ってわかんなかったよ。だって……」
 そういいかけた秋山に、近くにいた別の男子生徒が控えめに声をかけた。
「柔道やってるの?それでそんなにマッチョなんだ」
 それがきっかけだった。
 生徒たちの緊張で保たれていたジェンガは崩れ去り、我先にその残骸を踏み越えようとしていた。実際に立ち上がる者、離れた席から声をかける者、誰もが最初にでき始めた輪に加わろうと動き出していた。
「いつからやってるの?」
「どれくらい強いの?」
「黒帯?何段?」
「あの選手知ってる?」
 ハルユキもその輪に加わろうと、腰を浮かしかけた。
 こういうとき、最初の輪に参加できないとあとが面倒だ。ほんの少しの勇気がなかったばっかりに、あるいはちょっぴり格好をつけてしまったばっかりに、クラスの輪に溶け込むことがむずかしくなるのはよくあることだ。それを逃すと、次の機会を待つことになる。
 友だち作りの最初の電車が行ってしまったら、次の電車を待たなければならない。線路の上を走って、去ってしまった電車を追いかけるわけにはいかないのだ。学年の最初のうちは、電車は次々やって来てくれるからまだいい。しかし時間とともに発車間隔は開いていき、朝の山手線のようだった時刻表は、いずれ田舎の単線鉄道並みになってしまう。
 ハルユキは、浮かした腰をふたたび席に戻した。最初に動いてしまった方が楽だという計算くらい働いていたにもかかわらず。
 その輪から漏れ聞こえる声に、これまでにない違和感を覚えたからだ。
 こいつらみんな、やけに声が低いじゃないか……。
 目の前の集団から聞こえてくる男子の声は、どれもこれも間違いなく「男」の声だった。自分に近い周波数の声はどれも女子ばかりで、どこにも自分と同じような声の男がいない。
 もちろん中学のときだって、男子集団まるごと声が低いなどということはよくあった。その中に自分一人、甲高い声の男が混じっているということも。
 しかしそれはよく見知った生徒同士での話だ。中には小学校どころか、幼稚園からの幼なじみだっていた。だからもともとの声を知っていて、それが混じっていてもなんとも思いはしなかった。
 だけど、いまはどうだ?声が低いのが男の普通で、その中にこんな声で入っていったら変な顔されるんじゃないのか?上映中の映画館に、煌々と懐中電灯をつけて入っていくようなものじゃないのか?
 個性個性といいながら、実はみんなと同じであることに安心するのはハルユキ自身にも思いあたる節があった。個性的な服を求めてみんなと同じ服屋に行くし、個性的なスニーカーを求めてみんなと同じブランドを選ぶ。個性的だからといって、和服や下駄で過ごす高校生なんて、いやしないのだ。
 だから自分のこの声を、個性だと認めてもらえるとは思えなかった。
 そうして逡巡しているあいだに担任の教師が来て、いつの間にかボソボソとした自己紹介が終わってしまった。自己紹介のあいだ中、必死になって、なんとか声を低くしてやり過ごすことだけを考えていたハルユキは、他の生徒のことなどほとんど目に入らなかった。
 おかげで、誰が誰だかわからないまま高校生活は始まってしまい、呼び戻す手段もないまま電車は走り始めてしまっていた。


2 どれがいちばんいいかを選ぶやつで

 そうやって始まってしまった高校生活は、ハルユキにとっては苦痛そのものだった。
 勉強の方は、そうでもなかった。もともとなんのためという目的もなく、「みんなが行くから行く」くらいの感覚で決めた進学だった。いや、多くの中学生と同様、決めたという感覚すらない。
「進路指導」とは名ばかりで、実際に中学で行われていたのは「どこの高校を受けるか調査」に過ぎない。ハルユキもそれがおかしいとか、学校はもっと多彩な選択肢を示すべきだなどとは思わなかった。
 なにしろ全国の高校進学率は96パーセントを超えているのだ。学校内で高校に進学しないという生徒にはお目にかかったこともない。
 だから特になにも考えず、流されるままに高校に進んだ。そのときに考えたのは、あまりレベルの高い高校はやめておこう、ということくらいだった。
 中学の勉強がさっぱりわからないというほどではないにせよ、ハルユキは勉強が得意とはいえなかった。だからそこそこのレベル、高望みしなければ大学に行けなくはないくらいの高校を選んだ。
 おかげで授業についていくだけなら、さほどの苦労はいらなかった。
 苦労がいるのは、勉強以外の学校生活の方だった。
 この声を、このおかしな声を、中学ではなんとも思わなかったこの奇妙な声を、誰にも聞かれたくなかった。聞かれたくなければ、黙っているしかない。黙っていれば、コミュニケートできない。コミュニケートできなければ、クラスメートたちの輪には入れない。
 そんなわけで、5月に入ってもハルユキにとってクラスメートはいまだにただのクラスメート、せいぜい顔見知りという程度で、友だちと呼べるような存在は一人もできていなかった。
 だから授業の合間の時間も、昼休みも、教室でただぼうっと座っているか、さもなければ教室を抜け出して人目につかない場所で時間が過ぎるのを待つばかりだった。
 4月中はまだ、黙って席に座っているハルユキに声をかけてくれる生徒もいた。しかし、その数は次第に少なくなっていき、気づけば必要最低限の連絡事項以外でハルユキに話しかける生徒はいなくなっていた。
 まあ、それもいいさ。中学時代だって、クラスの中心人物だったってわけじゃない。みんなといれば、そこそこ話したし、そこそこ騒いでいたというだけだ。こうやって静かに過ごして、目立たないままいるのも悪くない。むしろ面倒くさい人間関係に煩わされずにすんで、助かる面の方が大きいかも知れない。
 いずれ声が低くなったら、などという期待は、とうの昔に捨てていた。声変わりらしきものがあってから、もう一年以上が経過しているのだ。いまさら声が低くなるなんてことは考えられなかった。
 たぶんオレの喉は、声変わりに失敗したんだ。
 声変わりに勝ちも負けもなかったけれど、それでもハルユキにしてみればこの失敗は負けといえた。しかも完敗、完封負けといえそうだった。
 声変わりに成功しまくってダースベイダーみたいな声になるのもどうかとは思ったが、失敗よりはましなはずだ。
 その点でいえば、前の席に座る女子は身長という点で大勝利を収めていた。
 でけえ、というのが入学当初にハルユキが抱いた印象だった。180センチ近い身長は女子の中では学年一の高さで、柔道部の秋山と並んでも見劣りしない。たまたま二人が近くに立っていたとき、二人の苗字から誰かがその様子を「秋城あきしろ連山」と呼んでいた。
 目の前でハルユキの視界をさえぎる彼女の名前は、城ヶ崎アユミといった。
 その城ヶ崎の身長のおかげで、ハルユキは黒板を見るためにたびたび頭を左右に振らなくてはならないのだが、城ヶ崎の方でもそれはわかっているようで、席に座っている彼女はいつも申しなさそうに背を丸めて肩をすぼめていた。
 そこまで縮こまらなくてもいいのに、とハルユキは思った。席なんてくじ引きで決めたんだから、オレの前に座ってるのはこいつのせいじゃないのに。
 ましてや担任の教師からは、「お互いによければ席を交換していい」といわれてもいた。学年最初の席決めでそんなことを言い出せる生徒がいるわけもなかったとはいえ、みんなそれを承知で席に着いたのだから、誰にも文句をいう権利はないはずだった。
 その「でけえ」女子が突然こちらを振り向いたので、ハルユキは思わず声を上げそうになった。まるで見透かされたかのようなタイミングだった。
 しかしもちろん、話したこともない相手と以心伝心などということがあるわけもなく、彼女はただ前から送られてきたプリントをまわしてよこしただけだった。
「あの、これ……」
 虚を衝かれて動けなかったハルユキにかけた城ヶ崎の声は、その身長からは想像できないくらいに可愛らしいものだった。
「あ、ああ……」
 地声の可愛らしさだけならハルユキも負けてはいなかったが、そんなものが決して比較されたりしないように、ハルユキは相変わらず押し潰した声でプリントを受け取り、一枚取って後ろにまわした。
「後ろまでいった?じゃあ、曲かけるからね」
 目を上げると、教壇の真ん中にクラス委員が立っていた。
 ああ、そうかLHRロングホームルームの途中だったっけ。で、クラスメートのみなさんはなんの話をしてるんだ?曲?曲ってなんだ?
 そう思った途端、教室の前の方からピアノの音色が聞こえてきた。ハルユキが音のする方に目をやると、教卓の上に置かれたスピーカーから曲が流れ出していた。そのスピーカーは、どうやらクラス委員のスマホと接続されているらしい。
 あのクラス委員、御木元っていったっけ?確か初日に秋山と話してた奴だよな。そういえばアイツ、その翌週の役員選出でクラス委員になっていたんだっけ。ハルユキは自分のクラスに関するわずかばかりの記憶の糸をたぐり寄せた。
 クラス委員に推薦されたとき、アイツは「ええー、無理だよー」なんていいながら、まんざらでもなさそうだった。きっとそういうのに選ばれるのは、もともとそういう奴なんだろう。
 誰とでもうまくやれて、誰とでも仲良くできる。そしてみんなから、「御木元さんがいいと思いまーす」と推薦されて、その期待に軽やかに応えてみせるんだろう。
 ハルユキのそんな思いを裏打ちするように、教壇に立つ御木元は胸を張り、堂々として見えた。
 スピーカーからのピアノの音色にはいつしか人の声が乗り、どうやらそれは混声合唱曲のようだった。
 合唱……。
 ハルユキの胸に、苦い思いがよぎった。
 歌うこと自体は、嫌いではなかった。いや、むしろ好きだといっていい。いまだってシャワーを浴びながら流行りの歌を口ずさむことはよくある。
 しかし、合唱は別だ。
 多くの中学校と同じく、ハルユキのいた中学校でも毎年文化祭という名目でクラス合唱大会が行われていた。
 中学生らしい素直さで、生徒たちはそれなりに一所懸命練習し、ステージ上では精一杯の声で歌っていた。
 しかし、ハルユキが3年生のとき。
「ハルユキの声ってさ、おかしいよね」
 誰かがいったそのひと言で、すべてが変わってしまった。
 それまで誰も気にしてすらいなかった「違い」が、まるでサーチライトを浴びたように浮かび上がってしまい、強烈なコントラストを際立たせた。
 サーチライトの光は軽い笑い声だけを残してするすると移動していき、やがて教室はいつもと変わらぬ喧騒に包まれた。
 しかしハルユキの心だけは、いつまでもそこに残り続けた。
——オレの声、変なんだ……。
 それ以来、ハルユキは人前で歌わなくなった。それどころか、声を発することを厭うようになった。
 だから中学3年生のときの合唱大会では、練習も本番も口パクを貫いたし、教室でもあまりしゃべらなくなった。
 そこへ持ってきて、青天の霹靂のごとくまた「合唱」の二文字が現れたのだ。——ま、オレには関係ないけどな。
 ハルユキの高校では芸術科目は選択制で、音楽、美術、書道、工芸、どの科目でも自由に選択することができた。あまりにも偏りが出てしまった場合には抽選になるものの、今年はまんべんなく申し込みが散っていて、誰もが希望どおりの科目を受講できていた。つまりどのクラスも生徒のおよそ4分の1ずつがそれぞれの芸術科目を選択しており、その時間になるとそれぞれの科目専用教室に散っていく。音楽選択なら音楽室に、美術選択なら美術室にといった具合だ。
 芸術科目の時間には複数のクラスからその科目を選んだ生徒が専用教室に来るから、専用教室が閑散とするということはない。他のクラスの生徒と同じ授業を受けることになれば、クラスをまたいでの交流を深められるだろうというのが、高校側の目算だった。
 この時代、コミュ力は生きていく上で必須だ。高校としてもその配慮をしてのことだろう。
 ハルユキはもちろん音楽を選択するなどという愚を犯すはずはなく、いちばん声を出す機会が少なそうな工芸を希望し、その通りになっていた。
 だから、こうして教室に合唱曲が鳴り響いているあいだも平然としていられた。御木元の話など聞いてはいなかったが、どうせ「音楽選択はいまこの曲を練習しているので、みなさん聴きに来てください」などという話をしていたのだろう。
 まあ、夢や希望に満ちた高校生らしい素晴らしく薄っぺらい曲じゃないか。どうしてこう、大人が中高生に歌わせたがる曲っていうのはうさんくさいものばかりなんだ。
 ハルユキが音楽を選択しなかったのは声のせいばかりではなかった。
 音楽を選択すれば、必ず歌がつきまとう。そしてその歌は、大人が描く「若者はかくあるべし」というものばかりで、胸いっぱいの夢や光り輝く未来に満ちあふれていて、白々しいことこの上なかった。
 そんな歌を力いっぱい歌える奴の気が知れない、そんなふうに思っていた。
 だから、3曲を聴くともなしに聴き終わって、「じゃあ、これがいいと思った曲に丸をつけてください」という御木元の声を耳にしたときには、彼女がなにをいっているのかわからなかった。
——これがいい?いいってなんだ?なにがいいんだ?
 さっきまわされてきたプリントに目を落とすと、そこには曲目とその横に丸をつけるための欄が並んでいた。そしてその上には、【体育祭応援歌候補曲】という文字が。
——嘘だろ?なんだその応援歌ってのは?
 自分で思っていた以上に、ハルユキはLHRの内容をなにひとつ聞いていなかった。どうせ自分には関係ない話をしてるに決まってる、そう思って耳を閉ざしてしまっていた。
 まさか今日一回のLHRで曲目の選定まで進んだわけではないだろうから、これまでにも話し合いがあったのだろう。
——ぜんぜん、聞いてなかった……。
 ハルユキはいつの間にかLHRで話が進んでいたことにも、自分が興味のないことをいかにシャットアウトできるかにも驚いていた。後者については、我が事ながら多少呆れててもいたが。
 あらためて考えると、この教室には興味のないことが多過ぎた。だからいまだに、大半のクラスメートの名前も覚えていない。御木元や秋山の名前を覚えているのは、入学初日に最初に名前を聞いたからに過ぎなかったし、城ヶ崎の名前を覚えているのは彼女の背がずば抜けて高く、印象に残っているからだった。
 逆に話したこともなく、ましてやこれといって特徴があるわけでもない、いま後ろからプリントを送ってきた生徒の名前など、覚えているはずもない。
 受け取ったプリントを見つめたまま、ハルユキは呆然とした。
——なんなんだ、これは?
 そんなハルユキを、前の席の城ヶ崎が振り返って見ていた。
 どうしたの?と問いたげな桜色の唇は、それでも話したことのないハルユキを急かすことはせず、「あの……」と小さな声を発しただけだった。
 彼女は背を丸めたまま振り向いているので、小首をかしげたようになっている。頭の横から、軽くウェーブのかかった髪が長く垂れていた。
「これ、なに?」
 少し茶色がかった瞳にほだされるようにして、ハルユキはつい言葉を発してしまった。それでも、声をできる限り低く、潰しておくことは忘れなかった。
「これは、えっと……」
 あまりの唐突な問いに、城ヶ崎は言葉に詰まった。
 しかしその顔は、ハルユキを責めるというよりも本当に「どうしてわからないの?」という様子だった。
「これは、その、体育祭のときに歌う曲を、どれがいいか選ぶやつで……」
 まるでハルユキが事情を飲み込めていないのは自分のせいででもあるかのように、彼女は申しわけなさそうに説明した。
 それはプリントのタイトルからして明らかなことだったが、これまでの話をまったく聞いていなかったハルユキには藪から棒もいいところだった。
「歌う……?」
 歌う曲!?と叫びそうになったのを必死に抑え込んだが、それでも少しだけ地声が漏れた。その声を聞いた城ヶ崎の眉がピクンと跳ねた気がした。
 しかしいまは、それを気にしている場合ではなかった。
 歌うのか?いま聴いた曲を、クラスで?
 冗談じゃないぞ。音楽選択でもないのに、なんだってそんなことしなくちゃならないんだ。
 動揺するハルユキに、城ヶ崎がいった。
「それ、いい?」
 ハルユキは手にしたプリントに目を落とした。幸い、プリントは無記名投票の形式を取っている。つまり、どの曲にも丸をつけずに提出してもバレやしないということだ。
 もちろん、問題の本質はそこではない。ただそれでも、いまこの場をやり過ごすにはなんでもない顔をして白紙のプリントを出す他なかった。
「ああ、うん」
 精一杯さりげないふりで、ハルユキは城ヶ崎にプリントを渡した。
 冗談じゃないぞ。なんだって体育祭で歌なんて歌わなくちゃならないんだ?
 この高校、頭おかしいんじゃないのか?


3 アタシがアタシだからダメっていってるの

「じゃあ、うちのクラスが投票する曲は、『空を駈ける夢』ということになりました」
 御木元の宣言に、教室からパラパラと拍手が起こる。その大半は女子からのものだったが、男子の中にも拍手をしている者はいた。
 一際響く拍手を送っているのは、柔道部の秋山シゲルだ。背ばかりでなく、手まで人より大きいのだろう。
——おまえ、柔道部のくせに合唱したいのかよ。
 ハルユキは思った。
 それが偏見であることは、ハルユキ自身わかってはいた。わかってはいたが、クラスで合唱をするという信じがたい事実への憤懣をどこかに向けずにはいられなかった。
 おそらく数回はあったのだろう曲決めの話し合いを聴いていなかったのは自分が悪い。だけど、なんで体育祭で歌を歌わなくちゃならないんだよ。
 拾い聞きしたクラスメートたちの会話から察すると、体育祭のプログラムのひとつに応援歌斉唱があり、赤、青、白、緑の各組がそれぞれの曲を歌うらしい。その曲はいくつかの候補曲から選ばれ、色分けされた各クラスが1票ずつを投じて決められる。ハルユキたちのクラスは白組だ。
 クラス委員の御木元がリストに丸をつけて提出するように求めていたのは、クラスとしてどの曲に投票するかを決めるためだった。
 ハルユキは受験のときにそれを調べておかなかった自分を呪った。
 いつでもどこでもネットにつながるこの時代、わからないことはスマホで検索すればいい。答えはネットのどこかに転がっているはずだ。
 しかしその答えにたどり着くには、調べるべきことを認識していることが必要だ。
 高校では、全校あげての合唱祭をやるところなどほとんどないことは知っていた。しかし、まさか体育祭で歌を歌う高校があることなど、思いもよらなかった。
 最初から調べる必要なしと思い込んでいる情報には、行きあたるはずもないのだった。
 それにしたって、ないだろ、あり得ないだろ、あっちゃダメだろ!なにみんなして了承してんだよ。オレたち高校生だぞ。なんだって好きこのんで合唱なんてやらなくちゃいけないんだよ。学校あげての反対運動が起こってもおかしくないだろ。みんな抗議しないのかよ。
 自分もその抗議しないみんなのうちの一人であることを棚に上げて、ハルユキは周囲の生徒を見渡した。
 すでに拍手は収まっていたが、「わたし歌下手だからなあ」とか「カラオケ行って練習する?」などという、楽しそうな声がそこここで湧き起こっていた。しかし、そういう会話ができるのも友だちと呼べる存在がいればこそで、ハルユキにはそれすら許されなかった。
 会話は次第にほどけていき、担任の「じゃあ、みんながんばろう」という声とともにLHRは終わった。いつもなら真っ先に教室をあとにするハルユキだったが、このときばかりは呆然と席に座ったまま、誰もいなくなった教室で黒板に残る『空を駈ける夢』という文字を見つめていた。
——駈けねえよ、そんな夢は!
 音楽が嫌いなわけじゃない。歌が嫌いなわけじゃない。合唱だって、やりたいと思う奴がやるぶんには結構だ。
 スポーツの団体競技と同じで、ハルユキも大勢の人が懸命に歌う姿には心を打たれないではない。毎年年末に歌われる『第九」の合唱には、感動を覚えることもしばしばだ。しみったれた鐘の音なんかよりずっといい。
 だけど、自分がやるとなると話が違う。
 誰かが歌っているのを見ているだけなら、心を揺さぶられもする。しかし自分が歌うとなった途端、夢や希望に満ちたその曲は、悪夢と絶望にあふれる汚穢おわいとなる。
——こんな声で、なにを、どこを、歌えっていうんだ。
 歌っている自分を嘲笑うクラスメートの姿が目に浮かぶ。クスクスと、わざわざ聞こえるように嗤う声が聞こえる。もっと悪いのは、自分はなにも気にしていませんよという顔で、押しつけがましい道徳心を振りかざしてくる奴らだ。
——おまえらが振りかざす道徳心やわざとらしい優しさで、こっちは滅多打ちにされるんだよ。
 中学生のときはまだ、とハルユキは思った。いや、中学生のときだって、そんなことはあったんだ。
「瀬下くんって、声高いよね」
 中学3年生のクラスで、何気なくいわれたことがある。そのひと言は、まだいい。ぜんぜんいい。問題はそれに対して、「別にいいじゃん、声が高くたって」と、まるでかばうように割って入った女子の声だ。
 こっちはそんなこと気にもしていなかったんだよ。おまえが自己満足のポリコレ棒を振りまわすまでは。おまえが振りまわしたポリコレ棒は相手より先にオレをぶちのめして、わざわざ「コイツの声は変わってる」って知らしめてしまったんだ。みんなにも、自分にも。
 ハルユキはおもむろに立ち上がると教壇まで歩いていき、黒板消しを握ると荒々しく『空を駈ける夢』という文字をこすった。
 そのとき、廊下から誰かの足音が近づいてくるのが聞こえた。開け放ったドアからは、話す声も少しずつ入ってくる。それは、男女の声のようだった。
 どうせ、決まったばかりの合唱曲についてワイワイやり合っているんだろう。なんなら、一緒に練習しようとか、早くもそんなふうに盛り上がっていたりして。いや、いくらなんでもそれは展開が早すぎるか……。
 声が近づいてくるにつれ、まるでカメラのピントが合うように、次第に話す内容がはっきりとしてきた。
「いいじゃんか、別に」
「ダメよ、絶対!」
 展開が早すぎる、と思っているのはハルユキだけのようだった。
 高校生にもなって合唱なんて頭お花畑かよと思ったけれど、お花畑なのは心の方も同じのようだ。
 どいつもこいつも、高校生になった途端に色気づきやがって。
 そうは思ったものの、ハルユキはそんなことをいえるほど、どいつのこともこいつのことも知ってはいなかった。
「だって別に知られたからってどうってことない……」
「どうってことあるのよ。絶対いったらダメだからね!」
 誰もいないはずの教室に戻って来たのは、クラス委員の御木元と柔道部の秋山だった。御木元はドアを開けるなり、ハルユキの姿を認めて絶句した。
 彼女の見開かれた目は、見事に「なんで人がいるのよ」と「いまの話、聞かれた?」の両方を同時に表していた。
 秋山の方は先ほどの会話同様、「別にどうってことない」という顔をしていた。
「あ、ええと、瀬下くん……だよね?」
 2つの感情を同時に表した器用な顔のまま、御木元がいった。
 自分の名前が曖昧にしか覚えられていないことには、ハルユキはショックを受けなかった。自分だって、印象深かった御木元の名前こそ覚えてはいるが、他の生徒の名前はたいして覚えていないのだから。それなのに「どうしてオレの名前を覚えていないんだ」というのは、あまりにもアンフェアというものだった。
「うん」
「黒板、消してくれたんだ。ありがとう」
 明らかに話をそらしたくていっているのがわかる、空虚な「ありがとう」だった。
「いや、別に」
 目も合わせず、ハルユキはいった。
 いやだな、こういうのに巻き込まれるのは。どうせオレがいなくなったら、「いまの聞かれちゃったかな?」「いいじゃんか、別に」なんて2人で盛り上がるんだろ?
 どうやら2人は中学のときからの知り合いのようだし、そういうことがあっても不思議はない。特に、いまのように新しい環境に放り込まれたときには、自分が少しでも知っている世界が寄る辺となる。
 だから中学時代から知っている相手との距離が縮まり、それが勢いあまって恋愛関係に発展するのも無理からぬことだった。
 それならそれで、とハルユキは思った。
——オレのいないところでやってくれ。
 ハルユキは自分のカバンをひっつかむと足早に教室を出て行った。
 そのあまりの勢いに、残された2人は呆然として互いの顔を見つめ合った。
「いまの、聞かれてたかな?」
「別に聞かれてたっていいだろ?」
 ハルユキが聞いていたら、「ほら、やっぱり」といわんばかりの会話だった。そうやってオレをダシに、2人で盛り上がるんだろ?
 しかしそのあとの2人の会話は、ハルユキには想像もつかないものだった。
「よくないわよ!誰かにアタシの中学時代の話したら絶対許さないからね」
「そんな大ごとじゃないだろ。御木元は御木元なんだし」
「アタシがアタシだからダメっていってるの!」
 はたから聞けばおそらく痴話げんかと解されるだろうその会話は、しかし、御木元の切羽詰まった調子だけが異彩を放っていた。
「とにかくダメ、絶対にダメ、あり得ないくらいダメ!」
 いうことを聞かなければあんたを殺してアタシも死ぬ、とでもいわんばかりの勢いに気圧されて、秋山は後ずさりし、黒板に背をつけた。これが柔道の試合なら、きれいな一本負けだ。
 秋山の背中の下では、ハルユキによって消されかけた『空を駈ける夢』という文字が残像のように黒板にしがみついていた。


4 本当に、そんなんじゃないのに……。

 柔道場に畳を打つ音が響く。150畳ほどの柔道場では、あちこちで1年生たちが畳に叩きつけられていた。
入学当初は可愛い新入部員だった1年生も、ひと月経てばただの後輩になり、それ以上になれば貴重な投げられ要員になる。柔道部の1年生の役割など、そんなものだ。
 柔道部の上級生たちは、面倒見がいい。
 新入部員たちがハードな練習についてこられるように、まずは筋トレだ。それから怪我などしないように、しっかりと受け身を教えてやろう。体重も増やさなければならんから、部活終わりにはメシもおごってやろうじゃないか。
 すべては可愛い新入部員のため、もっといえば、すべてはオレたちの投げられ役を育てるためだ。
 バーベルのウェイトをそっと増やしてやったのも、自らすすんで受け身の手本を見せたのも、いつもの店で洗面器と呼ばれるバカみたいに巨大な皿のカレーをおごってやったのも、みんなみんな可愛いおまえたちをぶん投げるため、畳に転がすためだった。ひょろいのを投げたところで、なんの練習にもならないからな。
 そう、そのためだったのに。
 今年の1年生の中にただ一人、乱取りが終わってもずっと立っている新入部員がいた。
 秋山シゲルだった。
 高校で初めて柔道に触れるという初心者は問題外として、中学で多少腕に覚えがあるというくらいでは、高校の柔道部では通用などしない。
 大半の新入部員もそれはわかっていて、先輩たちに素直におごられ、しごかれ、投げられる。多少生意気な新入部員も、乱取り稽古でおもしろいように投げられ、実力の差を思い知らされると、あっという間に従順になる。なにしろ高校3年生といえば学年途中で成人を迎える生徒もいる。1年生とのあいだには文字どおり大人と子供の差があって、敵うはずもないのだ。
 乱取り稽古ともなれば、1年生など人間大の藁人形と変わらない。先輩たちに軽々と投げられるために存在しているのだった。乱取りが終われば、そこら中に呆然と天井を見上げる藁人形が横たわっていて、藁人形と違う点があるとすれば、それぞれが肩で息をしていることと、額に玉の汗を浮かべていることくらいだった。
 それなのに、秋山シゲルだけは違っていた。
 体格に恵まれていることに加えて、秋山は体幹がおそろしくしっかりしている。先輩部員がちょっとやそっと押し引きしたところで、彼の体勢は崩れない。まるで岩か大木を相手にしているかのようだ。
 ならばと上級生ならではの足さばきで懐に潜り込もうとすると、今度は一枚の布のようにするりと逃げて体勢を入れ替えられ、逆にこちらの重心を崩されてしまう。
 その動きには隆々たる筋肉からは想像もつかないほどの繊細さがあって、投げ倒された上級生たちはもう笑うしかなかった。
 この高校の柔道部が、決して弱いというわけではない。ここ最近はパッとしないものの、何年か前には県大会で上位入賞することもあったし、かつては団体戦でインターハイに出たこともある。
 秋山もその強さを見込まれて、スポーツ推薦でこの高校に入学したのだ。
 公立高校の入試にもスポーツ推薦枠がある。「文化・スポーツ等特別推薦」といって、中学校の校長の推薦を受けた生徒が応募でき、選抜にあたっては普通の学力検査ではなく実技試験が行われることは広く知られている。
 一方であまり知られていないのは、秋山が利用した非公式なスポーツ推薦の方だ。
 スポーツで目立った活躍をしている生徒には、「部活見学」という名目で高校からお呼びがかかる。そこで中3生たちは高校生に交じって半日練習をするのだが、その内実は選抜試験だ。
 高校側がこの方法を採るメリットは2つ。
 1つは文化・スポーツ枠で入学させる生徒の数を増やせること。
 公式な「文化・スポーツ等特別推薦」の募集人数は限られている。だから伝統校であろうとも、あの選手もこの選手もとこの枠であまり多くの生徒を合格させることはできない。しかしこの方法を採れば、その生徒はあくまでも一般受験で合格したことになるから、定員までは事実上無制限だ。
 もう1つは、本当の実力を見極めて合否を判定できること。
 中学での大会記録などが判断材料になるのはもちろんだが、実際の力を確かめることが不可欠だ。そのために、高校生の練習に交ぜてその様子を見る。
 子供の数が減少しているいま、高校は生き残りに必死だ。
 少しでも特色を出して受験生たちにアピールし、廃校の憂き目に遭わないように策を練る。いわゆるトップ校ならいざ知らず、中堅以下の高校はそれこそ生徒の奪い合いなのだ。この辺はシェアを奪い合う企業となんら変わるところはない。
 だから校則だって緩めるし、制服だって変える。ある高校ではリボンの可愛い制服に変えたところ、女子のみならず男子の受験生まで大幅に増え、入試倍率はかつてないほどに高くなった。その結果、学校そのものの偏差値まで上がり、いまでは名うての進学校になっている。
 秋山は自分が非公式なスポーツ推薦枠で入学したことを自覚していた。
 昨年11月の「部活見学」にも参加したし、そこではかなりの根性を見せたつもりだ。そのときにはまだいまほど先輩たちとは渡り合えなかったが、それでも何度かいい大外刈りを披露できた。
 結果、いまこうしてこの柔道場に立っている。
 足もとではたったいま投げられたばかりの3年生が、半ば悔しそうな、半ばうれしそうな顔で横たわっていた。
「くっそー、なに食ったらそんなにでかくなんだよ」
 3年生は諦めたように天井を仰いだ。
「おまえ、もともとでかかったけど部活見学のときからまたでかくなったろ」
 そのときはこの先輩もまだ2年生だった。当然伸び盛りなはずだが、秋山はそれを上まわるスピードで背が伸びているのだった。
「もうおまえには飯おごらねえ。これ以上でかくなられたらやってられねえよ」
 言葉とは裏腹に、その顔はうれしそうだった。
 強い後輩が入ってくれば、上級生といえどもレギュラーの座は危うくなる。そう思うところがないではない。
 しかし、自分の部が強くなることを悪く思うこともできないわけで、そうなれば自然と笑顔にもなった。それに、柔道というスポーツの性質上、団体戦に出られなくても個人戦に出ることはできる。個人戦の方は、それこそ個人の力量次第なのだ。
「う、うすっ」
 秋山はなんと答えていいからなくて、曖昧な返事をした。
 ここのところ、自分でも急速に力がついているのがわかる。それは筋力という点でもそうだし、柔道の技術という点についてもそうだった。
 以前には上げられなかったバーベルが上げられるようになったし、しゃがんだ相手を引っぱり上げる「引き出し」もかなりの速さでできるようになった。
「部活見学」のときにはおもしろいように転がされていた先輩の足技もかわせるようになったし、なにより身体を沈めて相手の懐に潜り込むのがうまくなった。
 結果、3年生たちの多くと互角に渡り合えるようになった。部活の中で、注目されているが自分でもわかる。
 だけど、と秋山は思った。必ずしも居心地のいいものじゃない。
 確かに自分が強くなっていくのはうれしい。先生や先輩たちからほめられるのも誇らしい。だけど、そうなれば自然と注目が集まるようになって……。
「お、なんだそれ?」
 もうおごらない、といったその口で、先輩たちは秋山を学校帰りの充電——柔道部員は買い食いのことをそう呼んでいた——に誘い、部員御用達のトンカツ屋で秋山のカバンにつけられたキーホルダーを見つけた。
 しまった。サイドポケットの中におさめていたはずの小さなウサギのキャラクターが、いつの間にか半分ほど顔を覗かせていた。
「あ、いや……」とカバンを身体の後ろに隠そうとしたときにはもう遅かった。別の先輩が、秋山のカバンを取り上げ、真っ白なウサギが全身を露わにしていた。
「なんだこれ?ウサギ?」
 それは大きなニンジンを両手で抱えた真っ白いウサギの人形で、男子高校生が、ましてや柔道部員が持つにはあまりも可愛すぎるものだった。
「え?なにこれ?どうしたの?」
「いや、もらったっていうか……」
 秋山がいい終わらないうちに、カウンターに座る数名の柔道部員から悲鳴ともつかない声が上がった。
「ああー、秋山。これはない。これはないわ」
「反則だな。河津掛だ」
「いや、むしろ山嵐級の反則だ」
「どっちにしても一発アウトだぞ」
 河津掛も山嵐も、現代柔道では反則技だ。河津掛の方は、大外刈りや大内刈りといった技の形になっていれば反則にはならないから、その点では反則の程度が軽いといえるが、どちらにしても反則には違いなかった。
「秋山、おまえな」と肩に手をまわしながら声をかけたのは部長だった。「1年生でそんなにでかくて強くて彼女持ちっていうのは、見過ごせない反則だぞ。指導対象だ」
 部長の顔は、「おまえには失望した」といわんばかりの表情だった。
「いや、そういうわけじゃ……」
「そういうわけじゃもこういうわけじゃもないんだよ、秋山。柔道部員はモテてはならないっていう全国ルールがあるんだぞ」
 もちろんそんなルールがあるわけもなかったが、現にモテない柔道部員としてはそうとでも思わなければやっていられなかった。
 探せば、モテる柔道部員もいるだろう。しかし、我々はモテないのだ。
 サッカー、バスケ、野球にテニス。同じスポーツなのになぜあいつらばかりがもてはやされる?ちやほやされたいとはいわないが、せめて同じくらい、いやその半分くらいならモテてもいいじゃないか?
 そんな鬱積が、秋山に向けられていた。もちろん、目の前のトンカツの衣と同じくらい薄い鬱憤だったが。
 秋山にしてみれば、そんなふうに見られるのは迷惑この上なかったが、なにをいっても無駄なのはわかっていた。
 本当に、そんなんじゃないのに……。


5 きっしょ

 数日後、体育祭で歌われる応援歌はハルユキたちのクラスが投票したものに決まり、その練習は主に昼休みの教室を使って行われた。
 放課後にも有志が集まって練習が行われてはいたが、やはり部活や委員会活動がある放課後はなかなか集まりが悪かった。
 そのため、毎日ではないものの、昼休みには各教室からそれぞれの応援歌が響き渡ることになり、ハルユキはいかに教室を抜け出すかに知恵を絞ることになった。
 たどり着いた結論は、とにかく早く弁当を平らげるというものだった。
 誰よりも早く昼食をすませ、そこかしこで会話が続いているうちに教室を抜け出す。そして昼休みが終わるまでどこかに身を潜めていれば、誰も自分のことなど気にかけないはずだ。
 そのはずだった。
 だからその日も、ハルユキはものすごい勢いで弁当をかき込むと、そっと席を立って教室を出ようとした。
 耳に入ってくる会話は、どれもこれも応援歌のことばかりだ。「あの子は歌が上手だ」、「あの部分がむずかしい」、そんな会話が蜘蛛の糸のようにハルユキにまとわりつく。
——いい加減にしてくれ。
 ハルユキは軽く頭を振ると、開け放たれたままのドアを目指した。
 しかし、そこに。
「ねえ、瀬下くん」
 歩き続ける足を止めさせるのに十分なほど断固とした声が、ハルユキの後ろから呼びかけた。
「どこ行くの?これから昼練だよ」
 振り返ると、あからさまに不機嫌な顔をした御木元の姿があった。
「ちょっと用事」と、くぐもった声でハルユキはいい、ドアを目指そうとした。
 応援歌の練習はあくまでも生徒の自主性にまかせられている。「用事がある」という生徒を強制的に参加させる権利は、誰にもないはずだった。
 そのはずだった。
 なのに御木元の声には、練習に参加させることが自分の義務だとでもいいたげな響きがあった。
「瀬下くん、このあいだもそういって練習に参加しなかったよね。どうして?」
 思わず振り返ると、何人かの生徒を背にして、御木元が立っていた。後ろの生徒のほとんどはハルユキの方を見ていなかったが、それでも御木元の側についているのがわかる。不自然な無表情が雄弁にそれを物語っていた。
「瀬下くん、練習に出てるときも口パクだよね。どうして?」
 誰も言葉を発しない。
 さっきまで昼食をとりながらしていた会話が嘘のように、誰もが一心不乱に壁や床を見つめている。
——おまえらだって、そうだろ?
 誰だって、好きこのんで波風なんて立てたいわけじゃない。だから応援歌の練習をサボる生徒がいても誰もなにもいわないし、口パクしている奴がいても見て見ぬふりをするものだ。
 こっちもツッコまない変わりに、そっちもツッコまないでくれ。それでうまくやれる。お互いつまらないことには目をつぶって、厄介ごとは避けていく。そうやって平穏は保たれる。
 そのはずだった。
 そのはずなのに。
 ときどき、それを乱す奴がいる。
 それが御木元のような存在だった。
 陽キャだからって、カースト上位だからって、まるで自分がクラスの意見を代弁しているかのように振る舞う。
——確かにおまえの方が主流派なんだろうけどさ。
 主流派だからって、なんでもかんでも思い通りになるわけじゃないだろう?少数派の意見を大切にしましょうって、小学校で習わなかったか?
 それが都合のいい言い訳であることは、ハルユキにもわかっていた。
 合唱に参加したくない。
 もっと正直にいえば、自分の声を聞かれたくない。
 そんなものは、わがままであることはわかっていた。
——それでも、少しくらいのわがままはいいだろう?
 しかもそれが、自分のコンプレックスに起因するものであれば。
「ねえ、どうして?」
 御木元の口調は質問ではなく、詰問だ。なんなら、ここでハルユキと対決することも厭わない。そんな様子だった。
「なんでもいいだろ」
 そういうのが精一杯だった。
「良くないよ。みんながんばってるのに、なんで瀬下くんだけサボるの?部活の昼練がある子だって、できるだけ参加するように協力してくれてるんだよ。それなのにどうして?」
 教室にはいくつか空席があって、それは主に昼休みにも練習がある運動部の生徒のものだった。そのうちのひとつは秋城連山の一方、柔道部の秋山のものだった。
 柔道部期待の星である秋山は、いまも柔道場で汗を流しているのだろう。
 とはいえ、その秋山も合唱の練習にはよく顔を出しており、決して上手くはないが低く太い声を響かせている様子を、ハルユキも見ていた。
「合唱なんか、やりたくないんだよ」
 たたみかけるようにいう御木元に、ハルユキはそれだけしか返せなかった。
 御木元が背にした生徒の中には、「そりゃわかるけど」という顔をしたものもいたが、それをあからさまにしたりはしない。
 そりゃわかるけど、やるってことになってるんだしさ……。壁や床を見つめたままの目が、そういっているように感じられた。
「なんでよ、みんながんばってるんだよ」
 自分が合唱をやりたくないことと、みんなががんばっていることは別の話だ。
 正月の箱根駅伝を見れば、みんながんばってるなあ、えらいなあと思う。だけど自分がやりたいかといわれれば、それは別だ。
 なのに、がんばることは無条件に正しい、正しいことはみんなでやるべきだ、そんな一方的な正義感が、正当性が、ハルユキをイラつかせた。
 中学のときに目の前で振りまわされたポリコレ棒が、ふたたび振りまわされるのを見る思いだった。
「やりたい奴だけやればいいだろ。オレは歌いたくないんだよ!」
 御木元の射すくめるような眼差しに、ハルユキはつい声を荒げた。
 教室で腹に力を込めて声を放つのは久しぶり、いや、高校に入ってから初めてのことだったかも知れない。
 荒げたはずのその声は、いつものように押し潰すことを忘れたその声は、凛とした響きとなって教室中の生徒の耳朶を打った。
 ハルユキの声に、誰もが目をみはっていた。
 視野の隅、ひときわ背の高い影は、城ヶ崎だろう。ただでさえ大きな彼女の目は、こぼれ落ちそうなほどに見開かれていた。
——ほら見ろ、こうなるじゃないか。
 誰だって、オレの声を聞けばこうなるんだよ。
「こんな声で、誰が合唱なんかしたいって思うんだよ……」
 目をそらしたまま、ハルユキはいった。
 静まり返った午後の教室に、昼練をする部活の声、他のクラスの合唱の声が様子をうかがうように忍び込んでいた。遠くからは、救急車のサイレンの音までが聞こえてくる。
 オレが歌いたくない事情は察しただろう?だから、もういいじゃないか。
 これからも口パクでいさせてくれよ。練習にも顔を出すし、体育祭本番だってサボらない。オレも迷惑をかけないようにするから、おまえたちもオレの声には触れないでおいてくれ。
 そうすれば、お互いに面倒くさいことにならないですむ……。
「きっしょ……」
 ハルユキの開き直ったような、それでいて懇願するような思いを、御木元の言葉が貫いた。
 瞬間、頭に血が上るのがわかった。額に汗さえ浮かんでいたかも知れない。それでも目の前の女を殴らなかったのは、まだ理性がはたらいていたからだ。
 そのなけなしの理性を振り絞って、ハルユキは足早に教室を出て行った。


6 なんだよ、この筋肉

 足早に廊下を進んだ。
 ハルユキが怒っているのははたから見ても明らかだったが、その理由は廊下ですれ違う別のクラスの生徒たちには知る由もなかった。
 ハルユキにしても、こんなことで怒っているなどとは知られたくなかった。
 高校生にもなって、合唱の練習に出たくないというのはあまりにもガキ過ぎる。知らなかったとはいえ、体育祭で応援歌斉唱があるのはハルユキが入学前から決まっていたことだし、例年の行事だった。
 決まっているんだから反対してはいけない、そんなふうにも思わない。たとえ何百年前から決まっていることであっても、正当な理由があるなら堂々と反対すればいい。
 問題は、自分でも正当な理由が見あたらないことだった。
 高校生にもなれば、なんでもかんでも自分の思い通りにいくわけではないことくらいわかっている。自分が相手に合わせることもあれば、相手が自分に合わせてくれることもある。
 しかし高校生だからこそ、彼にとってこの声は大問題なのだった。
 そしてその声を、「きっしょ」といわれたのだ。
 正当に近い理由を見つけることができるとすれば唯一そこだけだったが、それにしたっておおもとの原因はハルユキ自身にあった。
 ハルユキがもっと積極的に、あるいは少なくとも合唱の練習に協力的な姿勢を見せてさえいれば、御木元だってあんなセリフは吐かなかっただろう。
 学校行事に協力的ということは、すなわちクラス委員である御木元に対して協力的ということであり、人間は自分の側にいる者に対してそうそう攻撃的になったりしないものだ。
 特にそれが、高校という閉鎖された環境においてならなおのこと。
 高校では、半強制的に人間関係を作らされる。学年、クラス、委員会、席順……。それらの小さな環の中に、否応なしに放り込まれる。
 だから多少の不一致があっても、不協和があっても、事を荒立てたりせずにお互いやり過ごすのがいちばんだ。
 高校という閉鎖環境では、環は和であり、乱さないのがいちばんなのだ。
 先ほどの教室にいた生徒たちのように。いや、御木元とハルユキ以外の生徒たちのように。
 その和を自分が乱してしまった自覚はあった。だけどどうすればよかったっていうんだ?
 これまではその和を乱さないように、目立たないように、いや耳立たないように、息を殺して、声を殺してやってきた。
 それが、あっさりと崩れてしまった。
 そしてそれを呼び水として、御木元のあんな言葉まで引き出してしまった。
 明日からは、「きっしょい声の奴」というレッテルを貼られて生きていくことになるんだ。
 それは間違いなく3年間続く。クラスが替わったってまた同じクラスになる奴はいる。そいつらは新しいクラスでまた同じレッテルを貼りに来る。
 いや、それよりもっと早く、もう明日には他のクラスに宣伝に行くんだろう。明日は土曜日だから来週か、それともグループLINEで今日中に速攻かな。
 御木元の言葉には腹が立ったが、自分のバカさ加減には輪をかけて腹が立った。
 なにもあんなにムキにならなくてもよかったじゃないか。
 ヘラヘラ笑って、ニヤニヤしながら、のらりくらりと退散すれば、それであの場はすんだんじゃないのか。
 ええい、くそっ!
 そんな思いで頭をいっぱいにして廊下の角を曲がった途端、ハルユキは壁にぶつかって跳ね飛ばされた。
 壁?こんなところに?
 いやいや、この角を曲がるとすぐに階段があって、それを下りれば昇降口のはずだ。
 人と目を合わせないようにいつもうつむき加減でいるとはいえ、毎日歩いている校舎内だ。今朝だってここを歩いて教室に来た。半日で構造が変わるなんてことがあってたまるか。
「だ、大丈夫か?」
 尻もちをついたハルユキに、壁が声をかけてきた。
 見上げると、そこにあったのは壁ではなく、山だった。
 山は、屈んでハルユキの方に手を差しのべている。
「あ、ああ……」
 床に座ったまま見上げるその姿は、いつもよりはるかに巨大に見えた。
 柔道着を着たその山は秋城連山の「秋」の方、秋山シゲルだった。秋山の方は、ハルユキがぶつかったくらいではビクともしなかったらしい。
 差し出された手を思わず握ると、ハルユキはまるでクレーンのように引っぱり上げられ、身体がふわりと浮くのを感じた。
 すぐ目の前に立つ形になってあらためて見ると、165センチもないハルユキの顔の前には分厚い胸板があった。
 なんだよ、この筋肉。
「ありがとう……」
 筋肉に圧倒されたわけではなかったが、ハルユキは素直に礼をいった。
あれ?今日、合唱の練習があるんじゃないのか?」
 ああ、そうだよ。だからオレはそこから逃げ出してきたんだよ。
「オレは、今日はちょっと……」
 ちょっとどころではないことが、ついさっき教室であった。しかし、ここでそれをいってどうなる?
「そうか、じゃあな」
 秋山は軽く右手を挙げて、ハルユキがいま来た方向に歩き出そうとしていた。
 その声は明らかに変声期を経たもので、その体格に見合った低く深いものだった。
「おまえ、部活は?」
 秋山のことを「おまえ」と呼べるほど会話をしたことも、親しくしたこともなかったが、かといって「君」というのもおかしな感じがしたので、ハルユキは「おまえ」と呼んでみた。
 一瞬でも秋山が怪訝な顔をしたり、「おまえにおまえと呼ばれる筋合いはない」などといいかえされたらどんな顔をすればいいか、ハルユキにはわからなかった。
 しかし秋山は気にする様子もなく、振り返った。
「ああ、開始早々、先輩が足折っちゃってさ。今日の昼練、中止になった」
 さっきのサイレンはそれか。
 御木元との緊迫したやりとりの中、わずかに聞こえた救急車のサイレンにハルユキは思い至った。
 しかし、それでか。
 それで練習が中止になったからって、柔道着を着替えもせずに合唱の練習に馳せ参じるっていうのかよ。
「御木元、がんばってるからさ。なにかあったら応援してやってくれよ」
——ああ、コイツ、いい奴なんだ。
 一瞬だけ、秋山は御木元と付き合っていて、そのために行動しているんじゃないのかと思った。
 しかし秋山の屈託のない笑顔を見ていると、そんな考えは消し飛んでしまった。
 それに、同中おなちゅうだしな。きっとコイツは、正々堂々が服を着て、いや、柔道着を着ているような奴なんだろう。
 ハルユキはさっき御木元から感じたものとは違う正義感を、秋山に感じていた。
 アイツのは、なんだか押しつけがましくて、自分が正しくなくちゃいけない感じだ。正義の形を作って、それに合わせて自分を貼り付けている感じがした。
 だけど秋山の正義感は、違った。なんだかそうすることが自然で、その中身に合わせて秋山の形ができているようだと、ハルユキは感じた。
——ああ、そうか。
 コイツのは正義感じゃなくて、正直さなんだ。
 それが柔道を通じて身に付いたものなのか、それとも生来のものなのか、ハルユキにはわからなかったが、いずれにしても自分にない一本の筋を見た気がした。
「じゃあな」
 秋山はハルユキに背を向けると、教室の方に歩いて行った。
「なにかあったら」の「なにか」が自分のことであるのが、ハルユキをひどくみじめな気持ちにさせた。


7 でもあれじゃ、テナーっていうより

「なんなのよ、アイツは!」
 御木元が気色ばんでいるところへ、柔道着姿の秋山が顔をのぞかせた。
「なんだよ、どうしたんだ?」
 秋山の呑気な様子が、御木元の神経を逆撫でした。
「アイツよ、あの瀬下とかって奴。合唱の練習中もずっと口パクだしさ、今日なんて注意したのに出て行ったのよ」
 ああ、さっきのあれか。秋山は廊下でぶつかった瀬下の様子を思い出していた。
 この勢いで怒られたんじゃ、逃げ出したくもなるよな。教室に残っている連中も、ちょっと引いてるんじゃないか?
 秋山が見渡すと、御木元の背後で城ヶ崎がうつむいて縮こまっていた。彼女はまるで、自分が悪いことをしたかのように床を見つめている。
——気が弱そうな奴だもんな、でかいけど。
 入学初日から、城ヶ崎のことは目に留まっていた。高1であの身長の女子は、ちょっといない。当然目を引くし、他の生徒が話しかけるきっかけにもなっていた。
「城ヶ崎さん、背高いよね。何センチ?」
「バスケとかやってたの?」
「いいなあ、わたし150しかないからうらやましいよ」
 そんな言葉に、困ったような笑顔を浮かべる城ヶ崎の姿を見た覚えがある。
「そ、そんなことなくて、わたし、ぜんぜん……」
 身長に反して消え入りそうな声で話す城ヶ崎本人そっちのけで、彼女の目の前では「わたし、陸上部だったんだ」「わたし軟式テニス」と、彼女とは無関係な方向に会話が漂い出していった。
 会話のきっかけに利用されただけという事実に腹を立てるというよりも、むしろほっとした様子で、城ヶ崎は無軌道にさまようその会話を見守っていた。
 彼女の心は、見た目よりずっと華奢なんだろう。秋山はうつむいたままの城ヶ崎を見て思った。
 そうだよな。御木元の気迫は柔道の試合だったら褒められるだろうけど、クラスじゃちょっときつすぎるよな。気の弱い奴があの気迫にあてられたら、そりゃたじろぐのも無理はない。
「まあまあ、一人抜けた代わりに一人来たんだから、気にせず練習しようぜ」
「秋山くん、参加できるの?」
「ああ、柔道部、今日の練習は中止になったんだ」
 先輩が骨折して……、というのはいわずにおいた。
 骨折だの脱臼だの、話をするだけで痛がる女子は多い。ましてや目の前の城ヶ崎は、そんな話を聞いたらそれだけでポキッといってしまいそうだった。
「でも、秋山くんバスでしょ。他の男子もみんなバスなのよ。今日参加できる人の中で、唯一のテナーが瀬下くんだったんだけど」
 白組が歌う『空を駈ける夢』は混声4部合唱曲だ。パートは高音部からソプラノ、アルト、テナー、バスに分かれる。男子は下2つのテナーとバスだ。
 体育祭の応援歌とはいいながら意外なほど本格的にパート分けされ、ヘルプをお願いされた音楽科の教師も嬉々として各クラスの練習に駆け付けていた。
 不思議なもので、どこかのクラスだけやけにソプラノが多いなどということはなく、どのクラスも各パートが同じくらいの人数になる。若干の多寡はボリューム調整でなんとかなった。それに「どうしても」という場合には、高校生特有の気合いでどうにかしてしまうものだった。
「まあ、でもあれじゃテナーっていうより……」そこまでいって、御木元は目を伏せた。
「なんだよ、瀬下もほんとはバスなのか?」
 教室にいる全員が、一斉に秋山に目を向けた。
 合唱のパート振り分けは、自己申告制だ。自分ではよくわからない場合には、ピアノを弾ける生徒が確認して割り振る。
 ハルユキとしては、渋々男子の高い方のパート、テナーに手を挙げたのだが。
「あんた、アイツの声聞いたこと……、ないわよね。わたしたちだってまともにしゃべってるのさっき初めて聞いたんだし」
「なんだよ」
 誰も秋山に直接答えようとはしない。御木元も眉をひそめたままだ。
 やがて、教室にいた男子生徒の一人がいった。
「あの声は、なあ。厳しいよなあ」
 それに呼応して、他の生徒も口を開いた。
「気持ちはわからなくもないけど、協力はしてほしいよな」
「でもやっぱキツいんじゃないの、あの声じゃ」
 半分茶化すような口調に、渋面のままの御木元が目を向ける。
「そんなにおかしな声なのか、瀬下は?」
 さっき廊下で話したときにはおかしな声だとは思わなかったが、もしかしたら歌声はひどいものなのかも知れない。
「おかしいってわけじゃないんだけど、なんていうか……」
 秋山の問いかけに、御木元は口ごもった。
「授業中の瀬下くんの声ってさ、聞いたことない?」
「授業中か。オレ、授業中はだいたい寝てるからな」
 御木元は嘆息をもらした。
「まあいいわ。テナー抜きだけど、とりあえず練習始めましょう」
 ポンポンと手を打つと、御木元は手早くスマホをスピーカーに接続して伴奏を流し始めた。
 その様子を見ながら、秋山は感心した。
 手際よくみんなを引っぱっていくさまは、たいしたもんだ。
 御木元は、いまではすっかりクラスの中心になっている。少なくとも、いくつかあるクラスの中心のひとつに。
 変われば変わるもんだな。中学校のときは、オレのことを「あんた」なんて呼んだことなかったのに。
 それどころか、おまえの声を聞くのだって、中学校のときにはほとんどなかったんだぜ。


8 わたし、そんな上手じゃないし

「体育祭のボードさ、城ヶ崎さんが描いてくれない?」
 城ヶ崎の机に両手をついて、御木元がいった。
 身を乗り出すような姿勢になっていることもあり、頭の高さは座っている城ヶ崎と大差ない。その様子はまるでゴリアテに挑むダビデのようだ。ただそのダビデはずいぶんと威勢が良く、一方でゴリアテの方は気弱もいいところだった。
 体育祭の当日、生徒たちは自分の属する色ごとに応援席に座る。その応援席の後ろに各色ごとに巨大な絵を掲げるのだ。
 ベニヤ板を何枚も組み合わせて作るその絵は、1年生が担当するのが伝統になっていた。
 そこには、1年生が担当すればクラスの結束も図れるし、3年生には受験勉強の時間を取らせたいという学校側の狙いもあった。
「城ヶ崎さん、絵うまいじゃん。うちのクラスの代表として描いてよ」
「わ、わたし、そんな上手じゃないし……」
 城ヶ崎の細い声は、かぶせるような言葉にかき消されてしまう。
「うそだあ、わたし見たよ。美術の時間さ、城ヶ崎さんの絵、めちゃくちゃ上手だったよ」
 その声に調子を合わせるように、まわりの席からも声が上がる。
「見た見た。人物画、描くやつでしょ。めっちゃ上手かった」
「いいなあ。わたし、棒人間しか描けないよ」
「中学でも美術部だったの?」
「アニメのキャラとかも描ける?」
 城ヶ崎本人が口をはさむ隙がないほど、まわりの会話は彼女を置き去りにして盛り上がり続ける。
 そして彼女の唇が釣り上げられた魚のように開いたり閉じたりを繰り返しているあいだに、「まずはコンペだからさ、がんばってね」という御木元の言葉で、終了してしまった。 わたしが、描くの?体育祭で飾る絵を?
 そんな大事な絵を、わたしなんかが描いていいの?
 まるでつむじ風のあとに残されたみたいに、城ヶ崎は一人、ポカンと席に座っていた。
 確かに、これまでたくさん絵を描いてきた。でもそれは、誰かに見せるためじゃない。彼女はただ絵を描くことができさえすれば、それで満足だった。
 描けるものを、描いているだけ。
 描きたいから、描いているだけ。
 ただそれだけなのに。
 だからネットに公開したこともなかったし、コンテストに出したこともなかった。
 そこが、自分の世界だと思った。
 そこにしか、自分の世界はないと思った。
 ただそれだけのために絵を描いてきた自分が、そんな大切な絵を描いていいのだろうか?彼女にはわからなかった。
 体育祭で飾られる大きな絵は、学校のホームページや先輩たちのSNSで見たことがある。だからその大切さは、重々承知しているつもりだ。
 1年生には入学式を別とすれば初めての大きな行事だし、3年生にとっては最後の体育祭。だから体育祭が終わると、みんながその絵の前に集まって思い思いに写真を撮る。 クラスで、仲間で、友だちと、恋人と……。
 そんな大切な絵を、ただ絵が好きだからという理由で描いてきただけの自分が、本当に描いていいのだろうか? 御木元がいっていたように、絵が採用されるかどうかはコンペで決まる。下描きとなる絵を描いて、生徒の投票で決めるのだ。 当然のように、自分のクラスの生徒が提出した絵には同じクラスの生徒が投票してくれる。しかし2年生、3年生はそんなことお構いなしに、自分の好きな絵に票を投じる。だから最終的な結果は、やはり優れた絵、人気を集めた絵が選ばれることになる。 まだ自分の絵が選ばれると決まったわけじゃない。 しかし、そのコンペに提出すること自体、彼女にはなんだかおこがましいことのように思われた。 それに、お母さんはなんていうだろう?わたしの絵が、体育祭で使われるかも知れないなんて知ったら?


9 あんたが色目使ってるから、わたしの男が逃げるんじゃないの?

 スケッチブックに向かう時間が好きだった。
 真っ白な紙に、鉛筆一本でなんでも生み出せるのが、彼女には奇跡に思えた。
 小学生の頃は自由帳、高学年になってからはノート、中学生になるとお小遣いでスケッチブックとコピックを買った。
 コピックのセットは中学生には少し高くて、大切に大切に、それこそ宝物のように扱った。
 小学6年生のとき、初めて本気で描いた絵を母親がうんと褒めてくれた。
 父親にも見せたがったが、何年も続いていた別居はとうとう離婚へと至り、ついに見せる機会はやってこなかった。
 それでも母親が褒めてくれたことがうれしくて、中学生になっても描き続け、平面的な記号でしかなかった絵はやがて立体的になり、ついには奥行きと表情と独特の風合いを得るまでになった。
 友だちにも、美術の先生にも褒めてもらえた。
 それと反比例するように、母親は彼女の絵を褒めなくなった。絵を見なくなった。
 彼女のことを、見なくなった。
 家にいるあいだ、母親が見つめるのは酒のビンや缶ばかりになり、新しい男を連れ込んでは夜通し嬌声を上げていた。
 幼い彼女は、ただ耳をふさいでうずくまっているしかなかった。 
 それでも彼女は絵を描き続けた。母親が褒めてくれたから。
 描き続けていれば、いつかまたお母さんが褒めてくれる、わたしを見てくれる、そう思ってスケッチブックに向かった。スケッチブックがなくなればノートに、ノートがなくなれば教科書の余白に、彼女は描き続けた。
 どんな絵を描いても、どれほどたくさん描いても、母親の目は彼女を見なかった。
 そしていわれた。
「背ばっかり大きくなって」
 日曜日に昼過ぎまで寝ている息子に、食事のあとの洗いものを手伝わない娘に、つい母親の口をついて出る普通の言葉だ。
 まったくもう、うちの子は……。
 しかしそこには呆れとともに愛情がある。
 彼女の母親は違った。
「あんたが色目使ってるから、わたしの男が逃げるんじゃないの?」
 母親の口からは決して出るはずのない言葉だった。
 身長が170センチを超えて、着る服を着ればすっかり大人に見える、そんな娘に吐き捨てるように母親はいった。
 だが、彼女の心はまだ子供だった。
 だから受け流すことも、無視することもできなかった。
 だから真正面から受け止めて、吐き出すこともできずに飲み込んで、どうしていいかもわからないままに自分の胸の奥にしまい込んだ。
 しまい込んだその言葉は、心の内側からいつまでも彼女を切り刻み続けた。
 その痛みを忘れるために、彼女は絵を描いた。
 スケッチブックに向かう時間が好きだった。
 真っ白な紙に、鉛筆一本でなんでも生み出せるのが、彼女には奇跡に思えた。
 優しい母親も、あたたかい家庭も、彼女が望むものをなんでも描き出すことができた。
 城ヶ崎アユミは、絵を描くことが好きだった。


10 ど真ん中にいる経験を、わたしはしたい

 高校生は、ある程度大人で、ある程度子供だ。
 だからある程度、波風が立たないようにするし、立ってしまった波風はおさまるのを静かに待ちもする。
 波の荒い海にわざわざ漕ぎ出す必要などないことを、彼らは知っている。
 小学生のように、がむしゃらに波を割って進もうとはしないのだ。
 世間ではそれを、空気を読むというのだろう。
 しかしそれを、いつでもできるわけではないのが、彼らがある程度子供である証だった。
 あれから何回か合唱の練習があり、そのたびハルユキは口パクで参加し、誰もがそれを公然の秘密としていた。
 御木元もあの日以来、ハルユキに特になにかをいうわけでもなかった。もともと、男子の中には合唱に消極的な者もいる。それが支障を来すほど多くならなければ、御木元としても、わざわざ事を荒立てるつもりはなかった。
 せめてあの日も、瀬下くんが口パクででも練習に参加してくれていたら……。
 そりゃわたしだって、言い方は悪かったかも知れない。だけど瀬下くんだって、あんな真っ向から「やりたくない」なんていわなくたっていいじゃない……。
 自分でも自分を正当化しようと必死なのはわかっていた。
 それでもクラス委員をまかせられた身としては、クラスをまとめてくれとまかせられた身としては、看過できなかった。看過するわけにはいかなかった。
 だってみんな、がんばってるんだよ?
 わたし、そのみんなにまかされたんだよ?
 無理してるのはわかってる。柄じゃないのもわかってる。だけど、もう決めたんだ。
 そう決めたんだ。
 秋山くんだって、協力してくれてる。なにもいわずにいてくれてる。
 だからわたしは、後には退けない。
 なんとしても、体育祭を成功させたい。クラスのみんなで盛り上がって、その真ん中に自分がいたい。
 真ん中になんかいなくたって、どこにいたって大丈夫だって思えるくらい、ど真ん中にいる経験を、わたしはしたい。


11 みんなの気に入らなかったらどうしようと思って

 学校に友だちがいれば、それは普通の光景だったかも知れない。
 待ち合わせをして、落ち合って、どこかへ出かけて、他愛のない話をする。学校外でクラスメートの姿を見ることに、なんの不思議も抵抗もない。
 しかし、ハルユキは違った。
 少なくとも高校に入ってから、友だちと呼べるような存在はおろか、話をしたことのある同級生もほとんどいなかった。
 だから街で城ヶ崎アユミを見かけたとき、ハルユキは不思議な感覚にとらわれた。
 自分の知っている街に、店に、自分の知らない人間がいる。
 いや、それならほとんどすべての通行人がそうだろう。だからこの違和感は、知っているようでまるで知らない人間が、よく知っている場所にいるという何重にも絡まり合った違和感なのだった。
 もしかしたら、それが城ヶ崎アユミでなかったら、ハルユキは気づきもしなかったかも知れない。彼の中では、ほとんどのクラスメートは顔のないただのモブキャラだった。
 クラスメートたちそれぞれを個別の存在と認めたら、各人の存在を尊重せざるを得なくなってしまう。交流を持たざるを得なくなってしまう。そうなったら、会話をせざるを得なくなってしまう。その交流の行き着く先は、「アイツの声、変なんだぜ」という嘲笑だ。
 だからみんなをモブとして、壁や床や、石ころや雑草と変わらない存在として、意識して、意識しないようにしてきた。
 そんな中で、御木元や秋山は別だ。
 あいつらは嫌でも目に入ってくるし、見えないふりをするには目立ちすぎる。
 御木元はクラス委員としてしょっちゅうみんなの前に立っているし、例の一件のこともある。あれ以来なにもいってこないけど、腹の中ではなにを考えているかわかったもんじゃない。わかっているのは、どうせ同じようなカースト上位の連中と「アイツの声ってさあ……」なんて陰で嗤ってるってことだ。
 秋山はとにかくデカイし筋肉だし、どこにいたって目に入る。悪い奴じゃなさそうだけど、如何せん世界が違いすぎる。アイツは男らしさの塊みたいな奴、それにひきかえこっちは男だか女だかわからないような声の持ち主ときた。
——あいつらは、とにかく目立つんだよ。
 目立つという意味では、城ヶ崎アユミも負けてはいなかった。
 180センチメートルに迫る長身は、どこにいたって目に入る。さらには長くゆるやかにカールした髪の毛と、茶色い瞳はどこか日本人離れしているように思われた。
 美人だな、と思わないではない。
 しかし、だからどうしようという気が起きるわけでもなく、それどころかハルユキは目の前の彼女から見つからないようにコソコソと逃げ出そうとしていた。
「あ……」と声を上げたのは城ヶ崎の方だった。
 ショッピングモールに入っている文具店の一角。切れてしまったシャープペンの芯を買いに来て、「カラーのシャー芯なんてあるんだ」とおもしろがっていろんな色を試しているときだった。
 マジかよ。緑とか、青とか、紫とか、色もそうだけどこっちの方が普通のシャー芯より書きやすいじゃん。軟らかいからか?
 そんなふうに思いながら試し書きをしているとき、ふと目を上げると他の客より頭ひとつ抜きん出ている女の子がいた。
 それが同じクラスの城ヶ崎アユミであるとわかるには、数秒かかった。
 最初は、「デカイな」という印象、次に「可愛いな」という感想、そして「同じクラスの奴だ」という警戒。
 彼女は思いつめたような表情で、画材のコーナーで立ち尽くしていた。絵を描く道具のことなどまったくわからないハルユキだったが、彼女が真剣な面持ちで品定めをしているのだけはわかった。
 そんな彼女の端正な横顔を目の隅で見ながら、ハルユキは足早にその場を去ろうとした。
——邪魔しちゃ悪いしな。
 学校の連中と関わり合いになりたくない、という思いばかりではなかった。
 視線の向こうに画材とは別のなにかが見えているような、そんな様子の彼女をそっとしておきたい。そんな思いも確かにあった。
 だから彼女に気づかれないように、首をすくめるようにして狭い通路を進んだ。
 これまでもこの方法で、友だちとは呼べないクラスメートを何度もやり過ごしたことがある。もともと背が低いハルユキだ。少し猫背にでもなれば、丈高な陳列棚の陰に隠れるのは簡単だった。
 ところが、相手は180センチ近い身長の持ち主だった。普通より一段高いところから、陳列棚を乗り越えて視線を送り込んでくる。
 棚の向こうで不自然に首をすくめている人間がいれば、かえって彼女の目を引くのだった。
 そしてそこには、見たことのある姿があった。
 特に関わりがあるわけではなかったが、ハルユキは自分の席の真後ろでもあり、ましてや先日の一件から強く印象に残っていた。
 だから意図せず、「あ……」という声が出た。
 その声は決して大きくはなかったものの、静かな文具店の中をまっすぐにハルユキの耳まで進み、彼の足を止めさせるには十分だった。
 思わず振り向いたハルユキが見たのは、声を出したことに自分でも驚いた様子の城ヶ崎の顔だった。
 薄く唇を開いた彼女はハルユキを見つめてから、ようやく「瀬下くん……」とだけいった。
 ハルユキは棚越しに、「ああ」とぶっきらぼうに返すのが精一杯だった。
 立ち去ろうとしていたのを見抜かれているのは明らかだったから、気まずくて城ヶ崎の目を見られない。しかし幸いなことに、身長差のある二人のあいだでは、ハルユキが少し伏し目がちにしていれば自然と目を合わせずにいることができた。
「瀬下くんも、お買い物?」
 居心地の悪い間があったあと、城ヶ崎がぎこちなく訊いた。
「うん」
 おまえのおかげでぶち壊しだけどな、と思いながら、ハルユキは最小限の言葉で応えた。声を低く潰すことを忘れずに。
 ハルユキの地声は、あのときすでに彼女には聞かれてしまっている。それでも、それをおおっぴらにしたくはなかった。
「城ヶ崎は?」
『さん』を付けなかったのは、ハルユキのせめてもの強がりなのかも知れなかった。
 城ヶ崎はそんなことより、ハルユキが自分の名前を覚えていてくれたことの方に驚いたようで、両の眉がぴくんと上がった。
「あ、わ、わたしは、体育祭のコンペに出す絵を描くから、その、絵を描く道具を……」
 しゃべりながら、城ヶ崎は両手をわたわたと動かした。
 その姿に、ハルユキは不思議と安心した。
——コイツも、人づきあいが上手くないのか。
『苦手』という言葉は使いたくなかった。少なくとも自分は、苦手だとは思っていない。ただ高校に入ってから、上手くできていないだけだ。
「そうなんだ」
 そういえば、城ヶ崎は絵が得意なんだった。
 彼女の作品を直接目にしたわけではない。ただまわりがそういっているのを聞いただけだ。
 それでも、まわりがあれだけ騒いでいたんだし、ましてや体育祭のボードを依頼されるくらいだ。よほど上手いのだろうと察しはつく。
 城ヶ崎の手が慌ただしく動いていてくれるのは幸いだった。上下左右に動く手を目で追っていれば、彼女の顔を直視していなくても不自然じゃない。
 身長のおかげか、彼女は指も長かった。
 小学生時代には、『クモ』とか『ヒトデ』などと悪口をいわれたこともあったが、いまではその細く長い指は、多くの女子生徒の羨望を集めていた。もっとも身長の方は、「あそこまではいらないよね」というのが大方の意見だったが。
 その指がヒラヒラと動く様は、まるで空中でなにかを編んでいるかのようだった。
——器用そうな手だな。
 ああいう手をしているから絵が描けるのか、絵を描いてきたからああいう手になったのか、絵心がまるでないハルユキにはわからなかった。
「瀬下くんは、なにを買いに来たの?」
 立ち尽くしたまま、セリフを覚えてしまうほど繰り返し店内アナウンスを聞いた頃、落ち着かない様子で城ヶ崎が口を開いた。
 城ヶ崎本人も、クラスではそれほどおしゃべりな方ではない。しかしハルユキはそれに輪をかけて口数が少ないのだ。というよりも、話しているのをほとんど見たことがない。
 会話が自然に弾むはずもなかったが、二人のあいだにある見えない壁を突き破って——とまではいかないまでも、城ヶ崎はその壁をそっと押してみたのだった
「シャー芯」
「そっか」
 素っ気ない答えに、つぶやくような返事。
 ざわついているはずの店内が、まるで無音であるかのように感じられる時が流れた。
「なんの絵、描くの?」
 そのまま黙っているのも居心地が悪くて、今度はハルユキが口を開いた。
「え?」
「体育祭のボード」
 瀬下の方から言葉が投げかけられるとは思わなかったのか、次第にうつむきがちになっていた城ヶ崎が顔を上げた。
「あ、あの、女神を描こうかと思って……」
「そっか」と返事はしたものの、なぜ女神なのかはよくわからなかった。
 絵なんて、よくわからない。
 ダヴィンチやレンブラントを見ればきれいだなとは思うが、ピカソやモディリアニなんて落書きにしか見えない。ましてやポロックやカンディンスキーなど、落書きどころかイタズラ書きだ。もっとも、ハルユキはモディリアニ以下の名前は知っているはずもなく、ただ変な絵と思っているだけだった。
 絵が好きな連中、絵が描ける連中は、きっと自分とは別の目を持って、別の世界に生きているんだろう。
「じゃあ」と、立ち去ろうとするハルユキの言葉にかぶせるように、城ヶ崎が言葉を継いだ。
「でも、みんなの気に入らなかったらどうしようと思って」
 その顔は、もうすでに自分の絵を無下に否定されたかのような表情を浮かべていた。
 そりゃないだろう、とハルユキは思った。
 城ヶ崎はよっぽど絵が上手いらしいし、本人が描きたいといったわけではなく、まわりから頼まれて描くんだ。そうやって描いたものを、「これじゃダメだ」なんていえないだろうし、いう権利のある奴もいないだろう。
「大丈夫だろ?」
 自分でも驚くほど素早く、言葉がこぼれた。
「……」
 城ヶ崎の目はなにかを探すように床をさまよった。
「そうだと、いいんだけど……」
 長い髪に隠れて、城ヶ崎の表情は読み取れなくなっていた。
「ダメな奴に頼んだりしないだろうし、気に入らないなら自分で描けっていってやればいい」
 ハルユキの目に映る城ヶ崎は、とてもそんなことをいえそうにはなかったが、それ以上の言葉は見つけられなかった。
「うん。ありがとう、瀬下くん」
 無理に笑顔を作ろうとしているのがわかって、ハルユキはいたたまれなくなってその場を離れようとした。
 そのとき、「アユミ」と呼びかける声が聞こえた。
 それは正確には、「アーユミィ」と妙に間延びした声だった。
 声の主の方に顔を向けたハルユキは、それが誰なのかすぐにわかった。
——城ヶ崎のお母さんだ……。
 年齢なりの皺やたるみがあるとはいえ、城ヶ崎によく似たその顔は美人といって差し支えなかった。
「またあんたは、こんなとこでなにしてんのよ」
 高校生が文具店にいることになんの不思議もないし、文具店ですることといえば文具を買うこと決まっているのだが、城ヶ崎の母はそれが納得いかない様子だった。
「もう、ふらふらどっかに行かないでよ。お母さんまだ服見たいんだからさ」
「ちょっと、画材を見たくて……」
「そんなものなくたって紙と鉛筆があれば描けるでしょ」
 弘法筆を選ばずというし、城ヶ崎の母親が絵の大家であるならその言葉にも説得力があるのだろうが、ハルユキにはそうは見えなかった。
「あら、この子は?お友だち?」
 母親はようやくハルユキの存在に気づいていった。
「うん、高校の同じクラスの瀬下くん」
 紹介され、小さく頭を下げる。
 母親はさっきまでの険しい顔から一転、上から下まで値踏みするようにハルユキを見てから笑顔を浮かべた。
「あらあ。どうも、アユミの母です。いつもアユミがお世話になってます」
 その瞬間、ハルユキは思った。
——酒臭い……。
 強すぎる香水と熟柿臭い息に加えて、その微笑みがハルユキに嫌悪感を抱かせた。
 嬌笑という言葉を知っていれば、ハルユキの頭にはそれが浮かんだかも知れない。しかしたいして本を読まず、ましてや大人の女性とそれほど接したことのないハルユキに、そんな言葉が思い当たるはずもなかった。
 彼の頭に浮かんだのはただ、「嫌な顔だ」という印象だけだった。
「わかったから、お母さん、もう行こ。瀬下くん、じゃあね」
 母親の腕をとって歩き出す城ヶ崎の顔は、対照的に泣き出しそうに見えた。
 似ているようで似ていない城ヶ崎母娘の両極端な表情にハルユキの頭は占領されて、シャープペンの芯を買うことはすっかり忘れてしまっていた。


12 まだ途中だから

 まったく、忙しいったらない。
 自分で決めたこととはいえ、こうまで多忙だとは。
 それに、こうまでエネルギーを消費とするものだとは、思ってもみなかった。
 体育祭の配布用資料を運びながら、御木元ノブコは深呼吸した。
 そりゃあ中学と高校とでは、やることなすことぜんぜん違うのは予想してた。だけどここまでとは、そんなのわかりっこないじゃない?
 それに、なんなのよ、あのわがままで身勝手で自己中な連中は!
 中学のときは、みんな率先してクラス委員に協力しているように見えていたのに。まるで引き寄せられる砂鉄のように、中心にある磁石が動けばみんなもついてくるように見えたのに。
 提案すれば文句をいうくせに、意見があるかと訊けば押し黙る。そんなのどうしろっていうのよ。
 体育祭だって、とにかく協力しないことがかっこいいみたいに思ってる連中もいる。
——バカなんじゃないの?
 学校の行事としてやることが決まってるんだから、がんばればいいじゃない。協力すればいいじゃない。
 好きじゃない人がいるのもわかる。体育が苦手な人がいるのもわかる。
 だけどそんなの、誰だってそうじゃない。
 誰にだって苦手はある。やりたくないこともある。だけどみんなといるなら協力するのがあたりまえだし、苦手なら克服しようとすればいいじゃない。
 特にあの瀬下って奴はなんなの?
 歌いたくないとか、やりたい奴だけやればいいとか、そんなこといってたら集団生活なんて送れないのよ。
 下手でもなんでも、がんばればいいし、努力すればいい。なのにどうして、がんばる前に諦めて、努力する前に投げ出すの?
 御木元のそんな思いを受けて、両手で握りしめたA4の配布用資料にはわずかな皺が寄っていた。
——いけない、いけない。そんなこと、みんなには気づかれちゃいけない。
「体育祭の資料持って来たよ」
 努めて明るく、大きな声で、御木元は教室のドアを開けた。
「おーっ」という声とともに生徒たちが振り向く。
 だから逆に、その動きからズレたものが余計目につく。
 さっきまで後ろを向いておしゃべりしていたのに体ごと振り返って注目する者、顔だけをこちらに向ける者、一瞥だけで背を向けてしまう者。
 それでも、全体としてみればクラスのみんなは協力的だ。
 配付した資料を確認している様子を教壇から見ていると、それが手に取るようにわかる。
「じゃあ、体育祭の出場種目決めちゃおう」
 ざわつく教室の中に、御木元の声が響く。
 その声に、ハルユキは顔を上げた。
 御木元のことは、相変わらず気に入らない。しかし、だからといって合唱以外のことにまで非協力的な態度を取るつもりはなかった。
——合唱だって、邪魔しようってわけじゃないんだ。
 教室の前の方からは、御木元が黒板に体育祭の種目を書く音が聞こえてくる。
 自分が歌わないことに触れずにいてくれるなら、見かけだけは協力的に振る舞うこともできる。ぶつかり合って、意見を戦わせて、自分の正当性を認めさせたいという意図など、ハルユキには露ほどもないのだ。
 それどころか、体育祭で歌わないのはただのわがままであることも、重々承知していた。
 だからせめて、合唱のことに触れずにいてくれるならという条件付きで、他のことには協力をするつもりでいた。
——城ヶ崎のこともあるしな。
 先日、文具店で出会った城ヶ崎は、まるで消え入りそうなほど自信がないように見えた。
 あれから何度か、城ヶ崎の絵を見る機会があった。
 画用紙やスケッチブックにしっかりと描かれたものではなく、ノートやプリントの隅にイタズラ書き程度に描かれたものが、たまたま目に入ったのだ。
 その絵は、ハルユキには衝撃だった。
——イタズラ書きで、あのレベルかよ……。
 一度など、ブロックメモにボールペンで描かれた絵を見て印刷されているのかと、そういう商品なのかと思ったほどだ。
——下描きもなしだもんな……。
 正直、自分に絵心がないのはハルユキにもわかっていた。しかし、あの絵が上手いのはわかる。
 そんな絵を描く城ヶ崎が、「みんなの気に入らなかったらどうしよう」と、思い悩んでいるのだ。
 もしかしたらそれは、才能に恵まれた、絵を描くべく生まれてきた人間の贅沢な悩みなのかも知れない。 
 しかしそれなら、その悩みは絵心のない自分なんかよりはるかに重く大きいものなのだろう。そもそも絵など描けない自分には、そんな悩みなど持ちようもないからだ。
 どんな絵を描いたところで、「下手くそ」といわれるだけで、関心すら引かないだろう。注目されること、期待されることは、それだけの重荷をともなうのかも知れなかった。
——アイツも、いろいろ抱えてんだな。
 高1女子にしては背が高過ぎること、ビックリするほど絵が上手いこと、母親がヤバそうなこと……、そういったいろんなことがないまぜになって、城ヶ崎の自信なさげな後ろ姿を形作っているのかも知れない。
 彼女の背中をなんとなく眺めながら、ハルユキは思った。
 だから間接的とはいえ、その城ヶ崎の邪魔をするようなことはしたくない。できれば、少しなりとも助けになれたらと、思わないではなかった。
「個人出場したい種目があったらその種目に丸をつけて提出してください」
 ハルユキの物思いをさえぎるように、御木元の声が教室に響いた。
 目を上げると、御木元が教壇から城ヶ崎に声をかけているところだった。
「ボードの方の進み具合はどう?」
 その声はあくまでも明るく、リーダーそのもののといった調子だった。
「が、がんばって……ます」
 なんで敬語なんだよ、とハルユキは思った。
 御木元にあの感じで迫られたら、ただでさえ自信のない城ヶ崎のことだ、そりゃあおずおずもする。だけど自分の得意な絵の話なんだから、もうちょっと堂々としててもいいだろう?ましてや、あれだけの絵を描く才能に恵まれているんだし。
——その点、オレはな……。
 ハルユキはなんとなく、自分の手を見つめた。特に特徴があるわけでも、なにかできるわけでもない自分の手を。
 その手は城ヶ崎のように目を奪う絵を描けるわけでもなく、秋山のように力強いわけでもない。では他はどうかといえば、御木元のようにみんなを引っぱっていける才能があるわけでもなく、クラスの人気者になれるような素地もない。
 唯一特徴らしい特徴といえば声だったが、こちらは才能というにはあまりにもコンプレックスに過ぎた。
——もったいないじゃんか。
 いつものように目の前で背中を丸めている城ヶ崎に、ハルユキは心の中でいった。
——御木元だって他のみんなだって、おまえの絵に期待してるんだ。それだけ才能を見込まれてるんだ。才能のある奴は堂々として、「わたしにまかせろ」っていっていいんだよ。
 いや、いうべきなんだよ。ハルユキは思った。
——見ろよ。秋山なんて、これだけみんなが体育祭だ、合唱だと騒いでるのに、堂々と寝てるんだぜ。
 ハルユキが目をやると、秋山は机に突っ伏して寝ていた。その様子は居眠りというより、もはや熟睡の域だった。
「ねえ、下描きでもいいから見せてよ」
 誰か、近くの席の女子がいった。
 コンペは来週だ。確かにそろそろ進み具合を知りたいところではあったが……。
「ま、まだ途中だから……」
 城ヶ崎の丸めた背はさらに縮こまるように見えた。
「えー、いいじゃん。わたしたちもどんな感じなのか知りたいしさ」
 そうそう、と同調する声はまるで波のように彼女を取り囲んで大きくなっていき、中心にいる城ヶ崎は溺れてしまいそうだった。
——そんなにせっつかなくても、いいじゃないか。
 そう思っている自分に、ハルユキは少し驚いていた。
 数日前、文具店で彼女と会う前は、そんなこと思ってもみなかった。数日前の自分だったら、クラスの他の連中と同じく「下描きでもいいから見てみたい」と思っていたか、あるいはまったく無関心だったかのどちらかだったろう。
——アイツ、みんなが思ってるほど自信ないんだぜ……。
 高校生特有の、クラス一丸となっているとき特有のノリで城ヶ崎に下描きを見せろと迫る生徒たちの奔流に、ハルユキはほんの少し苛立った。
 だけど、なにができる?「やめろよみんな、困ってるじゃないか」なんて白々しいセリフ、オレがいったって誰も聞きっこないし、第一そんな寒すぎるセリフをいえる度胸のある人間なんているわけがない。そもそもオレは声を出したくなんかない。
 だから自分が思っていたほぼそのままのセリフを耳にしたとき、ハルユキは心底驚いた。
「ほらほら、城ヶ崎さん困ってるじゃない」
 声の主は、教壇に立つ御木元だった。
「そんなに催促しなくたって、完成したら見せてくれるわよ、ね?」
 その声に、さっきまで盛んに城ヶ崎に下描きを見せろとせがんでいた声が止んだ。それこそ、潮が引くように。
 ああ、これがカースト上位ってやつか。ハルユキは思った。
 いつの間にか形成されるクラス内カースト。その上位にいる人間の声は絶対だ。
 いまこのクラスのカースト上位には、明らかに御木元がいる。まるで慣習法のように、カースト上位の人間がいったことは上意下達、下々の者にまで適用されるのだ。
「ええー」などといいつつ、先ほどまで城ヶ崎を取り囲んでいた生徒たちがバラバラになっていき、 城ヶ崎だけが波打ち際に取り残された貝殻のように、ポツンと自分の席に座っていた。
 そのイメージに、ハルユキは自分でも驚いた。
——絵のことを考えていたからかな。
 これまで、そんな詩的なイメージを心に浮かべたことなどなかった。
——城ヶ崎は、そんな風景を見たらどう描くんだろう?
 あれだけ上手に絵が描けるのに、それにまったく自信を持てないでいるように見える彼女は。
 そのとき、ふと先日見かけた城ヶ崎の母親の姿が頭に浮かんだ。
——城ヶ崎がああなのは、母親のせいなのか?
 どんな親子にも、それぞれの個性があるし、事情がある。しかしあの母親の様子は、ハルユキにはとても普通とは思えなかった。
 昼間、というかもう夕方近かったが、それでもそんな時間から酒のにおいをさせている親がいるだろうか?
 自分の母親が立派だとか、いい母親だというつもりはない。ハルユキだって反抗期はあったし、いまでもその名残のようにときどき反発することもある。
 だから小学校の低学年みたいに、「僕のお母さんはいいお母さんです」などと胸を張るつもりはないし、親を比べるものではないこともわかっている。
 しかし、それにしても、だ。
——あれはないよな。
 それは青臭い正義感、高校生特有の潔癖症に似た清廉さなのかも知れない。もしかしたら中二病の後遺症という可能性もあった。
 それでもハルユキには、あの母親の存在が城ヶ崎の上に垂れ込める暗雲のように思えてならなかった。


13 じゃあ、彼女とかいない感じ?

 高校でも、スポーツが得意というのはモテる男子の条件のひとつであるらしい。
 小学生の頃は、明るい男子、おもしろい男子がモテた。中学に入ると、次第にかっこいい男子、スポーツができる男子がモテるようになって、ランキングの上位が入れ替わる。
 とはいえ、小学生の頃にモテていた男子がいきなりモテなくなるようなことはなく、その推移にはグラデーションがあるようで、中学に入ってからも明るい男子、おもしろい男子は相変わらず一定の人気を保っていた。
 中学から高校になってもそれは同様と見えて、高校では勉強ができる男子の人気が高まるとはいえ、スポーツのできる男子はやはり上位にランクインしているようだった。
 ましてや1年生でインターハイ予選上位入賞となれば、女子からの人気も上位入賞となるのも不思議ではなかった。
 団体戦より一足早く行われたインターハイ予選個人戦で、秋山シゲルは6位入賞を果たした。
 本人は、「オレの階級、出場者少ないから」と謙遜していたが、上級生との体格差が大きい1年生が上位に入るのは並大抵のことではない。事実、試合終了後には地元の新聞社が秋山のもとに取材に来ていた。
 実際の試合の動画はYouTubeにも上げられており、試合翌日にはこぞって生徒たちが見ていたようだった。
 試合開始直後、襟の取り合いははたから見れば殴り合いに近い。相手に僅かでも、1ミリでも有利な場所を取らせないように、それでいてこちらは少しでもいい位置をつかめるように、最初の数秒間は手の出し合い、はたき合いになる。そのあとは相手の膝を、足首を刈り取るように蹴りつける。
 初めて柔道の試合を観たという女子の中には、「引くわあ……」という感想を漏らす者もいた。
 きれいに投げ技が決まることなど滅多になく、相手が体勢を崩そうものならすかさず押し倒して上に乗る。相手も自分も収縮してなくなってしまうくらいに、全力で締め上げ、畳に押しつけて身動きできないようにする。
 そして少なくとも10秒、できることなら25秒、主審の腕がまっすぐ上にあがるまで押さえ込む。
 それは泥臭い、文字どおりの格闘技であって、いわゆるスポーツと一線を画するところだった。
 だからマンガやアニメのように、さわやかな汗とともに一本背負いで相手を畳に叩きつける、などという場面を期待していた女子からは、「思ってたのと違う」という反応もあった。
 しかし、大半の生徒からは称賛と敬意を集め、特に女子からは多少の好意も寄せられていた。
「御木元さんてさ、秋山くんと同中おなちゅうなんでしょ?中学時代から仲良かったの?」
 教室で弁当を広げながら御木元に話しかける女子の声は、ハルユキにも聞こえていた。そしてそれはもちろん秋山の耳にも届いているはずだったが、おそらくそれは計算の上のことだった。
「うん、まあそう」
 御木元は曖昧に答えた。
 どうして同じ中学出身ということと、仲が良いということが同義のように語られるのか。
 御木元としては秋山に対して特別な想いを抱いたことはなく、こうしてまわりが騒がしくなるのはうっとうしいばかりだった。
「中学のときから強かったの?」
「うん、そうだね」
 高校に入っていきなり活躍できるほどだ。中学時代にだってその名は広く知られていた。しかし御木元は柔道にも秋山にも興味はなかったし、3年生のときに同じクラスだったという以外にたいした接点はない。
——ていうか、眼中になかったと思うけど……。
 眼中になかったのは、秋山のことではない。秋山から見た自分のことだ。
 入学初日に秋山自身がいっていたように、片や高校からスカウトが来るくらいのスポーツマン、片やわたしは……。
「じゃあ、結構モテてたりした?」
 御木元は心の中でため息をついた。
——なんですぐそうなるのよ、この恋愛脳。
 それでもそんなことは、表情には出さない。
「どうかな。あんまりそういう話聞かなかったけど」
「そうなんだ。じゃあ、彼女とかいない感じ?」
 聞こえよがしなその言葉に、御木元は心底うんざりした。
——そんなの直接本人に訊けばいいじゃない。
 みんなそうやって安全策をとろうとする。
 真正面から告白してフラれるのが怖いから、遠巻きに眺めながら、チャンスが転がり込んでこないかと狙っている。
 あわよくば秋山くんの方から告ってくれないかしら……。
 そういう狡さが、御木元は嫌いだった。
 自分から行動を起こせば、その責任は自分にある。責任を負うのが嫌だから、不可抗力のように、自然にそうなったかのように、事態を持っていこうとする。流れを作ろうとする。
「さあ、いないんじゃない?」
 そう答えたのは、その女子の意図するところがわかっていたからだ。
 要するに彼女は、「あなたは秋山くんの彼女じゃないわよね?」といいたいのだ。
 そんなこと、あるわけがない。御木元にしてみれば、秋山が自分の名前を覚えていたことすら驚きに値するのだ。
 御木元の答えに満足したように、目の前の女子はサンドイッチにかぶりついた。


14 入学もしていないのに、卒業だなんて

 インターハイの予選以来、まわりがやけに騒々しい。秋山は周囲のざわめきをうっすらと意識していた。
 それ自体、決して悪い気はしない。それ自体が目的ではないにしろ、自分の活躍が認められるのはうれしいものだ。
 しかしその反面、煩わしいこともある。
 それは男女問わず、自分に注目が集まったときにだけ寄ってくる連中の存在だ。
 それをきっかけに友だちになろうとか、親しくなりたいというのはいい。新しく友だちになるには、なんらかのきっかけが必要だ。
 だけど、あからさまに「有名だから友だちになりたい」というのは違う気がした。
——それなら、トロフィーや賞状と友だちになってればいいんじゃないかな。
 とはいえ、それはいまに始まったことではなかった。
 中学時代にも秋山が大きな大会で勝つたびに知らない友だちが増え、会ったこともない恩師が増え、元カノだという女子生徒の数は五指に余った。
 そんなことが続くうち、秋山はだんだんと気にしないようになった。いや、気にしないというより気にならなくなったというべきだろう。
 あまりにも日常的になってしまった周囲のそうした反応をいちいちまともに取り合うには、秋山の性格はおおらかすぎた。
 だから、「面倒くさいな」とは思いながらも、それを思い悩んだり、聞き煩うようなことはしなかった。
 それに、そんなことを気にしていては、好きなものを集められない。
 きっかけは、父親が出張先で買ってきたウサギの根付けだった。
 小学校2年生の頃、本当は3つ上の姉のために買ってきたものだったが、秋山はその根付けを「可愛い!」と気に入ってしまい、せがんで譲ってもらった。
 カバンにつけて学校に行くと、女子からはもちろん、男子たちからも「可愛い」といってもらえた。
 ところが、学年が進むにつれて、「男子が可愛いものを持ってるのはおかしい」という声がどこかから聞こえ始め、やがてその声は見えない川のように学校の廊下を流れ、いつしか奔流となって生徒たちを押し流していった。
 花柄とか、ピンクとか、男子がそういうの持ってるのおかしいよ——。
 そんな声が耳に入るともうダメで、男子たちはみんな一斉に可愛いものから「卒業」していった。
——入学もしていないのに、卒業だなんて……。
 そう思っても口に出せる男子はいなかった。
 だいたい、男子はかっこいいもの、強いもの、大きいものが好きなのが自然で、そうであるべきだという考え方自体、思い込みと押しつけであって、男子が可愛いもの、か弱いもの、小さいものが好きであってもいいはずだった。
 もちろんその逆も然りなのだが、女子の場合にはかなりの年齢まで「ボーイッシュ」ですまされてしまうケースも多い。
 その点は男尊女卑の逆、女尊男卑なのではないかと、秋山は思うことがあった。
 ましてや秋山は、幼い頃からひときわ身体が大きく、いわゆる「男らしい」とされるものの典型だった。だから余計に、「そんな可愛いの持ってるの?」とか、「シゲルくんがそんなの持ってるの、変だよ」とことあるごとにいわれた。
 いわれて、いわれて、いわれ続けて、しばらく悩み、少し考えて、秋山は結論を出した。
 気にしないことにしよう。
——オレが可愛いものを持ってることで、誰かに迷惑をかけたか?
 ノー。
——オレが可愛いものを好きなことで、柔道が弱くなったか?
 ノー。
——オレが可愛いものを集めることで、誰かが嫌な思いをしたか?
 ノー。
 それなら、なにを気にする必要がある?
 秋山の体格がいいこと、そして柔道が格段に強いことも、プラスにはたらいた。その身体を前にして、公然と「おかしい」といってくる連中は、少なくとも本気でいってくる連中は、中学に入ってからは皆無といってよかった。
 だからこうして高校生になっても、秋山の部屋には可愛いものがたくさんあり、タオルはピンクだったり花柄だったりし、カバンにはウサギの根付けがついている。
 自分の好きなものは自分の一部だ。
 まわりからそれを否定されたからといって、自分の一部を変えることなどできるものか。
 柔道が好きだ。だから強くなりたい。
 可愛いものが好きだ。だから近くに置いておきたい。
 だから先輩からなにをいわれようと、まわりがどう思おうと、オレはオレの好きなものに囲まれて、好きな柔道の練習に行くんだ。


15 あたし、聞いちゃったんだけどさ

「御木元さんさ、張り切りすぎじゃない?」
 その声を聞いたとき、動けなくなった。
 放課後の体育倉庫で、体育祭で使う備品のチェックをしているときだった。
——こんなの毎年やらなくてもいいのに。
 体育祭で使う備品の多くは、普段の授業でも使われている。だからなにか問題があれば、その時点でわかるはずだった。
 とはいえ中には年に一度、体育祭のときにしか日の目を見ないような備品もあって、そうした物の劣化具合は実際に目で見て確認するしかない。
 それに、と御木元は思った。
 学年主任から直接、他ならぬ自分に依頼されたのだ。
 中学時代には、こんなことは考えられなかった。誰も御木元にこんなことを頼みはしなかったし、もし頼まれていてもその役割をまっとうできたかどうかははなはだあやしい。
 その頃のことを思い出して、備品をチェックする手が止まった。
 引っ込み思案、というのは、肺炎を風邪というのと同じくらい間違えている。
——それくらい、わたしは……。
 声が聞こえてきたのはそんなときだった。
 倉庫の裏で話しているらしい、楽しそうな声。
 意味なんかない、なくていい。ただ明るく楽しいだけの、無邪気で、無遠慮で、むき出しの会話。
 薄暗い倉庫から見ると、目がくらむほどに眩しい外の世界。開けたままのドアを通じて、眩しい世界から声が聞こえてくる。
——いまのわたしは、あちら側にいるんだ……。
 あの明るく、楽しそうな、それぞれが世界の中心であるかのような彼女たちの側に。
 わたしと彼女たちを隔てるものはなにもない。
 だから声をかけようと思った。
 眩い光の中に顔を出して、「備品のチェック手伝って」「いいよ」そんな会話をしようと思った。
 そして入口の縁に手をかけた瞬間、その言葉が聞こえた。
「御木元さんさ、張り切り過ぎじゃない?」
 痙攣するように、御木元の手が止まった。
「うんうん、元気過ぎっていうかわざとらしいっていうかさ。ちょっと引く、みたいな」
「わかるー。引くっていうかわたしたち置いてけぼり?みたいな感じ」
 自分たちしかいないと思い込んでいるらしい少女たちの声はあくまでも明るく、やわらかく、プレハブの壁を易々と貫いて御木元に迫った。
 ときどき混じる楽しげな笑い声は、ヤスリのように彼女の心を削った。
 だが、まだだ。
 まだみんな、わたしが目立つと、活発だといっているに過ぎない。
——そんなもの、褒め言葉だ……。
 彼女たちはクラスの中心にいるわたしを、カースト上位にいるわたしをうらやんでいるだけ。
 また笑顔で話しかければ、何事もなかったようにわたしに接してくれる。わたしといてくれる。
 そう思ってもう一度、縁にかけた手に力を込めた。
「あたし、聞いちゃったんだけどさ」
 踏み出した足が地面に着くより早く、その言葉は御木元の鼓膜を震わせた。
「御木元さんて、中学のとき陰キャだったらしいよ」
 鼓膜を震わせたその言葉は、細い針のように御木元の心のどこか、深い深いところに達していた。
 細過ぎて、目に見えないくらいのはずなのに、確実にいちばん痛い部分を衝いてくる。
 土を踏んだ足が、吸い付けられたように動かなくなった。
 過去の自分という亡霊が、「おまえはあちら側じゃないだろう」と、地面に這いつくばってスカートの裾をつかんでいるかのように、身体が前に進まなくなった。
「嘘でしょ?ぜんぜんいまと違うじゃん」
——嘘だよ、そんなの。
「御木元さんが陰キャって、イメージ合わないなあ」
——いまのわたしが、わたしなんだよ。
「あー、でもわかるかも。ちょっと空気読めてないっていうかさ、一人で突っ走っちゃってるときあるじゃん?」
——そんなの、わからなくていい。がんばってることだけ、わたしがみんなの中心にいることだけ、わかってくれればいい。
「わたしも陰キャだからさ、訊いてみようかな?どうやって高校デビューしたんですかって」
 笑いながらいうその言葉で、もうダメだった。
「誰が高校デビューよ。やめてよね、もう」
 そういって笑いながら彼女たちの前に姿を現せば、それきりですんだかも知れない。
 しかし、それは彼女にはできないことだった。
 だから御木元は、息を殺して、足音を殺して、心を殺してあとずさりした。
 そっとそっと、触れないように。今日まで必死で組み上げてきたものを、ガラスのトランプで作った塔よりもなお脆いものを壊さないように。
 原形を留めないほどに飾り立ててきたものがバレてしまわないように。
 できるだけ浅く息をしながら、御木元は倉庫の奥に身を潜めた。
 自分でも、おそろしいほどに顔が強ばっているのがわかる。
 とにかくいまは、隠れなければ。
 誰にも見つからないようにしなければ。
 昔と同じように、独りぼっちにならなければ。


16 陰キャだからそんなところにいるんでしょ

 長い長いあいだ、そこに座っていた。
 どのくらいそうしていたのか、御木元にはわからなかった。
 もしかしたら、誰にも見つからずに何年も経っていて、あの子たちはもう卒業してしまっているかも知れない。
 ネットニュースに「行方不明の高校生、奇跡の生還」なんて見出しが躍って、少し怒られるけどみんなでわたしの無事を喜んでくれたりして。
 そんなものが空虚な妄想であることは、自分でもわかっていた。
 しかしそんなものにすら縋らずにはいられないほど、彼女の心は千々に乱れていた。
——きっと、わかってたんだ……。
 いつかこんな日が来ることが、こんなふうに化けの皮が剥がされるのが。
 いや、まだ化けの皮は剥がれていない。
 ボロボロになって、向こう側が透けて見えるくらいだけれど、それでもまだ剥がれてはいない。
 わたしはクラス委員の御木元ノブコだ。
 明るく、楽しく、いつだって堂々と振る舞う、クラスカーストの、いやスクールカーストの上位にいる人間だ。
 カーストのトップとはいわない。そんな大それたことまでは望まない。だけど上位には、上の方には、せめて真ん中より上にはいたいんだ。
——そうでなくちゃ、なんでわざわざこんな高校に入ったんだか……。
「御木元さん……」
 体育倉庫の暗がりで、胸の痛みを自分の身体ごと抱きしめているとき、名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
——幻聴だ。
 ここから、体育倉庫から、学校から逃げ出してしまいたいと思うからこそ、自分追い詰める声が聞こえるのだ。
 御木元はなおのこと強く膝を抱きかかえた。そうしていればふたたび自信を持って、化けの皮こそが本当の自分であると思い込めるようになるとでもいうように。
 しかし声は執拗に彼女の名を呼んだ。
「御木元さん……」
——ああ、もう終わりだ……。
『陰キャだからそんなところにいるんでしょ?』
『無理して明るいふりしてたから、暗闇成分補給してるんじゃない?』
『カビとか食べて生きてんの?ウケるんだけど』
 中学のときに聞いた声が自分を嗤うのが聞こえるような気がした。
 きっとさっきの子たちが自分を嗤いに来たんだ。
 こんなところでうずくまっている姿を見られたら、わたしの化けの皮なんてフライパンの上に落ちた水滴のように消し飛んでしまう。
「御木元さん」
 観念して、断念して、絶念して、御木元はそっと目を開けた。
 体育倉庫の入口に、外の光を背にした黒い影が立っていた。
 心まで縮こまった御木元の目にはその姿はあまりにも大きく映り、わずか数歩で踏み潰されてしまいそうに思えた。
——いっそ、その方がいい……。
 踏み潰され、すり潰されて、消えてなくなってしまえたらどんなにいいか。
 その方が、クラスメートから「あの子、ホントはさ……」などといわれながら過ごすよりもずっといい。
——だからどうか、わたしを……。
「御木元さん」
 呼びかける声は、御木元から少し離れたところで遠慮がちに足を止めた。
 おそるおそる開いた御木元の目に、茶色いローファーの爪先が映った。
 入口に見えた影と同じく、そのローファーも大きく見えた。
 ゆっくりと顔を上げると、思っていたよりずっとずっと高い位置に、ローファーと同じくらい茶色い目があった。
 その目がおさまる顔の横からは、ゆるやかにカールした長い髪がたれ下がり、入口から射し込む光を受けて輝いていた。
「城ヶ崎さん……?」
 そういったのと同時に、洟をすすり上げてしまった。涙は拭いたつもりでいたけれど、おそらくその跡までは消せていないだろう。
——こんなことなら、ファンデーションなんて塗ってくるんじゃなかった。
 もしかしたら、さっき目をこすったせいでアイプチもとれてしまっているかも知れない。
 こんな顔、誰にも見られたくなかった。
——でも、もういいや……。
 倉庫裏の声がいっていたとおり、張り切り過ぎた。無理をし過ぎた。
 取り繕って、ごまかして、装ったところであんなふうに思われるのが関の山だ。
 もうなにもしたくない。
「わたし、その、体育祭で使うボードを見せてもらおうと思って……」
 入口に立つ城ヶ崎は、言い訳をするようにいった。
 城ヶ崎は自分が描くことになるかも知れない体育祭のボードを確認しに来ていたのだった。
 数字の上では、大きさは知っていた。しかし、数字で知っているのと実際の大きさを感覚としてわかっているのとではまるで違う。
——まだ自分が描くことになるかはわからないけど……。
 それどころか、自分が描いていいのかどうかもわからなかったが、それでも城ヶ崎は見ておきたかったのだ。自分が想いをぶつけることになるかも知れないそのボードを。
 御木元が体育倉庫にいることは知っていた。
 鍵を貸してもらおうと職員室に行き、そこですでに御木元が体育倉庫に行っていると教師から聞いたのだ。
 そして来てみると、倉庫裏から話し声が聞こえた。
 初めはなにを話しているのかわからなかったその会話は、「御木元」という名前を聞いた瞬間、まるでカメラのピントが合うようにはっきりした。
 それはすぐに、御木元のことだと、御木元の陰口だとわかった。
「人の陰口なんかいっちゃいけません」
 そうは思わない。いや、そうは思うが、それが現実的でないことくらいは城ヶ崎にもわかっている。
 誰だって、誰かの陰口くらい叩く。
 そうやってガス抜きをすることで、本人の前では愛想よく振る舞えることもある。
 だから城ヶ崎は、それを気にせず体育倉庫入り口に向かった。自分が聞かなかったことにすれば、それですむ。
 忘れてしまえばいい。
——忘れるのは、得意だし……。
 小学生の頃に別れた父親のことも、母親に捨てられてしまったスケッチブックのことも、忘れたことにしてしまえば、なんということはない。
 そう思って、耳に入ってこようとするザラザラとした言葉たちを意識の外に置こうとした。
 しかしそのとき、見てしまった。見えてしまった。
 体育倉庫の入口で、凍り付いたような顔で後ずさっていく御木元の姿を。
 まるで夕方にひまわりが首を垂れるように、雨に打たれた綿菓子が溶けていくように、ゆっくりと、御木元の姿は体育倉庫の闇に飲まれていった。
 それを、見なかったふりはできなかった。
 そこまでは、強くなかった。
 だから闇に溶けていった御木元のあとを追って、体育倉庫に足を踏み入れてしまった。
 どうすればいいのか、なんといえばいいのかもわからないまま。


17 絶対許さないから

「御木元さん、これ……」
 ただそれだけいって城ヶ崎が差し出したハンカチは、少し震えていた。
 それを見た瞬間に、御木元は悟った。
——聞かれてたな……。
 なにをいえばいいのかわからないのは、御木元も同じだった。
 こんな姿を見られ、本当は情けない陰キャがコケおどしの陽キャを演じているのを知られてしまった。
 自分の中で、感情が死んでいくのがわかった。
 それはなにかを諦めた人間が見せる、一種の防御反応だった。
 その感情を胸に抱えたままではいられないとき、人の心は初めからそれがなかったかのように振る舞う。
 だから城ヶ崎を見上げる御木元の目には、光も感情も宿っていなかった。
 城ヶ崎は、その目を知っていた。
 夜明け前の自宅のキッチンで、その目を見たことがあった。
 中学生のとき、母が深酒をするようになってからしばらく経った頃、トイレに行こうと起き出した城ヶ崎はキッチンの椅子に座る母親を見かけた。
 灯りもつけずに座る母親の顔は暗がりで薄ら青く、テーブルの上にある包丁の刃だけが硬質な輝きを放っていた。
 包丁を見つめる母の目には、なんの感情も浮かんでいなかった。
 青と黒だけで描かれた絵のようなキッチンの様子に、城ヶ崎は怖じ気づき、手で口を押さえながら部屋に戻った。
 翌朝、何事もなかったように母は仕事に行き、城ヶ崎は寝不足のまま学校に向かった。
 学校にいるあいだも、家に帰ってからも、時間が経てば経つほど、自分が見たものが現実だったのか確信が持てなくなっていった。
 それでも、あの目だけは忘れられない。
 自分と包丁以外にはなにも存在しないかのような、あの母の目だけは。
 暗闇で城ヶ崎を見る御木元は、同じ目をしていた。
 あのときは、なにもいえなかった。
 なにもいえなかったけど、なにも起こらなかった。
 なにも起こらなかったけど、なにかが変わってしまった。
 あれから母は深酒を超えて痛飲するようになり、知らない男の人が家に来るようになった。
「わたし、ノブコっていうの」
 唐突な自己紹介に、城ヶ崎はうろたえた。
 御木元の下の名前がノブコだというのは知っている。
 最初の自己紹介のときから、明るくて、元気で、常にみんなの中心にいる人だと思っていた。だからその名前も、いちばんに覚えてしまっていた。
「中学生のときのあだ名、なんだと思う?」
 今度はクイズ?
 なにか考えがあって体育倉庫に足を踏み入れたわけではない。しかし、こんな会話はあまりにも予想外だった。
 しかし御木元は答えを期待しているふうではなく、ただあふれてくる言葉を吐き出しているだけだった。
「モブコよ、モブコ。身長も、体重も、足のサイズまでぴったり平均。特徴がなくて、どこにでもいそうで、いなくても同じ、その他大勢のうちの一人。だから、モブコ」
 モブという言葉は、城ヶ崎も知っていた。
 物語の中心となる主要人物と違って、セリフもなくほぼ背景と化している存在。
 恋愛ドラマの主人公がカフェでお茶している後ろで、ピントすら合わず、ガヤガヤと環境音を発するだけの存在。パニック映画なら大事故に巻き込まれて、路上で右往左往するだけの有象無象。
 それが、モブだ。
 御木元がそうだったなどとは、城ヶ崎にはにわかに信じられなかった。
「でも、御木元さん、そんなふうには……」
「見えないでしょ。見えないよね?見えないようにしてきたもの」
 御木元はもう一度洟をすすった。
「わたし、ほんとにモブだったの。中学のときはずっと。
 わたしだって、みんなの輪に入りたかった。明るくて、目立ってて、みんなに注目されて、先生にも可愛がられてて、そういう人がうらやましかった。そういう人になりたかった。
 でもそんなふうになれないのわかってたから、そういう人に近づきたいって思ってたの。
 だから中学1年生のとき、文化祭の打ち上げだってその子たちがカラオケに行ったとき、ついて行ったの。
 そうしたら、カラオケ屋さんの入口でなんていわれたと思う?」
 このクイズにも、城ヶ崎は答えることができなかった。
「なんでおまえがいるの?っていわれたのよ、半笑いで。今日はわたしたちの集まりだから、御木元がいてもつまんないよって。だっておまえ、モブだしって。
 そこにいた子たち、みんな大爆笑で、それ以来モブコって呼ばれるようになった」
 まるで他人事のように、御木元は続けた。
「わたしの行ってた小学校ね、地域によって進む中学がバラバラなんだ。わたしは中でも少人数しかその中学に行かない地域に住んでたから、最初は戸惑っちゃって。
 そうこうしてるうちにそんなことがあって、そのまま中学3年間を過ごしたの。
 だから、今度はあえて誰もわたしのことを知らない高校に行って、逆にはっちゃけてやろうって思ったの。昔のわたしを知らなければ、きっとできるって思って。
 だからあの子たちがいってたの、あってるのよ。陰キャが無理して、高校デビューを目論んだのよ。
 でも、やっぱりダメみたい。モブはモブ、スクールカーストの上位になるなんて、最初から無理だったのよ。
 クラス委員に選ばれたのだって、本当に思ってたの。『えー、わたし?』って。本当はプレッシャーで吐きそうだった。あのあと、わたしトイレにいったの覚えてる?本当に吐いてたのよ。バカみたいでしょ。
 できもしないことやろうとするから、そういう目に遭うのよ」
 自嘲気味にいって、御木元はふたたび黙り込んだ。
 そんな彼女になにもいってあげられない自分が、城ヶ崎は情けなかった。
 御木元とは、特に親しいわけではない。むしろ、自分と違って自信があるそぶりの御木元を、遠く感じていた。
——わたしなんて、大好きな絵だって自信がないのに……。
 城ヶ崎はたくさんの絵を描いてきた。しかしそれは現実から目を逸らすためで、いくら描いても自信になどつながらなかった。
 御木元は、変わろうと努力した。少なくとも、変わろうと思った。それを嗤うのは違うと思った。
 しかし城ヶ崎は、それを伝える言葉を自分の中に見つけることができずにいた。
「ごめんね、城ヶ崎さん。体育祭の絵のこと、わたしが勝手に押しつけちゃったよね。モブコのくせに、えらそうに。迷惑だったよね、一方的に描いてよなんていっちゃって」
 違う、と思った。
 こんなときにどんな言葉をかければいいかはわからない。
 だけど、それは違う。それだけは違う。
 だからそれを、そのまま言葉にした。
「違うの……」
 御木元は相変わらず光を失った目のまま、訝しげに顔を上げた。
「絵のことは、うれしかったの。わた……、わたし、絵は好きだけど、お母さん以外に褒められてことなくて。あ、でも、お母さんに褒められたのもずっと昔のことで。だから、御木元さんに、絵上手いから描いてっていわれて、ほんとはすごくうれしくって。
 御木元さんが陽キャのふりしてくれてなかったら、そんな機会もなかったから、御木元さんが陽キャのふりしててくれてよかったなって……、思って…………」
 勢いにまかせていった言葉は、尻すぼみになって消えた。
 やっぱり、思ったことの半分も伝えられない。
 伝えたかった。
 絵を描けと、絵を描いていいといわれてどれだけうれしかったか。
 無価値と思っていた自分の絵に価値を見出してくれたことにどれだけ感謝しているかを、それに応えようとどれだけがんばっているかを。
 ふいに、御木元が笑った。
「陽キャのふりって」
「あ、ご、ごめんなさい……」
 背の高い城ヶ崎が、みるみる縮んでいくように思えた。
「ううん、じゃあ、わたしの陽キャのふりも少しは役に立てたんだ」
 城ヶ崎は返事の代わりに、小刻みにうなずいた。
 何度も、何度も。
 房になった髪が、弾むように上下した。
 その様子に、御木元はまた笑った。
 アイプチが取れていることも、頬にファンデーションの筋がついていることも、気にならなかった。
「ちょっと借りるね」
 そういって差し出されたままのハンカチを受け取り、目に押し当てた。
「やっばい、マスカラ全部取れちゃった」
 もう一度ハンカチで目をこすると、御木元はスカートのホコリをはたいて立ち上がった。
「城ヶ崎さん」
「はい」
「今日のことは、なかったことだから」
 そういう御木元の顔は、城ヶ崎が知っている自信に満ちた顔だった。
「ここでのことを誰かにしゃべったら、絶対許さないから」
 城ヶ崎よりはるかに背が低いはずの御木元が、やけに大きく見えた。
「はい……」
 城ヶ崎は見上げられているのに、見下ろされているかのように感じた。
「それと、あなたの絵を悪くいうような人がいたら、わたしが絶対許さないから」
「うん」
 握りしめたハンカチは、御木元の体温をうつしてほんのりとあたたかくなっていた。


18 すげえって思った

 校舎内に親がいる様子には、いつだって違和感しかない。
 高校生のみならず、中学生も小学生も同じような感覚を抱くものだ。ただ小学生の場合には、それが異様に高いテンションとなって表現されるのだが。
 それでも小学生も5年生や6年生ともなれば、親が学校に来ているからといって素直にはしゃいでみせたりすることはなくなり、授業参観はかえって妙な緊張感に包まれることになる。
 ハルユキの高校では授業参観こそなかったものの、入学直後から保護者、生徒、教師の三者面談が始まり、おおよそ一学期のあいだに終わる。
 だからその期間中はポツリポツリと親の姿を校内で見かけることがある。
 自分が親と一緒にいるところを誰かに見られるのは気恥ずかしくもあり、一方で誰かが親と一緒にいる様子を見るのはおもしろくもあった。
 仲よさげな親子、気まずそうな親子、似ている親子、似ていない親子、それぞれの親子模様が見てとれた。
 中には親の都合がつかない家もあったが、その場合には生徒と教師の二者面談となる。実際、仕事の都合がつかない家も少なくなかったし、「もう高校生なんだから」あるいは「まだ1年生なんだから」と積極的に面談を回避する親も多かった。
 ハルユキの親もそんな親の一人で、面談にはハルユキだけが出席することになった。この時期の面談は「高校生活には慣れたか」「困っていることはないか」「だいたいの進路の希望は」という大雑把なもので、ハルユキとしては親に「特になにもないから来なくていい」といっておいたのだった。
 自分一人が「もう少し積極的にクラスメートと交流するように」といわれるならともかく、それが親の耳に入って事態がややこしくなるのは避けたい。
 案の定、担任からそういった話をされ、親を来させないでよかったと胸を撫で下ろしているところだった。
——それも仕事だってのはわかるけどさ。
 担任がしたその指摘はまったくの正論で反駁の余地もない。しかしその指摘が正鵠を射たものであればあるほど、当の正鵠としてはたまったものではないのだった。
——別に問題起こしてるわけじゃないんだし、誰にも迷惑かけてないんだからいいじゃないか。
 そう思っておぼろげなクラスメートたちの顔を思い浮かべると、少しだけ苦い思いがした。それが嘘であることは、ハルユキ自身がいちばんよくわかっていたからだ。
 ハルユキがしゃべろうとしないことで、クラスの輪にはわずかなほころびがある。ハルユキが合唱に参加しないことで、クラスという器には微細なひび割れがある。
 そのひび割れはクラスの個性、すなわち器の模様のようなもので、よくよく目を凝らしてみなければわからないほどだ。
 しかし目に見えないひび割れからも少しずつ水は漏れる。
 表面上は何事もないように見えるクラスでも、いざ応援歌の練習という液体を注いでみれば中身はじわじわと漏れ出して、いつまでも満たされることはないのだった。
——そんなの、オレのせいじゃない。
 十分に自分のせいであることを自覚しながら、ハルユキは面談室から教室に戻った。
 するとそこに、城ヶ崎がいた。
 西日の差す教室で、城ヶ崎は一人スケッチブックに向かっていた。
 ハルユキから見たその様子は、「向かっていた」というよりも「戦っていた」といった方がふさわしいような様相だった。
——絵って、こんなふうにして描くものなのか?
 ハルユキが教室に入って来たことに気づかずに鉛筆を動かす城ヶ崎は、まるでスケッチブックに宿るなにかを組み伏せようとしているようにも見えた。
 城ヶ崎が手を動かすたび、鉛筆の先が紙面を走る音がする。それはスキーが雪原にカーブを切る音にも、かんなが木を削る音にも聞こえた。
 魂を削り出している——ふとそんな言葉がハルユキの頭をよぎった。
 城ヶ崎のその様子を見るまで、ハルユキは絵は紙の上に描くものだと思っていた。しかし、あれは違う。
 なにもない白い紙の上に、ハルユキには見えない魂の形を削り出している。城ヶ崎の後ろ姿越しには絵の一部しか見えなかったが、そうとしか思えなかった。
 ハルユキに気づかず描き続ける城ヶ崎は息を詰めているのか、ときどき大きく吐息を漏らしていた。
 窓から射し込む光を受け空気がキラキラときらめく中で、ハルユキの目には城ヶ崎の姿が神聖なものに見えた。
「瀬下くん……」
 ようやく気づいた城ヶ崎に名前を呼ばれ、驚いたのはハルユキの方だった。それくらい、城ヶ崎の姿に、城ヶ崎の絵に魅了されてしまっていた。
 だから、自分の声を隠すことも忘れてついいってしまった。
「すごいな、それ」
 まるで夢から覚めたような顔をしている城ヶ崎は、「なんのこと?」という表情でスケッチブックに目をやり、ただでさえ大きな目を見開くと、ガバッとスケッチブックの上に覆いかぶさった。
「あ、ごめん……」
 ハルユキは慌てていった。つい見とれてしまっていたが、形としては城ヶ崎の絵を盗み見ていたことになる。
「ううん……」
 そういってゆっくりとのぞかせた城ヶ崎の顔は、耳まで真っ赤になっていた。
「普通に入って来たんだけど、城ヶ崎、ぜんぜん気づかなくて」
「ううん、いいの。驚いただけ」
 真っ赤だった顔色は少し落ち着いたようだが、耳はまだ赤いままだった。
「城ヶ崎も、面談?」
「うん、そうなんだけど……、たぶんもう来ないと思う」
 来ないというのは、おそらく城ヶ崎の親のことだろう。
 その言葉にハルユキが時計を見ると、すでに面談予定の最後の時間は過ぎてしまっていた。
 城ヶ崎の様子がやけに寂しそうに見えて、ハルユキは慌てて話題を戻した。
「それ、体育祭の絵?」
「うん」
「下描き?」
「下描きっていうか、コンペに提出する用の。金曜日、締切だから」
 今日が水曜日だから、締切は明後日ということになる。となれば、もうだいぶ完成に近づいているはずだ。
 そう思うと、ハルユキはどうしても城ヶ崎が描いていた絵が見たくなった。
「見せてもらってもいいかな?」
 城ヶ崎は少しのあいだ目を伏せて、逡巡している様子を見せた。
 しかし一度唇を固く引き結ぶと、彼女は「うん」とうなずいた。
 その表情とは裏腹におずおずと差し出されたスケッチブックを開いて、ハルユキは「おぉ」とも「うぅ」ともつかない声を漏らした。
 女神、としかいいようのない女性像が、そこに立っていた。
 真っ白いローブをまとい、ゆるやかに両手を広げたその姿は、まさに女神だった。
 文具店で城ヶ崎が「女神を描こうと思って」と話しているのを聞いたとき、ハルユキはなんとなくもっと勇ましいものを想像していた。剣や鎧を身に着け、戦いに赴くような女神を。
——だって、女神っていったら普通そうだろ?
 ハルユキの「普通」がやけに偏っているのは、多分にゲームに登場する女神の影響だった。
 ゲームの世界では、だいたいの女神は戦乙女で、ワルキューレであったりもする。
 しかし、こうして見るとこれはまさしく女神だ。
 すべてを包みこむような慈愛に満ちた表情をしながら、それでいてその目には強い力が宿っている。
 ハルユキは応援席の後ろに立てかけられた女神の絵を想像した。白組の生徒たちを包み込むように両手を広げる女神……。
 そうか、この腕の角度は応援席の生徒たちを右から左まで包み込むようになっているんだ。
「すげえ……」
 知らず、声にしていた。
 その瞬間だけは、自分の声の高さも忘れていた。
「ほんと?」
 それを聞いた城ヶ崎は、ただでさえ大きな目を見開いていた。
「ほんとに、そう思う?」
「うん」
——おまえくらい絵が上手けりゃ、飽きるほど褒められてるだろうに。
 城ヶ崎はまるで生まれて初めて褒められたかのように、顔をクシャクシャにして喜んでいた。
「すごいよ。オレ、絵なんてわからないけど、この絵はなんか、すげえって思った」
 我ながら、稚拙な感想だった。
 構図がどうたら、曲線がなんたらと、喜ぶ城ヶ崎に具体的に伝えてやりたかったが、あいにくハルユキにはそんなことはなにひとつわからなかった。
 しかし、とにかく「すげえ」と思った。それだけは伝えたかった。
「なんか、オレ、絵とかぜんぜんわからないんだけど、この絵はすげえ。ハエ叩きでぶっ叩かれたハエみたいな気分になった」
「それ、褒めてるの?」
 城ヶ崎の大きな瞳が、ハルユキの顔をのぞき込んだ。
 失敗だった。
 人の絵を褒めるのに、ハエとは。
「いや、ハエって自分がハエ叩きでぶっ叩かれるとは思ってないじゃん?そこに急に、なんかわからないけどデカいものでぶっ叩かれたら、とんでもなく驚くじゃんか。だから、そんな感じと思って」
 自分のバカさ加減を呪いながら、ハルユキは説明を試みた。
 その必死な様子に、城ヶ崎は笑った。
「そうだね、ありがとう」
 いいながら、口とお腹を押さえる。
「いやほんと、褒めてるんだって。城ヶ崎の絵、すごいって」
 いえばいうほど、城ヶ崎は身をよじって笑った。
——コイツ、こんなによく笑うんだ……。
 ハルユキは、彼女が笑う様子を意外に思った。ハルユキが知っている城ヶ崎は、いつも自信なさげな様子で、その長身にもかかわらず、これが「儚い」ということかとハルユキに思わせていた。
——暗い奴かと思ってたけど、そうでもないんだな。
 身体を2つに折って笑う城ヶ崎を見ながら、ハルユキは思った。
——実は、結構いい奴だったりして。
 ハルユキの声を気にせず、少なくとも気にした様子を見せず、楽しそうに笑う城ヶ崎を見て、そう思った。
 ハルユキは高校入学以来初めて肩の力が抜けたような気がした。
「あーら、楽しそうじゃない」という背後からの声を聞くまでは。


19 あなた、なんなの?

「あーら、楽しそうじゃない」
 教室の入口から届いたその声に、ハルユキは聞き覚えがあった。
 少し鼻にかかったような、なんとなく媚びるような、それでいてどこか人を小ばかにしたようなその声。
 校舎内に親がいる様子には、いつだって違和感しかない。
 違和感しかないが、それにしても、そこに立っていたのは違和感の塊だった。
 赤過ぎる口紅、だらしなく着たスーツ、髪型はただ乱れているのかそのようにセットしているのか判別がつかない。
 ここが学校でなくても、こんな大人はハルユキの知る世界には違和感の塊でしかなかった。
 こんな大人が馴染む世界があるとすれば、それは夜の街くらいしかハルユキには想像がつかなかった。
「お母さん……」
 さっきまでの笑顔が嘘のように消えて、またいつもの自信なげな城ヶ崎の姿が戻ってきていた。
「アユミはいつも男の子と仲が良くていいわね」
 そういいながら歩いてくる城ヶ崎の母親の目は、こちらを見てはいなかった。その目はふらふらと教室の中をさまよい、娘を直視するのを避けているようにも見えた。
 それでも机2、3個分の距離まで近づくと、その目はハルユキを認めた。
「あら、このあいだの子じゃない」
 そしてしばし舐めるようにハルユキを頭から爪先まで眺めると、聞こえるか聞こえないかの大きさで、「ふんっ」と鼻を鳴らした。
「気をつけてね。アユミ、すぐ男の子と仲良くなっちゃうから」
 気をつける?なにをだ?なにをいってるんだ、この人は?
「お母さん……」
 城ヶ崎は抗議の声を上げたが、それは台風の中のロウソクに等しかった。
「で、なに?せっかくお母さんが来てあげたのに、あんたは迎えにも来ずにまた絵なんか描いてるわけ?お母さん方向音痴なの知ってるでしょう。初めての場所に来たら、迷っちゃうわよ」
——そりゃあ、迷うだろうよ。それだけ酒のにおいプンプンさせてりゃ。
 ハルユキは思った。
 城ヶ崎の母親の様子は、酩酊といってよかった。
 その証拠に、声の大きさに抑制が効いていないし、若干だが呂律もあやしい。
「そんな下手な絵描いてたってなんにもならないんだから、家の手伝いするか、バイトでもしなさいよ」
 城ヶ崎はハルユキの目の前で消え入りそうになっていた。実際、西日に照らされた彼女の長い髪は透けて、そのまま消えてしまいそうに見えた。
 それは母親の存在そのものも原因だったろうし、こんな様子で学校に現れるような母親をクラスメートに知られてしまったこともそうだろう。
 あの文具店のような外でならまだしも、学校という誰もが親の存在を忘れ去っている場所で、こんな形で母親の姿を見られてしまうなんて。
 もう、城ヶ崎の心は考えることも感じることもやめていた。
 考えることも感じることもやめてしまえば、なんでもない。
 絵を描くことも、やめてしまおう。
 体育祭のボードは、みんなに謝ってやめさせてもらおう。
 きっとみんな、お母さんと同じで、本気でわたしの絵に期待なんてしていない……。
「ほら、とっとと片付けて。面談あるんでしょ」
「うん……」
 城ヶ崎のその言葉を聞いた瞬間、ハルユキの中でなにかが音を立てた気がした。
——違うだろ。下手な絵って、それは違うだろ。そんなの認めちゃダメだろ。
「下手じゃないと思います」
 それでも大人に、しかも酔った大人に真正面から抗議などしたことのないハルユキにとっては、それをいうのが精一杯だった。
「ああん?」
 城ヶ崎の母親は、睨めつけるようにハルユキを見た。
「あなた、絵の先生かなにかなの?こんな絵描いてても、なんの役にも立たないでしょう。バカみたいなお絵描きなんかしてる暇あったら、子供は勉強か家の手伝いしてりゃいいのよ」
 それも違う。
 少なくともハルユキにとっては、こんな絵は見たことがなかった。
 白い紙に鉛筆一本で描かれているのに、まるで光を放っているかのように見える絵なんて。
 だけど、なんていえばいい?
 城ヶ崎の絵はすごいんだって、絵を見て感動したことなんてない自分が初めてビックリしたほどの絵なんだって、なんていって伝えればいい?
「高校生にもなってお絵描きなんかしてないで、もうちょっとためになることしなさいよ。高校の授業料だって、タダじゃないんだから」
——このババア……。
 城ヶ崎の母親の顔を見れば見るほど、身体の芯の温度が上がる気がした。
——そうじゃないだろ。
 握りしめた拳の中で、爪が突き刺さるのがわかった。
——そんなの、親が子供にいうセリフじゃないだろ。
 ハルユキは大きく息を吸い込み、身体のどこか奥深くにある熱を冷まそうとした。
 冷静になれ。オレがしゃしゃり出たって、他所様の親子関係なんて変わりゃしないんだ。
 そう思い込もうとしたが、肺まで届いた息は逆に熱を帯び、熱せられた言葉がハルユキの口をついて出ようとした。
 それよりほんの一瞬だけ早く、先ほど城ヶ崎の母親が入って来た入口から別の声がした。
「そんな言い方、ないと思います」
 ハルユキが、そしてわずかに遅れて城ヶ崎の母親が声の方を見る。城ヶ崎本人は視線を床に落としたまま動けずにいた。
「城ヶ崎さんの絵、すごく上手いです。だから体育祭で応援席に飾る絵もお願いしました。城ヶ崎さんの絵がなんの役にも立たないなんてこと、ないと思います」
 断固とした足取りで近づいてくるその人影は、御木元ノブコだった。
「なにそれ?体育祭の絵なんて、聞いてないわよ?」
 いうなり、母親は娘を目の隅で睨んだ。
 その眼差しに射抜かれたかのように、城ヶ崎は椅子の上で身を固くした。
「あなた、なんなの?」
 御木元の闖入に少しばかりうろたえながら、城ヶ崎の母親がいった。
「このクラスのクラス委員です。城ヶ崎さんの絵を見ながら、わたしたちはみんなでひとつの曲を歌うんです」
「こんなちっちゃい絵飾ったって、見えないでしょう」
 城ヶ崎の母親はせせら笑うようにいった。
——コイツ、なにもわかってない。
 体育祭で応援席の後ろに大きな絵を飾るのは、この高校の伝統だ。この絵を撮影に来るアマチュアカメラマンもいるという。
 ハルユキ自身も入学してから知ったことだが、保護者へのお知らせにだって書いてある。それは生徒を通じて配布されるプリントだけでなく、保護者連絡用のメールにも書いてあったはずだ。
——なにも見てないんじゃないか。
 そう思ったとき、ハルユキはひとつの事実に気づいて愕然とした。
——この人、城ヶ崎のことを見ていないんだ……。


20 だから、一人じゃありませんよ

 城ヶ崎の母親が部屋に入って来たときから、なんとなく違和感を覚えていた。
 しかしそれは、学校に親がいるというあたりまえの違和感で、その親がやけにケバケバしい服装であるという当然の違和感で、その服の中から酒のにおいがしてくるというもっともな違和感のはずだった。
 だけど、なにか違う。
 それだけなら、大人としておかしいというだけですむ。
 しかしどこか、まだなにかがおかしいと、ハルユキはぼんやりと感じていた。
 それが、「見ていない」という自分の言葉で鮮明になった。
——この母親は、自分の娘のことを見ていない……。
 それは教室に入って来てからの視線でもあったし、おそらくは「意識を置く」という意味でもそうだ。
 教室に入って来てから、城ヶ崎の母親はやけにくねくねと視線をさまよわせていた。
 親が教室に来ることなど滅多にないから、そこらにあるものに目をやるのはめずらしいことではない。自分たちの時代にはなかったものや、その当時から変わらずにあるものなど、興味を引くものもあるだろう。
 ましてや城ヶ崎の母親は酒が入っている。視線が落ち着かないのもわからなくはない。
 わからないのは、さまよう視線が確実に自分の娘を避けているということだ。
 その視線が物理的なものばかりとは、ハルユキには思えなかった。
——だから、城ヶ崎の絵が上手いかどうかもわからないんだ。
 御木元と対峙する後ろ姿に、ハルユキはふたたび拳を握りしめた。
「絵は大きなボードにして応援席の後ろに飾るんです。その大きさのままじゃありません」
「はあ?そんなバカバカしいことに娘の時間取らせないでくれる?」
「バカバカしくなんてないです」
「バカバカしいでしょう。そんなことやるくらいなら、もっと役に立つことしなさいよ。だいたい進学校じゃこんな無駄なことやってないで勉強してるでしょ。たいしてレベルの高くない学校なんだから、こんなことしてる暇ないわよ」
 御木元は城ヶ崎の母親を向こうにまわして、一歩も退く気配がない。
 しかし、相手は大人で、しかも酔って舌が滑らかになっている。一高校生が敵う相手ではなかった。ドアの向こうには身を隠すように何人か生徒の姿が見えたが、それが支えになるとは、到底思えなかった。
 実のところ御木元は、せいぜい両足を踏ん張って、崩れ落ちてしまわないようにするのが精一杯だった。
 口が渇く、舌がもつれる。上履きの中では足の指が、これ以上ないほど丸められていた。
 城ヶ崎のことを悪くいわれて、思わず割って入っていた。しかし、その勢いももう限界だ。心はとっくに根をあげている。
 そのとき、教室のもう一方のドアが開いた。
 みんなが、それこそ城ヶ崎の母親も、ドアの陰に隠れていた生徒たちも含めてみんながそちらを振り向いた。
 そこに立っていたのは、国語の担当であり、このクラスの担任でもある老教師だった。
「城ヶ崎さんのお母さんですね?」
 老眼鏡の上からのぞき込むようにして、その教師はいった。後ろに女子生徒を一人従えているところを見ると、彼女が呼びに行ったのだろう。
 大人の相手をするのに教師の登場はありがたかったが、腰の曲がったその姿は酔った母親の前ではそれでもやはり頼りなく見えた。
「そうですけど?」
 御木元との勢いそのままに、険のある物言いで母親は老教師に顔を向けた。
「わたくし、城ヶ崎さんのクラスの担任をしております藤巻と申します」
「担任の先生ですか。このクラス、どうなってるんですか」
「どうなってる、とおっしゃいますと?」
 担任はこの状況を理解しているのかいないのか、呑気に答えた。
「うちの娘に体育祭だかなんだかの絵を描かせて、時間を無駄にさせてるんですよ。それを注意したら今度はわたしに食ってかかるんです」
「ほう?」
「ほう、じゃないでしょ。担任なら注意してくださいよ。娘一人に押しつけるなんて、可哀想じゃないですか」
「えーと」
 老教師ののんびりした態度に、城ヶ崎の母親はイライラして鼻を鳴らした。
——だめだ、頼りにならない……。
 ただでさえ、授業中に起きてるんだか寝てるんだかわからないような教師だ。こっちがわざと声を潰して朗読しても気にかける様子もない。そんな教師がこの酔っ払いの相手になるわけがない。
 ハルユキがそう思ったときだった。
「一人じゃありませんよ」老教師はいった。「娘さん、アユミさんの描いた絵はこのあとみんなで大きなボードに描き写すんです。そりゃもう、クラス総出でね。だから一人で描くなんてことはありませんよ。
 いま描いてもらってるのはその下絵です。下絵を描けるのはアユミさんしかいないからと、みんなでお願いしたんですよ。アユミさんの絵にはそれだけの力があって、アユミさんにはそれだけの才能があるということでしょう。みんなでお願いした以上、みんなで協力します。
 だから、一人じゃありませんよ」
 ゆっくりと、しかしあの母親ですら口を挟めない断固とした様子で、老教師はいった。
「でも、そんなの、みんなでやったって時間の無駄でしょう。みんなでやれば、みんなの時間の無駄だわ。絵なんか描いたって、将来の役になんか立たないでしょう」
「昔の教え子に、ゲームばっかりやってる子がいましてね」老教師は続けた。「親御さんもわたしも、ゲームばっかりやってないでって、よく説教したものですよ。ところが本人は一向に聞く耳を持たなくて、学校にまで携帯ゲーム機を持ち込んで遊んでました」
 当時を懐かしむように目を閉じた隙に、母親がいった。
「それで、その子はゲーム制作者になったとかなんとか、そういうお話でしょう?そういうの、いいですから」
「いや、その子はゲーム制作者にはなりませんでしたよ」
「は?じゃあ、なんで……」
「その子はコンピュータ関係の製造業の会社に入って、いまでは三人の子供の父親です。子供たちはスポーツ選手になりたいとか、歌手になりたいとか、いろいろいってるそうですが、彼はなにひとつ否定せずに応援してあげているそうです。自分は好きなことをやって好きなことを見つけられたからだって。立派な父親じゃないですか。
 はたから見れば無駄なことでも、なにが本人の人生にプラスになるかなんて、わかったもんじゃありません。アユミさんが絵の道に進まなかったとしても、それが無駄になるとはわたしは思いません」
「でも、学校なんだから、もっと勉強に時間を割くべきじゃありませんか。それに、親子の話に他所よその子供が口を挟むなんて、失礼ですよ」
「たいしてレベルの高くない学校なんですから、そのぶん生徒にいろいろやらせてあげたらいいじゃないですか。ひととおりの勉強じゃ見つけられなかった才能が見つかるかも知れませんよ。それにね……」
 老人特有の長い眉毛の下から、老教師の双眸が母親の目を見据えた。
「その生徒たちの教室に酒くせえ息で入って来る大人の方がよっぽど失礼だって話ですよ」
 老教師がそういった瞬間だけ、まるで周囲の明かりが消えたように感じられた。傾いた陽が教室の中までオレンジ色に染めているにもかかわらず。
 腰は曲がったままだ。それを伸ばしたとしても、小柄であることに変わりはないだろう。それなのに、場の支配権は完全に老教師が握っている。ハルユキにはそう感じられた。
「な、なによ。そんなこといって、教育委員会に……」
「わたし、今年で定年なのでね。それこそ無駄だと思いますよ」
 はたして城ヶ崎の母親が教育委員会に訴え出る手続きを知っているかどうかすらあやしかったが、それでも老教師の言葉はダメ押しだった。
「まあ、お酒飲んでの失敗なんてよくあることですから、一度お酒抜いてからまた来てください」
 にこやかにいう老教師に、母親は「ふんっ」と鼻を鳴らすと、「アユミ、お母さん先に帰ってるから」と教室を出て行った。
 母親本人は「足音荒く」といきたいところだったろうが、来客用のスリッパはペタペタと情けない音を立てるばかりで、それも廊下の角を曲がると聞こえなくなった。


21 その判断が間違っていたとしても

 そこにいた誰もが詰めていた息を吐き出すのと、御木元がぺたりと座り込むのとはほとんど同時だった。
 座り込んだ御木元の方に行けばいいのか、それとも椅子の上で縮こまっている城ヶ崎の方に行けばいいのかみんなが迷っている一瞬に、城ヶ崎が御木元に駆け寄った。
「ごめんなさい、御木元さん。ごめんなさい」
 それがなにに対する「ごめんなさい」なのか、城ヶ崎本人にもよくわからなかった。
 母親の数々の言葉のことか、自分の代わりに御木元に母親と対峙させてしまったことか、あるいはあの母親の存在そのものか……。もしかしたら、自分の存在に対してだったのかも知れない。
「こ、こわかった……」
 自分に抱きついている城ヶ崎の肩越しに窓の外を見つめながら、放心したように御木元がいった。
 夕陽に照らされていても、その顔が血の気を失っているのがわかる。
「すごいじゃん、御木元さん。かっこよかったよ」
「さっすが、クラス委員」
「やばい、わたし惚れそう」
 口々にいいながら、女子たちが御木元と城ヶ崎のまわりに腰を下ろす。まるでもっと近くに、もっと同じ高さの目線でいたいというように。
 その声に、城ヶ崎は聞き覚えがあった。
——体育倉庫の裏で話してた子たちだ……。
 まだ呆然としている御木元は気づいていないようだったが、その子たちの言葉にはあのときのような揶揄する調子は含まれていなかった。
 その口調にはまるでアスリートを称賛するような響きがあった。新記録を出した陸上選手、最後のバッターを三振に打ち取った投手、試合終了間際に逆転のゴールを決めたバスケット選手……。
 実際には決勝点を決めたのではないにしても、担任という切り札が到着するまで、御木元は城ヶ崎を守り抜いたのだ。彼女たちの称賛は決して裏表のあるものではなかった。
 しかしその称賛を集めた事象は、それで終わりという類いのものではなかった。
 なにしろ、その相手は城ヶ崎にとっては母親なのだ。
 御木元をはじめとする生徒たちは、ここであの酒臭い大人を撃退すればそれですむ。しかし、城ヶ崎本人にとってはそれで終わりではない。
 家に帰れば母親がいる。城ヶ崎から家庭の事情を聞いたことなどなくても、どんな家庭かおおよその見当はついてしまう。
 そのことに思い至って、御木元の目がにわかに焦点を結んだ。
「城ヶ崎さん、今日うち泊まる?」
 御木元の言葉には、それだけで伝わる勢いと切迫があった。
「ううん、大丈夫。お母さん、いつもあんなふうなわけじゃないし……」
「お父さんは?」
 誰かが、おずおずと訊いた。
「うち、お父さんいなくて」
 城ヶ崎の言葉に、みんなが担任を振り仰いだ。
「児童相談所があります」
 放たれた言葉に、御木元が気色ばんだ。
——それをいうの?いま、この状況の城ヶ崎さんに?
 しかし、御木元が抗議の声を上げるより早く、老教師は言葉を継いでいた。
「ですが、児童相談所が動いてくれるのを待たなくたっていいんです。そこにいられないと思ったら、どこへだっていいんです、いつでも場所を移しなさい。もし頼れる人がいたら、その人のところへ一目散に駆け込みなさい」
——学校に相談しろとか、わたしにいいなさいとか、いわないんだ……。
 かえってそれが、御木元には信頼に足る態度のように思えた。
「大人だって、上手に立ち回れないときもあります。お母さんは、もしそうできるなら、落ち着いたらまた学校に来るなり、連絡してくれれば結構です。
 しかし、城ヶ崎さんはまだ高校生です。その判断が間違っていたとしても構いません。すぐに行動しなさい」
 中学生のとき、教師たちはいったものだ。「困ったことがあったら、先生に相談しなさい」
 御木元自身はいじめられてはいなかったものの、イジメの相談をした生徒たちがどういう扱いを受けたかは知っている。
「ふざけてただけじゃないかな?」「悪気はなかったんじゃないかな?」「あなたにも反省すべき点はあったんじゃないかな?」
 そんな言葉で壁に、床に、廊下に塗り込められていく悲鳴たち……。
——この先生なら、きっとそんなこといわないんだろうな。
 現にこの教師は、逃げろといっている。決して「ひどい母親だ」とか、「君はかわいそうだ」などと決めつけているわけではない。ただ、「もし耐えられない状況にあるなら、逃げろ」といっている。
 それが正解とも、最善ともいっていない。自分にそれをはね除ける力がないのなら、いったん断ち切れといっているのだ。
 ああ、そうか。と御木元は思った。配信でホラー映画を観ているときと同じなんだ。
 そのホラー映画が怖くて怖くて仕方ないなら、一時停止ボタンを押せばいいんだ。そこでいったん立ち止まって、落ち着いてから再開するなり、それきりにするなりすればいい。無理をして最後まで付き合う必要はないんだ。
 この場にふさわしくないおかしな連想に、御木元は我ながらくだらなくて笑ってしまった。
「ほんとに大丈夫?」
「うん、それよりみんなに……、迷惑をかけてしまって……」
 城ヶ崎はうなだれた。
「そんなことないよ」
「むしろわたしがお母さん怒らせちゃったんじゃないかって、そっちの方が心配」
 周囲の女子たちが次々と声を上げる。
「もし、ホントにもしだよ、家にいるのヤバいって思ったら、わたしたちに連絡して」
「いつでもうちに来て」
「何時でもいいから電話して」
「うち、今年からお兄ちゃんが独り暮らし始めたから、部屋空いてるし」
 うん、とうなずいた城ヶ崎が、ふいにハルユキを振り向いた。
「瀬下くんも、ありがとう」
 思いもよらぬ言葉に、ハルユキはうろたえた。
「いや、オレはなにも……」
——なにもできなかった……。
 城ヶ崎の母親に対して雄々しく立ち向かった御木元にも、その後のケアまで考えてくれた担任にも遠く及ばず、状況を見守っていることしかできなかった。
 その点ではまわりで見ていた他の生徒と変わりはなかったが、それでもことの始まりからその場にいたのは自分だった。
 にもかかわらず。
——なんにも、できなかった……。
「瀬下くんがいてくれなかったら、わたし、ダメだったと思う……」
「ダメってなにが?」とハルユキが思っているあいだにも、御木元が怪訝な顔を向けてきた。
 その表情に気づいて、城ヶ崎が慌てて言葉を継ぐ。
「お母さんが来たとき、たまたま瀬下くんがいてくれて、わたしの絵が下手じゃないっていってくれて。そこに、御木元さんたちが来てくれたの」
 ハルユキが目を向けると、そこには御木元をはじめとして驚いたような顔が並んでいた。
 様々なバリエーションを見せるそれは、しかし、「アンタ、そういうこというんだ」という共通因数でくくられていた。
 しゃべらない奴、人と交わらない奴、そんな定数項に新しい変数が加わって、クラスメートたちの目はハルユキのことを量り直しているように見えた。
「オレはなにも……」
 繰り返すその言葉は、先ほどの緊張を引きずっているのか、上手く押し殺すことができずに教室の中に凛と響いた。
——オレって、最低だ……。
 自らの耳朶を打つその甲高い声に、ハルユキは嫌というほど自分を意識してしまい、そんな自分が嫌になった。
——みんな、本気で城ヶ崎のことを心配してるのに……。
 なのに自分は、自分の素の声がみんなに聞かれてしまったことを気にしている。そんな自分が、なによりも嫌だった。
 ところが。
「そうなんだ、ありがとう」
 御木元が発した言葉は、ハルユキを大いに揺り動かした。
——なんでおまえが礼をいうんだよ。
「瀬下くんがいてくれたんだ。ありがとう」
「すげー。瀬下っち、MVPじゃん」
——誰だ、その瀬下っちっていうのは?
 緊張から解き放されたせいもあったのだろうが、それでも口々に礼をいう言葉に嘘はなかった。
 それに耐えられなくなったハルユキは、とっさに担任に話を振った。
「先生、さっきの話、本当ですか?」
 その声はまだいつものようには潰せていなかった。
「さっきの話?」
「ゲームばっかりやってた人がって……」
「ああ、あれは半分くらい嘘です」
 ハルユキの不自然な声など、老教師のその言葉で吹き飛んでしまった。
——嘘?あれが?
 じゃあこの教師は、城ヶ崎を守るためにとっさに嘘をついたのか?
「なあんだ」
 誰かがいい、続いて笑い声が起こった。
「先生、やるぅ」
「うまくいき過ぎだよな」
 そんな声が、あちこちから上がった。
 そうだ。
 高校生ともなれば、現実がそんなに甘くないことは知っている。
 知ってしまっている。
 がんばったからって、報われるわけじゃない。
 好きなことを続けていたからって、ものになるわけじゃない。
 そんなことを、もうわかってしまっている。
 だから、なにに対してもそんなに熱くなれない。
 ハルユキ自身もそうだった。
 ハルユキは、なにかに打ち込んだことのない自分を知っていた。
 城ヶ崎のように、誰かがそばにいることにすら気づかないほど、我を忘れるほど、なにかに熱中したことがない。
 だから、そんな城ヶ崎が眩しく見えた。
「ゲーム会社には入ったんですよ。ただ、そのあと辞めまして」
 口には出さなかったものの、誰もが落胆しているのがわかった。
 いや、落胆というよりは諦念といった方がいいかも知れない。
 まあ、そうだよな。そんなもんだよな。
 そんなドラマみたいな話が、こんな身近に転がっているわけがない。
 しかし、老教師は続けた。
「辞めてから、自分で会社を興しましたよ。コンピュータ関連の小さな会社ですが、アメリカのNVIDIAエヌビディアとかいう会社と協力してAI用半導体を作ってるとか」
「マジか!」
 男子生徒の一人が驚いたように声を上げた。
「それってミライ・ビジョン・テクノロジーズですよね?あれ作ったの、ここの卒業生だったんですか!」
 ミライ・ビジョン・テクノロジーズの名前は、ハルユキも聞いたことがあった。
 自前の工場を持たず、設計のみに専念することによって革新的なコンピュータチップを作り出していることで有名で、ゲームから車の自動運転まで、およそあらゆる分野で使われていると、テレビで紹介されているのを見たことがある。
「すげえ、マジか……。すげえ……」
 先ほどの男子生徒は興味のある分野だったのか、いたく感動している様子だ。
——たったの2かよ……。
「六次の隔たり」と、ハルユキは思った。
 世界中の人は、すべて6ステップ以内の隔たりでつながっている。それが、「六次の隔たり」と呼ばれる仮説だ。
 たとえば直接の知り合いなら隔たりは1、知り合いの知り合い、つまりは友だちの友だちなら隔たりは2ということになる。
 ハルユキの頭に浮かんだのはその数字だ。
 老教師の話が本当なら、ハルユキとそのAI用半導体を作っている会社の社長とのあいだの隔たりはわずか2、その距離はあまりにも近い。
——こんな近くに、そんな夢を叶えた人がいるなんて。
 ハルユキはめまいがする思いだった。
 ハルユキにとってだけでなく、多くの高校生にとっては、夢を叶える人間は別世界の存在だ。
 もちろん、彼らにも夢はある。
 ユーチューバーになりたい、歌手になりたい、eスポーツの選手になりたい……。
 小学校の卒業文集に誇らしげに書かれていたその夢は、やがて色褪せ、いつの間にか痕跡だけとなり、いつしか消えかけた文字の上により現実的な言葉が書かれるようになる。
 あの大学に行きたい、この企業に就職したい、年収はこれくらい……。
 それ自体、決して悪いことではない。それはハルユキにもわかっていた。
 しかし、なんだか少しさみしいような、昨日まで本物と思って遊んでいたロボットのおもちゃが急にプラスチックの塊に見えてしまったような、そんな気がした。
——でも、もしかしたら。
 ハルユキは思った。
——城ヶ崎もそういう人間なんじゃないか?
 自分に、絵のなにがわかるわけではない。それでも、こんな近いところに夢を叶えた実例があるのなら、もう一人くらいそういう人間がいたっておかしくはない。
 そして、城ヶ崎アユミはそれにふさわしいような気がしたし、あの母親の存在を考えるにつけ、そうでなくては割に合わないような気がした。


22 陽キャのくせに

 翌朝、教室の中は昨日の話題で持ちきりだった。
 とはいえ、問題の相手が城ヶ崎の母親ということもあり、おおっぴらに侮り者あなずりものの悪口をいうわけにもいかず、それは主に城ヶ崎への応援と老教師の意外な活躍を喧伝するという形で現れた。
「わたし、城ヶ崎さんの絵をボードに写すの全力で手伝うから」
「わたしも」
 そんな会話が、城ヶ崎の机のまわりで繰り広げられていた。
 まるで、明日のコンペ提出を前にしてすでに城ヶ崎の絵が採用されることが決まっているかのようだ。
 実際、そうなのだろう。
 他のクラスからどんな絵が提出されるか知らないが、ハルユキが見たあの絵に敵うものがあるとは到底思えなかった。
 とはいえ、当の城ヶ崎はやはり居心地が悪いようで、曖昧に「うん、うん、ありがとう」と返事をするばかりだった。
 それはそうだろう。なにしろみんなの「応援してる」という薄いシャボン玉のような膜を支えているのは、「城ヶ崎さん、かわいそう」という窒息しそうな同情なのだ。
 できれば、もう触れてほしくない……。
 それが正直な気持ちなのではないかと、ハルユキは思った。
 朝、城ヶ崎が登校してくると、ハルユキはそれとなく彼女の様子をうかがった。
——怪我とか、してないよな……。
 あのあと家に帰って、酔っ払った母親が腹いせに暴力を振るったりしていないか、ハルユキはそれを心配していた。
 見たところ、顔に傷やアザなどないようで、彼女の表情もいつもと変わりなく見えたから、ハルユキはほっと胸を撫で下ろした。
 しかし、もう一方の心配は現実のものとなってしまった。
 それが、城ヶ崎を取り巻く乱暴な善意だった。
 悪気がないのはわかっている。それどころか、そこには厚意と優しさしかない。しかしそれが、向けられた人間を逆に追い込むこともある。
 ハルユキは自身の経験からそれを知っていた。
 意外だったのは、率先して善意の鎖で城ヶ崎を締め上げそうだと思っていた御木元がまったくその輪に加わっていないことだった。
 むしろ御木元は、少なくともハルユキから見る限り、その輪の外から城ヶ崎を見守っているだけだ。
 いや、城ヶ崎を見守っているというよりも、向けられる善意に城ヶ崎が傷付いてしまいやしないかと、心配しているように見える。
——だとしたら……。
 と、ハルユキは思った。
——アイツ、そうなのか。陽キャのくせに。
 ハルユキからしてみれば、御木元みたいな陽キャは人の気持ちなんか考えないで、グイグイと前進して行くものだ。
 それが悪いとは思わない。そうやってテンション高く、ウェーイとまわりを引っ張っていくのが陽キャの使命だ。
 しかし御木元は、少し違うのかも知れなかった。
 そういえば昨日、城ヶ崎の母親と対決したときにも、決して感情の赴くままという感じではなかった。さらにそのあとには、まるで腰が抜けたようになっていた。
 そんなことを考えているところへ、秋城連山のもう一方、秋山が柔道部の朝練から帰って来た。
「なに?なんの話?」
 ひそめていても遠慮なく聞こえる太い声で、秋山は御木元に訊いた。
 御木元は少し迷惑そうに説明を始めたが、その声は城ヶ崎を気遣って、誰にも聞き取れないくらいに小さかった。
 その声に合わせるようにして背中を丸めた秋山は、眉根を寄せたり目を見開いたりしていた。
 そして、大きくひとつ息をはくと、「いろいろあるんだなあ、城ヶ崎」といいながら、首から提げたタオルを広げて顔を拭いた。
 その途端、城ヶ崎を取り巻く輪がほどけた。
 城ヶ崎のまわりにいた生徒たちが、実際に位置を変えたわけではない。
 しかし明らかに、クラス全体の意識とでもいうべきものが、城ヶ崎から秋山に移っていった。
「秋山くん、それ……」
 女子生徒の一人がいった。彼女は確か、先日、秋山には彼女はいないのかと御木元に訊いていた生徒だ。
「ん?」
「そのタオルって、秋山くんの?」
 女子生徒が指さすそれは、ふわふわモコモコとしていて、いかにも吸水性の良さそうなタオルだった。
 しかし、ふわふわモコモコしているのは、その材質だけではなかった。
 手に持っているからはっきりとはしないものの、そこに描かれているのはこれまたふわふわモコモコしているウサギのイラストだった。
「うん、そうだよ」
「そ、そっかあ、可愛いタオルだね……」
 それを聞いた瞬間、秋山の顔にパッと笑顔が広がった。
「そうだろ!可愛いよな、これ!」
 まるで一本勝ちでもしたかのような秋山の笑顔とは対照的に、話しかけた女子生徒の顔はこわばっていた。
「それって、誰かからもらったりしたの……?」
 無理に笑顔を浮かべて、女子生徒はいった。
「いや、このあいだ遠征に行ったときに見つけてさ。速攻で買っちゃったんだよね」
「そうなんだ」
「うん、他にもいろいろあったんだけどさ、遠征先で飯食ったら金がなくなっちゃってさ。悩み抜いた末にこれにした」
 うれしそうに説明する秋山は、まるで彼女を押し倒しそうな勢いだったが、ふと真顔に戻って続けた。
「オレが持ってると変かな?」
「ないない、そんなこと全然ない!」
 その言葉は、秋山の迫力にいわされているようには聞こえなかった。
「いいと思う!そのタオル、すっごく可愛い」
 少なくともハルユキが見る限り、その女子生徒と秋山がこんなにたくさん言葉を交わすのは初めてだった。
 彼女には、それがうれしかったのだろう。
「そうか?そうだよな?可愛いよな?」
「うん!」
「こういうのもあるんだよなー」
 いいながら、秋山はいそいそとカバンからなにかを取り出して手首にはめた。
 それは水色とピンクのパステルカラーで彩られたリストバンドで、そこに描かれたウサギは、秋山の太い手首で引き伸ばされて得体の知れない生き物に成り果てていた。
「どう?似合う?」
 まるで少女が髪飾りを自慢するように、秋山はリストバンドを女子生徒に見せつけた。
「いや、似合ってはいないだろ……」
 どこからともなく声がした。
 秋山は虚を衝かれた顔をした。
 それを見たハルユキは思った。
——これは、怒る……。
 もし女子が「似合う?」と訊いてきたら、それに対しては「似合う」としか答えてはいけないことくらいは、ハルユキも知っていた。
 たとえそれが小学生であっても、「似合わねえよ」などといおうものなら、帰りのホームルームで吊し上げを喰らう。
 秋山相手の場合は、どうだ?
 秋山は先ほどのセリフをいったとおぼしき男子生徒の方にゆっくりと顔を向けると、渋い顔をして笑った。
「だよなあ、似合いはしないんだよな」
 その言葉で、教室中に笑いが起こった。
「でもさあ、いいんじゃない?そういうの持ってても」
「そうだね、そこまで堂々としてるといっそ清々しいよね」
「わたしもそこまで踏ん切れたらなあ」
「どういうこと?」
「わたし顔丸いからさ、ロング似合わないんだけどずっと憧れてるんだよね」
「あー、でもやる勇気はない、みたいな」
「そうそう」
 しばらく教室は、「これやりたいけど勇気がない」の告白大会になった。
 其処此処で、「えー、意外」と「でもいいじゃん」の応酬が繰り広げられ、気がつくともう誰も城ヶ崎に注意を払っている生徒はいなかった。
 もしこれが、秋山が狙ってやっていたのだとしたら……。
 ありそうもないと、偶然だろうと思いながらも、ハルユキはその可能性を完全には排除しきれないでいた。
——そういえばアイツ、廊下でぶつかったときもオレの声を気にしてないみたいだった……。
 応援歌の練習をサボろうとして御木元に咎められ、教室を飛び出した日のことをハルユキは思い出していた。
——まいったな、デカいのは背だけじゃないのかよ。


23 かまうもんか

 コンペの締切から一週間が経ち、投票が行われてみると、白組のボードは圧倒的多数の票を得て城ヶ崎の絵と決まった。
 こうして応援席の後ろに立てかけられる絵が決まると、制作は下絵を提出したクラスが担当することになる。当然そのクラスの仕事は増えることになるのだが、誰もそんなことは気にしていない。
 なにしろ自分たちが描いた絵が体育祭当日に大きく注目されるのだ。しかもその絵は多くの思い出の背景となり、卒業写真集にも必ず掲載される。
 そうなれば、張り切らない理由がない。
 それに、とクラスの誰もが思った。
——城ヶ崎さんを応援したい。
 城ヶ崎が置かれている状況は、すぐに誰もが知るところとなった。
 誰も口には出さない、言葉にはしないまでも、クラスの共通認識として確かにそれはあった。
——だから、誰が見てもすごいって思える絵にする。
 幼稚な同情であっても、それが純粋な心持ちであることに偽りはない。
 だから誰もが労を厭わず手伝った。
 下描きのための鉛筆を削る者、アクリル絵の具を混ぜ合わせる者、絵筆を洗う者、城ヶ崎のために飲み物を用意する者……。
 クラス中が、それぞれにできることを探し、できる限りのことをした。
 ハルユキもその一人だった。
 相変わらず合唱の練習は手を抜いている。できるだけ口実を見つけてサボるようにしているし、参加するにしても口パクを貫いている。
 それでも、いや、それだからこそ、他の部分ではできるだけ協力しようと思った。
 それに、なによりも絵を描いているのが城ヶ崎であることが、その気持ちに拍車をかけていた。
 城ヶ崎のことはすごいと思う。自分にはない才能を、まざまざと見せつけられた。それを素直に応援したいと思う。
 そしてあの母親だ。
 城ヶ崎の母親を前にして、なにもできなかった自分が悔しかった。それは指先に刺さった抜けない棘のように、いつまでもハルユキの心を責め続けた。
 だからいま自分を駆り立てているのは、それを取り戻そうとするケチなプライドなのかも知れなかった。
 そうするとこの気持ちは、クラスメイトの同情心や正義感よりもっとずっと薄っぺらいものなのかも知れない。
——かまうもんか。
 とも思う。
 それに、それだけではないのも正直なところだ。
 あの場で、あの酒臭い母親を前にして、一歩も退かずにいる御木元の姿を見た。
 本当はよほど無理をしていたらしく、母親がいなくなった途端に腰が抜けたように座り込んでいたが、逆にそれこそが彼女の本質を表しているようにハルユキには感じられた。
——アイツ、筋金入りじゃん……。
 ただの陽キャで、人の気持ちなんか考えず、ひたすら明るく楽しくやっている、ある意味うらやましいタイプの人間かと思ったら、そうではなかった。
 それが彼女の持っている才能なのかも知れなかったが、そのお陰でなんとも思わずあの母親と対峙できたわけではないだろう。
 むしろその才能があったからこそ、あの母親と対峙せずにはいられなくなり、怖い思いまでしたんじゃないか。
 ハルユキはそう思った。
 だから少しだけ、ほんの少しだけ、御木元の迷惑にもならないようにしようとも思ったのだった。


24 おもしろい楽器持ってるなあ

「今日は音楽科の半田先生が合唱のアドバイスをしてくれるそうなので、昼練にはできるだけ参加してください。練習は音楽室で行いますから、お昼ご飯早めに食べて集合してください」
 朝のホームルームで伝えるあいだ、御木元はずっとハルユキから目を逸らさなかった。
——やっぱりアイツ、好きになれないかも知れない……。
 先日来、少しだけ御木元に親近感を覚え始めていたハルユキだったが、こうもあからさまに「おまえのことだぞ」という目線を向けられると、その気持ちも立ち消えになりそうだった。
 それでも、時々とはいえ練習をサボっているのは事実だったし、その点言い訳はできない。
——だけどなあ……。
 体育祭の応援歌の合唱くらいで音楽科の教師が指導に来るというのは、ハルユキは勘弁してほしかった。
——だって、ただの応援歌だぜ。
 一応パートに分かれているとはいえ、それでもなんの音響効果も期待できない屋外で、体育祭の真っ最中に歌うのだ。
 それまでのあいだにも、それこそ生徒たちは声を枯らして応援するのだろう。
——そんなとこで歌ったってなあ……。
 そんなことを考えながら、ハルユキは渋々昼休みの合唱練習に参加していた。
 半田という若い音楽科の教師は、もじゃもじゃの頭を左右に振りながらピアノを演奏し、「ここはもう少しこうして……」などと生徒たちに指示をしていった。
 マッチ棒みたいだ、とハルユキは思った。
 音大のピアノ科を卒業した人間らしく、その指は驚くほど長かったが、男性にしては細い身体もその印象を強くしていた。
「当日も先生がピアノ弾いてくれたらいいのに」
 クラスの女子がいった。
 体育祭当日、合唱の伴奏は生演奏ではなく、あらかじめ録音された音源が流される。屋外にピアノを運び出すわけにはいかないからだ。
「風が吹いて大事なピアノに砂が入ったらどうするの。そんなことになったら、先生泣いてしまう」
 笑い声の中、ひととおりアドバイスをもらって、「電子ピアノだっていいのに」などと口々にいいながら、生徒たちは教室に戻ろうとした。
 そのとき、半田はハルユキを呼び止めた。
「ああ、君」
 さっきまでの楽しげな空気が、急に色を変えたのがわかった。
「君だけ、ちょっと残って」
 誰もが、「やっぱり」と思った。
 相手は音楽の教師だ。口パクなんてすぐバレる。
 そして音楽の教師は、そんなもの許さない。
 ハルユキもそれは覚悟していた。
 だから半分ひねくれた調子で、心の中で「はいはい、すいませんでした」と肩をすくめていた。
「みんながんばってるんだから」とか、「心をひとつにして」とか、もしかしたら「音楽っていうのはね」なんていううんざりするような説教がこれから始まるんだ。
 そしてその正論に対して、ハルユキはなんの反論もできない。
 ところが、誰もいなくなった音楽室で半田はいうのだった。
「君さ、音楽好きだろ?」
——なにいってんだ?嫌いじゃないけど、好きだったら歌ってるだろ。
「ちょっと、ここ歌ってみて」
 半田はやにわに鍵盤を叩いてテナーの音程を確認させると、伴奏を始めた。
 しかし、そもそもテナーの音域はハルユキの音域よりはるかに低く、出そうと思って出るものではなかった。
 それでもハルユキは、潰れた声でに近い音程で歌ってみた。
 がんばってみよう、などというつもりはさらさらない。
 ここで抵抗したって、時間の無駄だ。
 相手がなにを考えているかは知らないが、とっとと話を進めて終わりにしようと思っていたのだ。
 そのためには、とりあえず適当に声を出しておけばいい。
 はい、どうですか。こんな声です。恥ずかしいんで歌ってませんでした。すみません。今度からはちゃんと歌います。ご指導ありがとうございました。
「なるほど、こっちか」
 そんなハルユキの心中を一切無視して、半田は今度はもっとずっと高い鍵盤を叩いた。
 ハルユキは仕方なく、さっきよりは楽に出せる音程で声を発した。
 その声を聞いて、半田はいった。
「君、おもしろい楽器持ってるなあ」


25 じゃあ、いいんじゃないかな

 自分のコンプレックスをからかわれることほど、腹の立つことはない。しかも、立場を利用されてのことならなおさらだ。
——こういうの、アカハラっていうんじゃないのか。
 本来のアカデミックハラスメントはまったく違う意味だったが、それでもハルユキは胸の中でそう反抗した。それが精一杯だったからだ。
 教師相手に、「うるせえ!」だの「なんだと!」だとの言い返すだけの根性はなく、ただ自分の腹の中でグツグツと不満を煮えたぎらせるしかないのだった。
 それはおそらく顔に出てしまっていたはずだが、音楽科の半田はそんなことはまったく意に介していないようだった。
「じゃあさ、ここ出る?」
 半田は嬉々としてもっと上、もっと上と鍵盤を叩いていった。
 音程とともに半田のテンションも上がっていったが、それと相反するようにハルユキの眉間の皺は深くなっていった。
「いやあ、ありがとう」
 満面の笑みで鍵盤の蓋を閉じながら、半田はいった。
「君、おもしろい楽器持ってるよ。大事にしてね」
 それだけいって、半田は音楽室をあとにしようとした。
 取り残されそうになったハルユキは、狐につままれた気分だった。
 初めは怒られるのだろうと思った。
「どうして歌わないんだ」とか、「一生懸命やれ」とかいわれるんだろうと。
 ところが「おもしろい楽器だ」といわれて腹が立ち、あろうことか教師にからかわれるのかと身構えていたら、当の教師は「ありがとう」といって去っていこうとしているのだ。
 ハルユキは思い切り揺さぶられた気持ちをどうしていいかわからず、思わずその背中に声をかけてしまった。
「ちょっと、先生」
「ん?」
 振り返った半田は、「どうかした?」とでもいわんばかりの顔をしていた。
「終わりですか?」
「え?」
 半田はハルユキがなにをいっているのかわからない様子でしばらく黙っていたが、ようやく「ああ」というと、ハルユキに楽譜を手渡した。
「そうだった。これを渡しておかないとね」
 渡された楽譜には赤ペンでメモが書きつけてあり、それは合唱をする上での注意点のようだった。
「ごめんごめん。このまま帰ったら君が僕に怒られてたみたいに思われちゃうもんね。だからこの楽譜持って行ってもらおうと思ってたんだった」
 ということは、半田はハルユキが歌っていないことには気づいているのだ。そしてクラスの生徒たちも同様であることにも。
「怒らないんですか?」
「なんで?」
「オレ、歌ってないんですよ」
「うん、まあ、歌いたくないでしょ?」
「歌いたくはないですけど」
「じゃあ、いいんじゃないかな」
「いいんですか?」
 本当に歌わなくていいんですか?クラスの連中には、特に御木元には嫌な顔されてますけど?
「だって君、歌好きでしょ?」
 お互いに「なにをいっているんだ?」という顔で、少しのあいだハルユキと半田は見つめ合った。
——だってオレ、まったく歌ってなかったんだぜ?
 音楽の教師の前ですら、クラスみんなで歌いましょうって曲ですら歌っていないのに、どうしてそんなこといえるんだ?
「君さあ、口パクしてるあいだ、ずっとリズム取ってたでしょ」
 いいながら、半田は長い指でハルユキのクラスがさっき歌った曲のリズムを取って見せた。
 ハルユキ自身は、自分がリズムを取っていた覚えはなかったが……。
「あの曲、36小節目で変拍子入るんだよね。みんなあそこでテンポが崩れるの。だからよくあんな曲選んだなあと思ってたんだけど、案の定ボロボロだったよね」
 ハルユキが広げたまま持っている楽譜のちょうどその場所を指さして、半田は笑った。
「だけど君はあそこでテンポが乱れないんだよ。あれ?と思って2回目も3回目も見てたんだけど、やっぱり乱れない。で、声は出してないけど口パクの方もズレてない。
 てことは、こりゃ相当歌ってるぞと思ったんだ」
 確かにあの部分ではみんなテンポが乱れる。ハルユキはそれを漠然と感じているだけだったが。
「歌が好きだと逆にさ、みんなと合わせられない、合わせたくないって子もいるよ。ましてや、屋外だろ。なんの反響もしない、音響的に最悪なところで、歌いたくはないよなあ。
 僕だって外でピアノなんか弾きたくないもの。外で弾いたピアノの音、聴いたことある?さみしいよお。痩せ細っちゃって痩せ細っちゃって、かわいそうになる」
 そういってピアノを撫で回す半田の姿はコミカルではあったが、あながち冗談とも思えなかった。
「で、まあ君が歌わないいちばんの理由は、その声なんだろうけどさ」
 ハルユキの身体に、少しだけ緊張が走った。
「気にするなって、いうと思っただろ?」
 ハルユキはおずおずとうなずいた。
「バカいうな。気にしろ、思い切り気にしてくれ。気にかけてくれ。その楽器は欲しくて欲しくてたまらない人がいる。
 昔は去勢してでもその声を手に入れようとする人がいたくらいだ。いまじゃ法律で禁止されてるけど、逆にいえば法律で禁止しなければいまでもそうする人がいるくらいのものなんだ。だから大事にしてくれ」
「いや、オレそんなつもりはないんですけど」
 自分はただ、自分の声を聞かれるのが嫌だっただけだ。それを笑われるのが……。
「ペドラッツィーニのバイオリン」
「はい?」
「つい数年前のことなんだけどね、アメリカである男性がバイオリンをリサイクルショップに持って行ったんだ。自宅の倉庫を整理していたら古びたバイオリンが出てきて、自分は弾かないからいらないって。
 リサイクルショップは埃だらけのそのバイオリンを15ドルで引き取ったらしいんだけど、店主がなんとなく鑑定に出してみたら、ペドラッツィーニが作ったバイオリンだった。鑑定額はおよそ20万ドル……」
 ハルユキはペドラッツィーニという名前は聞いたこともなかったが、その額だけは理解できた。
「価値っていうのはさ、理解されてはじめて意味を持つんだ。たとえそれを持っていても、価値を見出していなければ当然それは無価値になる。
 いまの君にはその声は無価値かも知れないけど、僕ら音楽屋からしたらとんでもなく価値があるよ。だから大事にしてもらえたら嬉しいな」
「でもこんな声、世間じゃ笑われるだけですよ……」
 つい、本音をもらしてしまった。
 しかし、半田は驚くほど強い声でいうのだった。
「そんな世間なら捨てちまえ」
 その声に、ハルユキは顔を上げた。
「君が持ってる楽器は凡愚がどんなに泣き喚いても手に入らない。君の声は君にしか出せないものだ。それを笑うような世間ならこっちから願い下げにしろ」
 半田は、確信に満ちた言葉を紡いだ。
「と、僕は思うよ」
 まるで別人のように、半田は飄々と音楽室を出て行った。


26 負ける気がしない

 まだ梅雨入り宣言が出されていないにもかかわらず、体育祭の数日前から雨は降ったり止んだりを繰り返し、当日の朝になってもすっきりと晴れてはくれなかった。
 それどころか、不安になるほど暗い空になったかと思うと、今度はところどころに青空をのぞかせたりと思わせぶりな空模様で、開会式に並ぶ生徒たちは気が気でなかった。
 もっとも、そんなことがなくても校長の挨拶など真面目に聞いてはいなかっただろう。
 特にボードを担当したクラスの生徒たちは。
 なにしろいまこの瞬間にも、応援席のうしろには自分たちが描いた巨大な絵が屹立しているのだ。
 そのボードを立てるために、担当クラスは他の生徒たちよりも早く登校しなければならなかったが、それはむしろ名誉といえた。
 ハルユキは、誰よりも早く登校して準備に取りかかっていた。
 指示を出したり、意見をいったりするわけではなかったが、それでも積極的にボードを立てるという最後の仕上げをする姿に、クラスメートたちは意外そうな顔をしていた。
 しかしそれを茶化したりする生徒はおらず、中にはうれしそうな顔をする生徒もいた。
 その急先鋒が、秋山だった。
「よう、ハルユキ!」
 そういって遠慮なく背中を叩き、「そっち持って」とボードを構成するベニヤ板の一枚をハルユキとともに持って校庭に運び出した。
——いってえな。
 とは思ったが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
 それは、相変わらず秋山の手首にはめられたまるで似合っていない水色とピンクのリストバンドのせいでもあったし、秋山という人間を知ったからでもあった。
——コイツ、ほんとに……。
 あんなふうに、もしかしたら笑われるかも知れないのに、まるで似合ってなんかいないのに、ただ好きだからと堂々としていられる人間がいることが、ハルユキには信じられなかった。
 こうして目の前にいる以上信じるしかないのだが、それでもそんな人間が自分と同じ教室に存在しているというのが、自分と一緒にベニヤ板を運んでいるというのが、まるで他人の人生の出来事のように感じられた。
——オレだって……。
 ハルユキも、自分のしていることが正しいなどとは思っていない。
 口パクでいることが、教室でほとんど話さないことが、正当性を持ち得るなどと思ったことはないのだ。
 すべては自分の小ささのせい、ちっぽけなプライドのせいだと、わかっていた。
 それでもそのちっぽけなプライドは、まだ大人になり切っていない心にはなにより大切で、小さな灯火ともしびとわかっていてもそれに縋らずにはいられないのだった。
「それでは、今日一日、怪我のないように精一杯がんばりましょう」
 開会式の終わりを告げるその言葉で、生徒たちは一斉に応援席に散っていった。
 その様子を、記録係のカメラが熱心に写真に収めていた。しかし、保護者たちが構えるスマホに挟まれたその姿は、なんだか肩身が狭そうに見えた。
 中にはプロ顔負けの望遠レンズで我が子を狙う親もいて、被写体の方は口々に「恥ずかしい」といいながらも、まんざらでもないようだった。
 とはいえ高校の体育祭に足を運ぶ保護者は決して多くはなく、ハルユキの両親も姿を見せてはいなかった。
——高校の体育祭を見に来る親の方がめずらしいよな。
 小学校の運動会から数えれば、もう10回近く体育祭があったのだ。
 そのすべてに来ているのではないにしても、親たちは相当な回数、子供たちの「勇姿」を見ていることになる。
 親自身の年齢とともに会社での責任も増していくだろうし、そうそう学校行事に参加してもいられないのだろう。
 そんなことを思いながら応援席に向かうハルユキを、白い女神が描かれたボードが出迎えた。
 青組は波、赤組は炎、緑組は竜をモチーフにそれぞれのボードを完成させていたが、いずれも白組の女神に太刀打ちできるものではなかった。
 圧倒的、とさえいえた。
 悠然と両腕を広げた白い女神は波を割り、炎を鎮め、竜ですら従えているようだった。
 それはハルユキのクラスの想いの結晶でもあったが、なによりもまず城ヶ崎の画力の賜物といえた。
——負ける気がしない……。
 白い女神は、ハルユキにそう思わせた。
 それを現実のものとするために、力の限りを尽くそうとハルユキは内心に誓った。


27 そんなことになるくらいなら

 まるで生徒たちの熱気に退けられてでもいるかのように、曇り空からグラウンドに雨粒が降りてくることはなかった。
 天気を心配していた生徒たちも、競技が始まってしまえば上空を覆う雲のことなどすっかり忘れてしまい、午前中のプログラムは次々と進んでいき、残すところは昼休み前の合唱だけとなった。
 どの色も全体で歌うのはほぼ初めてだったが、そこは合唱祭ではなく体育祭だ。音程の確かさやハーモニーよりも、応援歌として声量が大きければそれで良かった。
 音楽科の教師——半田——によれば、以前はこの高校にも合唱祭があったという。しかし、教育改革という名の下に行われたカリキュラム再編によって授業のコマ数が削られ、それを補うために学校行事が削減され、合唱祭は体育祭に吸収された。
 いや、本来なら単に消えてなくなるはずだった。
 合唱祭は体育祭以上に練習時間が取られる。いわゆる受験勉強以外の幅広いことを学ぶのも高校の存在意義のはずだったが、世間はなかなかそれを許してくれない。
 だから受験勉強を圧迫するような行事は、ないに越したことはない。
 そういったせめぎ合いの中で、学校側がなんとか捻り出したのが体育祭の中で合唱を行うという離れ業だった。
 当初は否定的な意見も多かったものの、数年続ければ実績となり、何年も続ければ伝統となる。
 やがて、その高校の特色となり、地域の住人までもが楽しみにするようになった。
 ただそれを、楽しみにできない生徒がここにいた。
 ハルユキは応援席にキチンと並んで立ち、全力で口パクを遂行した。
 大きな口を開けていたし、なんなら肩を上下させもした。
 確かに声を出してはいない。しかし、それだけだ。
 手を抜いてはいないし、心を込めもした。
 そんなものは言い訳に過ぎないし、横に並ぶクラスメートが、「やっぱりコイツ、歌ってない」と責めるような眼差しをしているのもわかる。
——でも、ダメなんだ……。
 対立したいわけじゃないし、波風を起こしたいわけじゃない。むしろ問題を起こしたくないからこそ、口パクを貫くのだった。
 声を出せば、どうせ嗤われる。
 表立って嗤われなくたって、必ずどこかでバカにされる。
 そうなれば、いずれきっとぶつかり合うことになる。
——そんなことになるくらいなら、初めからオレ一人が嫌われていればいい。
 体育祭が近づくにつれて、クラスの結束は高まっていた。
 競技の練習や準備、ハルユキのクラスではボードの制作もあった。それらを通じてお互いを知り、距離が縮まり、ひとつになっていったのだ。
 そしてさらに、ハルユキの存在があった。
 誰も、ハルユキを避けたりはしない。疎ましそうな目を向けるわけでもない。しかしそれでも、そこにハルユキがいると空気が変わる。
 まるで、魚の群れに小石を放り込んだように。
 みんなの心だけが、ハルユキから離れて教室の反対側に固まってしまう。
 怯えているのは、ハルユキの方なのに。
 それでも何匹かは、群れを離れて泳いでいる者もいる。
 たとえば秋山がそうだ。
 秋山はハルユキのことも、自分自身のことも気にせず悠然と教室の中を泳いでいるように見える。
 いまこのとき、合唱のさなかにも、秋山はウサギの模様が描かれたタオルを首に巻いている。肩を揺らし、近くに立つハルユキの耳を聾せんばかりの大声で歌っている。
 上手くは、ない。
 公正に評価すれば、下手だ。
 それでも、秋山はそれを気にするふうもない。
 だって、おまえはとにかくデカい声で歌えって半田先生もいってたじゃん。下手なのは、まあしょうがないじゃん。その歌声は、そんなふうにいっているようだった。
 合唱を見てもらったとき、音楽科の半田は笑いながら、「さすが筋肉の塊、声がデカい」といっていた。そして、「音程の方は、まあ気にせず、君はとにかく響く低音で全体を支えて」とも。
 秋山はそれに応えて、朗々と歌っていた。
 いいな、と思う。
 あんなふうに堂々としていられるのは、いいなと思う。
 しかしそれが、自分にはない資質だということもハルユキにはわかっていた。
——陰か陽かでいったら、明らかに陰だものな。
 歌声に包まれたまま、少し諦めたようにハルユキは思った。


28 初めからがんばったりしなきゃいいのよ

 グラウンドの興奮をそのまま持ち込んだような教室が耐えられなくて、ハルユキは早々に昼食を終えた。
——早食い競争が種目にあったら、1位取ってる。
 そんな皮肉なことを思った。
 午前中のプログラム、ハルユキもいくつかの種目に出て、それなりにがんばりはした。しかしそこでもたいした活躍ができたわけではなく、白組に貢献できたかといわれるとそうでもなかった。
——結局、なにやったって中途半端なんだよ。
 保護者たちも昼食をとりにいったん引き上げてしまったらしく、グラウンドにはほとんど人影がなかった。
 踏み荒らされた白線や幾重にも重なる足跡は、まるでいまもそこで透明な生徒たちが戦っているかのようだった。
 そんな様子を見るともなしに眺めながらグラウンドの隅に植えられた桜の木のところまで来ると、唐突にハルユキを呼ぶ声がした。
「瀬下くん、よね」
 その声は、唐突ではあったもののどこか遠慮がちで、声をかけることが憚られるとでもいうようにおずおずとしていた。
「このあいだは、ごめんなさいね。ちょっと、気分が悪くて……」
 その気分が悪いってのは、酔っ払っててってことか。ハルユキは怒りがこみ上げるのを感じた。
 桜の木の陰から声をかけてきたのは、城ヶ崎の母親だった。
——あんなことしといて、なんでノコノコ顔出せるんだよ。
 城ヶ崎の母親にしてみれば、もう一度学校に顔を出すとすれば体育祭の今日しかなかった。
 体育祭なら、どんな親もおおっぴらに学校に来られる。あくまでも体育祭を見に来たという体で、偶然を装って先日啖呵を切ってしまった担任を見つけ、なんとか謝ろうと目論んだのだった。
 その目論見がまんまと成功したのはいいが、当の担任は——本当のところはどうであれ——先日のことなど意にも介していない様子で、それどころか身体の心配までされてしまった。その上、「もしなにかあったら」といくつもの相談先を教えてもらい、しらふの母親は情けなさが極まって木の陰で縮こまっていたのだった。
 そんなことは露ほども知らないハルユキにしてみれば、厚顔無恥もはなはだしい母親がまたしても学校に乗り込んで来たのかと、怒りの炎を燃え上がらせるばかりだった。
 しかし、ふと、その本当の火元に気づいて、炎は勢いを失った。
 ハルユキは、その怒りが自分の不甲斐なさから来ていることを悟ったのだった。
 先日、酩酊した城ヶ崎の母親と向き合ったとき、ハルユキはほとんどなにもいえなかった。ただ拳を握りしめるばかりで、いいたいことはすべて、御木元にいってもらってしまった。
 その悔しさ、情けなさが、いまの怒りの火種になっていることに唐突に気づいてしまったのだ。
 勢いを失った炎の上に、城ヶ崎の母親の言葉がふわりと舞い降りた。
「あの子ね、なにやってもダメなのよ。わたしと同じで」
 ため息交じりにいう。
「小さい頃からぶきっちょで、そのくせ背ばっかり大きくなっちゃって。好きなことっていったら、絵を描くくらいしかないの。でもそれだって、上手い人なんていくらでもいるし、あの子の絵なんてたいしたことないでしょう。なのにあの子ったら、絵ばっかり描いて……」
 やっぱり似てるな、とハルユキは思った。文具店や、先日教室に現れたときの様子とはうって変わって、こうして心細げに自分の肘を抱えている様子にはやはり娘である城ヶ崎アユミの面影があった。
 城ヶ崎が、「いつもあんなふうなわけじゃない」といっていたのは、あながち嘘ではないのかも知れない。
「絵なんか描いてたって、なんにもならないんだから。いつか挫折するなら、初めからがんばったりしなきゃいいのよ」
 まるで自分に言い聞かせるように、彼女はいった。その目はひたすらに、自分の汚れた靴の先を見つめている。
——そんなの、わからないじゃないか。
 あの日、城ヶ崎の母親が帰ったあとで、ハルユキは手を伸ばせば届くところに未来があることを知った。自分とは別のところにあると思っていた世界が、すぐそこにあることを知った。
——だったら、城ヶ崎だって……。
 そういいかけた言葉は、吹いてきたやけに湿った風とともに消えた。
 生徒の熱気が失われた隙を突くように、空からわずかな水滴が落ち始めていた。
 そのとき、「午後の競技を始めます。生徒のみなさんは、応援席に着いてください」という放送が入り、校舎の中から胎動とも思えるような音が聞こえてきた。
 ハルユキは、「じゃあ、行きます」というのが精一杯だった。
 酔っ払った大人にどう対峙すればいいのかわからないのと同じくらい、泣きそうな大人の女性になんと声をかければいいのか、ハルユキにはわからなかった。


29 こんなことばっかりだ

 ハルユキが小走りに応援席に向かうと、そこにはすでに何人かの生徒が着席していた。
 その顔には午後の競技が始まるのを待ちわびていた表情が見てとれ、昼の休憩も彼らの興奮を鎮められはしなかったようだ。
 いち早く外に出て来ている生徒の中には御木元の姿も見え、ハルユキにはそれが少し意外でもあった。
 御木元は常に人の輪の中にいて、たくさんの生徒と一緒に出てくるものとばかり思っていたからだ。
 御木元は一人で他の生徒の椅子の向きを直したり、徒競走のコース上に転がり出た小石を外に放り出したりしていた。
 もしそれが、教師の目を気にしてこれ見よがしにやっていたら、ハルユキは「点数稼ぎ」と思っただろう。
 しかし、実際は違った。
 教師たちも生徒と同じく校舎内で昼食をとっており、まだ誰も外には出て来ていない。おそらくはいまごろようやく、「じゃあ、行きますか」「生徒たちは元気ですよねえ」「若いなあ」などといいながら、職員室を後にしているところだろう。
 そう思って見るからなのか、一人でいる御木元は教室でクラスメートに囲まれているときよりもリラックスしているようだった。
——まあ、気のせいだろ。
 陽キャという人種は、ましてやスクールカースト上位にいる種族は、群れて騒いでいないと死んでしまう属性持ちだ。だからすぐにも、同じ陽キャが大挙して押し寄せてくるに違いない。ハルユキはそんなふうに思った。
——だけどな。
 ハルユキは、酒に酔った城ヶ崎の母親に勇敢に立ち向かった御木元の姿を、目の前の彼女に重ねていた。
——陽キャってだけで、あんなことできるか?
 あれには正直、感服せざるを得なかった。他の陽キャたちは、ドアの陰から見守っているだけだったじゃないか。
 あれがあったからこそ、その後の合唱の練習はなおさら胸が痛かった。
 自分が悪いのはわかっていた。バカみたいにちっぽけなプライドを守りたいばっかりに、みんなに迷惑をかけているのもわかっていた。
 ましてや自分が出来なかったことを、それも彼女自身ギリギリの勇気を振り絞らなければならなかったことを御木元はしたのだ。
 陽キャだ、カースト上位だと揶揄しながらも、ハルユキはそれが掛け値なしに称賛に値することだとわかっていた。
——こんなことばっかりだ。
 それを直視すれば、自分の情けなさが際立つ。自分の卑小さが身に染みる。
 どこで間違えてしまったんだろう?
 声が女の子みたいに高くたって、「そうなんだよ」」と秋山みたいに笑えれば良かったのか?
 半田がいうみたいに、大事な楽器だと思えれば良かったのか?
——でも、オレはこの声が嫌なんだ。この声が嫌な自分が嫌なんだ。
 またうじうじと考えてしまう自分も嫌で、ハルユキは頭を振って顔を上げた。
 そのとき目に入ってきたものに、ハルユキは愕然とした。
 それはハルユキのそれまでの思いなど、吹き飛ばしてしまうものだった。
 どうしていままで気づかなかったんだろう?
 いや、どうして気づかずにいられたんだろう?
 誰よりも早く目にしていて、ずっと目の前にあって、この手で触れてさえいたというのに。
 白組の応援席の後ろにあるボード。
 白組の生徒たちを守り、赤組の炎を、青組の波を、緑組の竜を圧倒する白い女神は、あまりにも城ヶ崎の母親に似ていた。


30 なにをやってもダメなのは

 どうしてこんなに絵のセンスがないんだ?というより、どうしてこんなに頭が悪いんだ?
 ハルユキは自分のバカさ加減に愕然とした。
 城ヶ崎が描いたボード、生徒席の後ろで軽く両手を広げ、慈愛に満ちた表情で白組の生徒たちを包み込む女神の顔は、城ヶ崎の母親の顔にそっくりだった。
 城ヶ崎の母親に対する嫌悪感、という言い訳は立つ。
 彼女の物言い、アルコールのにおい、それが知らず知らずのうちにボードの女神と城ヶ崎の母親が重ならないようにさせていたのかも知れない。
——だけど、それにしたって……。
 みんなは気づいているのだろうか?自分と一緒にこのボードを制作したみんなは?
 あのとき、城ヶ崎の母親が教室で醜態をさらしたあのときに居合わせた連中も、「お母さんに似てるね」などと話してはいなかった。城ヶ崎の前でも、いないところでも。
 おそらく、誰も気づいていない。いや、気にもしていないのだろう。
 それはそうだ。あいつらはあのときしか城ヶ崎の母親を見ていない。
 だけど、オレは?
 オレは2回も城ヶ崎の母親に会っていて、しかも言葉まで交わしている。
——それなのに、気づかなかったなんて……。
 気づけていれば、なにか出来たか?それはないだろう。
 だけど、それでも!それにしても!
 いまこうして気づいたところで、城ヶ崎になにかしてあげられることがあるとは思えない。しかし、気づいている人間がいるのといないのとでは、大違いなんじゃないのか?
 あんな母親がいて城ヶ崎は困っているんじゃないかと、勝手に思っていた。ともすれば、母親を嫌っているんじゃないかと。
 ところが、そうじゃなかった。そうじゃなかったんだ。
「お母さん、いつもあんなふうなわけじゃないし」という城ヶ崎の言葉は、みんなに心配をかけないようにいっているんだと思っていた。
——違うじゃんか、ぜんぜん違うじゃんか!
 困っているのは確かかも知れない。クラスメートの前で、担任の前であの姿だ。恥ずかしくもあっただろう。
 だけど、嫌ったり、憎んだりはしていないじゃんか。
 城ヶ崎は、母親に呼びかけてるんだ。
 ずっと、「お母さん、お母さん!」って。
 ハルユキは頭をめぐらせて城ヶ崎の母親を探した。
 なにか出来るとは思えない。なんといえばいいのかもわからない。
 しかしとりあえず、どこにいるのかを知りたかった。
 さっき言葉を交わした桜の木の下に、その姿はなかった。
 ひょっとしたら、もう帰ってしまったのかも知れない。
——くそっ、なにをやってもダメなのは、城ヶ崎じゃなくてオレじゃないか。


31 断っちまえよ

「ごめん、ちょっと無理そう」
 午後2番目の競技に出場するはずだった女子が、応援席で腹を押さえてうずくまっていた。
「保健室行こ、ね」
 午後の競技が始まってすぐ、その生徒は腹痛を訴え始めた。
 急いで食べたのがいけなかったのか、それとも暖かくなってきたせいで弁当が傷んでしまっていたのか。あるいはぱらつく雨のせいで下がった気温に、身体が冷えてしまったのかも知れない。
「保健係、誰だっけ?」
 生徒たちが、目で探す。
 おずおずと手を挙げたのは、ハルユキだった。
 まさか、こんなときが来るなんて思わなかった。
 高校生ともなればみんな自分の体調管理には気をつけていたし、体育祭で熱中症になる生徒も滅多にいない。
 名前だけの係でたいした仕事はない、そう思って引き受けたのだった。「歌うこと以外は協力する」そう思っていたことも影響していただろう。
「わたしも一緒に行くから、ついて来て」
 御木元がそういってくれたときには、正直ほっとした。
 なにしろ相手は女子だ。どう扱っていいものやら皆目見当もつかない。
 ハルユキはまるで壊れ物を扱うかのようにそっと肩を抱いて、御木元と一緒にその生徒を保健室に送っていった。
 グラウンド中央で行われている競技そっちのけで、ハルユキのクラスの生徒たちは誰もが心配そうに彼女の後ろ姿を目で追っていた。
「あっ」と、誰かがいった。「ねえ、次のリレーどうする?」
 リレーというのはこのすぐあとに行われるクラス対抗男女混合400mリレーのことだ。そしていま保健室に向かってじわじわと歩を進めている彼女は、そのリレーに出場する予定になっていた。
「どうするって……」
 応援席に残された生徒たちは、互いの顔を見合わせていた。
 陸上部の競技大会ではないのだから、棄権という手はないだろう。とりあえず誰かが代わりに走って、競技として成立すればいいのだ。
 そして出来ることなら、腹痛に苦しむ彼女と同じくらい足が速くて、白組に得点をもたらしてくれるといい……。
 そんな子、いるかな?生徒たちはそれぞれに考えをめぐらせていた。
 あの子は午前中に他の競技に出ちゃってるし、あの子はこのあとの競技に出るし……。
 そうやって、ふとボードを見上げた一人がいった。
「城ヶ崎さん、出ちゃえば?」
 そのひと言で、みんなが振り向いた。
 いくつもの視線を受け止める城ヶ崎の目が見開かれた。
「わた……、わたし?」
 状況がまったく飲み込めない城ヶ崎をよそに、彼女を取り巻く生徒たちは勝手に盛り上がっていた。
「そうだよ。城ヶ崎さん、個人種目ぜんぜん出てないし」
「うん、足速そうだし、いいんじゃない?」
「それだけ足長いんだから、本気出したら絶対速いって」
 おそらく、こんな素敵なボードを描いた城ヶ崎に競技でも活躍の場を与えたいという、純粋な心遣いもあったのだろう。
 城ヶ崎さんはがんばった。
 あんなお母さんがいても、ううん、それは別としてもこんなにすごい絵を描いてくれた。がんばった人は、ちゃんと評価されるべきなんだ……。
 保健室から急いで戻ったハルユキは、城ヶ崎本人そっちのけで話が進められていく様子に当惑していた。
 みんな、城ヶ崎のことを思っている。
 しかしそれが、当人にとっては甚だ迷惑になることもあると、ハルユキは知っていた。
 その証拠に、城ヶ崎は卒倒しそうな勢いで首を振っている。
「む、無理だよ、そんなの。わたし、足遅いし、迷惑かけちゃうよ」
 秋山を除く誰よりも背が高い彼女が、誰よりも頼りなく見えた。
「代理なんだから、遅くったって誰も文句いわないから」
 それなら別の誰かでいいじゃないか、という意見は誰からも出なかった。
——断っちまえよ。
 城ヶ崎を囲むまるで檻のような人の輪の外から、ハルユキは思った。
 本人が嫌だと思っていることを、無理矢理やらせることなんてないんだ。
——オレって、薄っぺらいな……。
 とも思った。
 歌いたくないから歌わない。声を聞かれたくないからしゃべらない。そんな自分を無理矢理城ヶ崎に重ねて、やりたくないことはやらなくていいと正当化しようとしている。
 みんなの期待に、誰かの想いに応えること、応えようとすること。
 それは正しい。
 一方で、無理強いは良くない。
 それも正しい。
 しかしそれを、オレは自分を正当化するための方便として使おうとしていないか?
 だっていま、「ほら、呼び出しかかってるから早く」と背中を押されていく城ヶ崎の姿を見て、自分はなにもいわずにいるじゃないか。
 本当に自分が正しくて、胸を張れるのなら、「嫌がってるんだから他の奴が出てやれよ」といえばいいのに。
 自分の浅はかで、仄暗い性分を嫌というほど見せつけられて、ハルユキに出来るのはただうつむくことだけだった。


32 そんなつもりで描いたんじゃないのに

——わたし、もう十分なのに。
 クラスの他のリレー選手たちと入場ゲートに並びながら、いや、並ばされながら、城ヶ崎の足は緊張で震えていた。
 彼女をここまで引っ張ってきたクラスメートの「大丈夫だから!」がちっとも大丈夫でないことは、城ヶ崎自身がいちばんよくわかっていた。
 背が高いからって、スポーツが得意なわけじゃない。
 バレーボールだって苦手だし、バスケットなんてどっちのゴールに入れればいいかわからなくなる。
 ましてや走るのなんて、速いわけがない。
 そんなの、みんな知ってるでしょう?わたし、体育の授業で活躍したこと一度もないじゃない?
 その一方で、クラスメートたちの考えも理解でき、ありがたくもあった。
 彼女たちは城ヶ崎に花を持たせようとしてくれているのだ。
——それは、わかるけど、わかるんだけど……。
 せっかく自分が描いた絵をみんなに認めてもらえたのに、それをこんなことでだいなしにしてしまうのが怖かった。
 いっそ、逃げ出してしまいたい。
 お腹が痛くなったあの子のように、自分も体調が悪いといってみようか?実際、額には冷や汗をかいているし、手だってこんなに冷たくなっている。
 それでもきっとダメだろう。
 寒い日のプールのあとみたいに唇が真っ青になっているのでもなければ、いまさら「出ない」は通用しない。
 そうだ、雨は?さっきポツリポツリと降り始めていた雨はどうだろう?あの雨が、リレーが始まるまでに強くなってくれれば……。
 城ヶ崎の願いもむなしく、雨はからかうように時折おでこを叩くだけで、まるで「残念でした」と舌を出しているようだった。
「次は、1年生によるクラス対抗男女混合リレーです」
 スピーカーから響く声にうながされ、生徒たちが一斉に動き出した。
——ああ、もうダメ……。
 川に流される木の葉のように、城ヶ崎はスタート地点へと押されていった。
 自分で描いたというのに、ボードの女神までもが冷たい目で自分を見下ろしているように見える。
 白い女神のその顔は、諦めたような、突き放すような、こちらを見限った表情を浮かべているように感じられた。
——どうしよう、そんなつもりで描いたんじゃないのに……。
 みんなを応援するつもりで描いたのに、みんなにもこんな思いをさせていたらどうしよう?
 幾重にも重なる緊張と不安に押し潰されそうになって、城ヶ崎はへたり込んだ。それが目立たなかったのは、他の選手たちがスタート地点にいったん座るのと同じタイミングだったからというだけに過ぎない。
——こんなんじゃ、ますます迷惑かけちゃう……。
 そう思った瞬間、城ヶ崎の前にあった背中が振り向いた。
「まいっちゃうよな、ほんと」
 その声に、心臓が痛くなった。
 自分のこのていたらくを見て、「そんなんじゃ困るんだよ」と叱責されているのだと思った。「デカい図体してなにしてるんだよ」と。
「デカ女、デカ女」とからかわれていた小学生時代の記憶がよみがえる。「そんなに背が大きいのに、ぜんぜんダメだね」と笑われていた頃のことが。
 そしてそれに引きずられるようにして、母親に「アンタはなにも出来ない」「絵なんか描いたって仕方ない」といわれたときの記憶が……。
 ところが、振り向いた背中はいうのだった。
「デカいからって、スポーツ得意とは限らないじゃんな」
 デリカシーもなにもない率直な言葉の主は、秋山だった。
 城ヶ崎は秋山が一緒にリレーに出ることに気づかないほど、まわりが見えなくなっていた。
「城ヶ崎さ、ほんとは代わりに出るの、嫌だろ?」
 コクリ、と小さくうなずく。
「だよな」と、秋山は破顔する。「あのノリでいわれちゃうと断れないよな。でもおまえは急に決まった代役だし、どんなに遅くたって誰も文句なんかいわないって」
 柔道は基本的に個人戦だ。しかし同時に団体戦でもある。
 5人対5人の団体戦においては、チームメイトの存在は不可欠であり、心強い支えでもある。
 それを知っている秋山だから、城ヶ崎の様子に気づき、声をかけられたのだろう。
「でも、せっかく出てっていってくれたのに、みんなの足引っ張っちゃう……」
「あの絵で十分みんなのこと引っ張り上げてくれたよ」
 秋山のさらに前にいる小柄な女子生徒が振り向いていった。
「城ヶ崎さんの絵、やっぱすごいよね。見てると力が湧いてくるっていうか、安心して競技に集中できるっていうか、負ける気しなくなるもんね。記録会に持って行きたいよ」
 秋山の陰に隠れそうな彼女は、陸上部の部員だった。
 そして同じ陸上部の男子生徒が、城ヶ崎のすぐうしろから声をかけた。
「あとはオレたちにまかせとけって」
 女子二人、男子二人で構成されるチームの、彼はアンカーだ。
「それに多少ピンチを作って盛り上げてくれた方が、陸上部としてはありがたい」
「そうなのよ、陸上部って地味じゃない?走ってるだけとかいわれてさ。だからこういうとき、サッカー部とか野球部とかバスケ部とか、ああいうのに負けたくないの。ていうか、圧勝するか、ドラマチックに勝ちたいの」
 勝つ気満々で、彼女は笑った。
「オレ柔道部なんだけど」
「秋山はいいんだよ、普段から目立ってるんだから」
「そうよ、このあいだだって新聞の取材来てたじゃない」
「1位取れたらウサギのなにか買ってやるからがんばってくれ」
 本気かどうかはわからないが、その言葉に秋山は色めきだった。
「忘れんなよ、全力で行くからな」
 はいはい、と小柄な女子が笑った。
 ああ、そうだった。と、城ヶ崎は思った。
 一人で走るんじゃないんだった。
 あの絵だってそうだ。
 あの絵は一人で描いたんじゃない。
 下描きは、自分が担当した。そうだ、「担当した」んだ。
 拡大コピーはあの子が取ってくれた。絵の具の調合はあの子がやってくれた。色塗りはあの子が、買い出しはあの子が……。
 線を引くのが苦手な子もいた、色を塗るのが下手な子もいた、だけどそれぞれが担当した役割を懸命に果たそうとしてくれた。
 このリレーだって、一人で走るんじゃない。わたしは、第三走を担当すればいい。
「わた、わたし、がんばるから」
 声に出すと、不思議なほど緊張は解けていった。


33 誰になんといわれても

 第一走者でいきなり差をつけ、第二走者で差を広げ、第三走者で差を詰められても、アンカーで突き放す。
 それが、城ヶ崎のチームの作戦だった。
 その作戦は大いに的中し、第二走者の秋山はかなりの余裕を持って城ヶ崎にバトンを運んできた。
 長距離はともかく、柔道部で鍛えた足腰の瞬発力はリレーでも遺憾なく発揮され、少しばかり舐めてかかっていた他のチームに衝撃を与えていた。
 他のチームも、俊足自慢のメンバーを集めているはずだった。しかし陸上部の、それも中学時代からエース級の選手が二人も揃っているチームは他になく、他の二人が多少遅くてもいい勝負になるとまわりからは思われていた。
 柔道部も、まあ走り込みはしているし、足はそこそこ速いんじゃないの?でも野球部やサッカー部ほど速いわけはないし……。
 それが実際に始まってみると、この柔道部が洒落にならないほど速かった。
 第一走者の小柄な女子生徒は陸上部らしい好スタートを切ると、そのままグイグイとリードを広げていった。公式な大会で使う400mトラックよりずっと小さい校庭のトラックだったが、彼女は身の軽さを活かしてまたたく間にカーブを抜けていった。
 続く秋山はさすがにフォームはバラバラだった。先ほどの彼女と比べると、足の回転も、腕との連動もまるで取れていない。
 いや、取る必要がないほどに、秋山はパワーで地面を蹴り進んでいた。
 これを見た他のチームに焦りの色が浮かんだ。おいおい、二走目で追いつくんじゃなかったのかよ……。
 テイクオーバーゾーンに迫ってくる秋山を見たとき、城ヶ崎は初めてその手首にはめられている水色のリストバンドに気づいた。
——あれに気づかなかったなんて……。
 絵を描くには、特にデッサンをするには、対象をよく見る必要がある。城ヶ崎も目に映るものを詳細に観察するのが癖になっていた。
 それでも、リレー選手として集合しているときには、秋山のリストバンドに気づかなかった。
——あんなに目立つのに。
 細めの女の子のふくらはぎほどもありそうな前腕、その手首にはめられたパステルカラーのリストバンドは、どう考えても秋山には不似合いだった。
 それは、秋山本人も認めていた。
 だけど、それがなんだっていうんだ?
 秋山と可愛いものの組み合わせは、どうやったって似合わない。
 そしてそれを、「似合わない」といってしまえる残酷な正直さを持っているのが高校生だった。
 しかしそれでも、本人がいいというなら、それでいい。
 そんなふうに思えるのも、まだ大人の社会の色に染まっていない彼らの特権だった。
 男なんだからしっかりしましょう、女なんだから可愛くしましょう、就職活動はリクルートスーツでしましょう、面接の受け答えはこうしましょう……、そんなふうに何度も何度も型にはめられ、元の形がわからなくなるまでプレスされて、なにを大切にしていたかすら忘れてしまう、そんな時期を迎える前のむき出しの「そんなことどうでもいい」を、彼らはまだ持っているのだった。
 だから城ヶ崎も、鬼の形相で走って来る筋肉の塊の腕に可愛らしい水色のリストバンドが見え隠れしているのを見て、クスリと笑いはしたものの、おかしいとか、変だとかは思わなかった。
——わたしも、胸を張って絵を描きたいな……。
 誰になんといわれても、好きな絵を、好きなだけ描いていたい。
 体育祭が終わったら、お母さんに絵の道に進みたいっていってみよう。お母さんには迷惑かけないから、なんならいまからアルバイトして画材や授業料も自分で出すから、美大か、そうでなければ絵の勉強が出来る専門学校に行きたいっていってみよう。
 お酒が入っていないときなら、きっとわかってくれる。
 手首のリストバンドが飛んでいきそうなほど激しく腕を振って走って来る秋山を見て、城ヶ崎は思った。
 きっと、誰になんといわれても、好きなものは好きといっていいんだ。


34 なのに、どうして

「頼んだ!」
 手のひらがジンと痺れるほど強く、秋山から城ヶ崎の手にバトンが渡された。
 まるで女神の祝福を受けたように、城ヶ崎のチームは2位以下に大きく差をつけていた。
 陸上部の二人ほど上手にバトンパスが出来ないのは当然で、テイクオーバーゾーンいっぱいまでかかって、ようやくバトンは城ヶ崎の手に渡った。
 パシンという乾いた音とともに、気持ちまで渡されたような気がした。
 その気持ちを強く握りしめるようにして、城ヶ崎の足は懸命に地面を蹴った。
——わたしの足は速くない。
 他の子が出た方が、勝つ可能性はきっと高い。もしかしたら、腹痛で保健室に行ったあの子が無理して出た方が、わたしより速く走れるかも知れない。
 それでも、それでも、と城ヶ崎は思った。
 一生懸命がんばって、もしいい結果が残せたら、きっとお母さんと話すのだってうまくいく。
 子供じみた願掛けかも知れない。
 白線から落ちずに歩けたら、小石を蹴って家まで帰れたら、投げたゴミがゴミ箱に入ったら、きっといいことが待ってる。そんなのと変わらない、意味のないことだ。
 しかしそれは、大人にとっても変わらない。
 おみくじで大吉が出たら、時計の数字がゾロ目だったら、茶柱が立ったら……。
 そうやって意味のないことに勇気をもらって、人は生きていく。
 いや、勇気は初めから自分の中にあって、そんな意味のないことを理由にしてその勇気を引っ張り出すんだ。
——だから、わたしも……!
 そう思ってカーブのいちばん深いところに差しかかったとき、視線の先にそれを見た。
 校庭の隅、木の陰に隠れるように立つ、母親の姿。
——どうして?
 今日、母親から体育祭を見に来ると知らされていなかった城ヶ崎にとっては、青天の霹靂だった。
——今日は、なに?なにをしてるの?
 城ヶ崎の胸に、先日の母の醜態が苦い記憶となってよみがえった。もしまたあんな姿をみんなに見られたら……。
 自分の進みたい道について、母親と対決する覚悟は出来ていた。
 しかしそれは、いまではない。
 いま、体育祭で走っているこのときではないはずだった。
 リレーを終えて、体育祭を終えて、みんなとの時間を分かち合って、それからのはずだった。
——なのに、どうして……。
 城ヶ崎は、自分の覚悟の弱さを知った。
 さっきまでは、どんな風雨もものともしない岩のような覚悟と思っていたのに。なのにそれは、髪が揺れる程度の微々たる風で、いともあっさりと吹き飛んでしまうものだったのだ。
——なんて情けない……。
 自分にも出来ると、自分にも出来るはずだと思い込んでいたのに、実際に母親の姿を目にした途端にこの有り様だ。
 走っているからというだけでは説明のつかない激しい動悸を、胸の内に感じた。
 その途端、足がもつれた。
 足が重い、身体が重い。
 腕の振り方、足の運び方がわからなくなった。
 空気って、こんなにネバネバしていたっけ?
 気持ち悪い……。
 ふと、身体が軽くなった。
 そう思った次の瞬間、城ヶ崎は地面に突っ伏していた。
——転んだ。
 すぐにわかったが、痛みもなにも感じなかった。
 痛みよりももっとずっと大きなものにのしかかられているような気がした。
——ああもう、なにもかもダメだ……。
 せめてみんなの足を引っ張ることだけは避けたかったのに。
 差を縮められちゃうのはしょうがないよ、だってわたし、足遅いもの。
 だけどその差を出来る限り保って、アンカーにバトンを渡したかったのに。
 きっともう抜かれてしまう。
 お母さんにも、「アンタはなにやってもダメなんだから」って、進路のことなんて言い出せずに終わってしまう。
 わたしのやりたかったことは全部、終わってしまう。
 もっと、絵を褒めて欲しかった。
 もっと、絵を描いていたかった。
 もっと、お母さんに絵を見てほしかった。
 お父さんにも、もう一度会いたかった。
 どこかで、わたしの絵を見てほしかった。
 だけどもう、全部終わり。
 わたしの望みは、ここで終わり。
 こうやって地面に倒れたまま、みんなに追い抜かれて、みんなに迷惑をかけて、それで終わっていく……。
 そう思った。
 そう諦めた。
 そのとき、空気を切り裂く声が響いた。
「立て!城ヶ崎!」
 生徒席から沸き上がる喚声をものともせず、耳朶を打つ声。
 雨音を貫く雷鳴のように、波音を引き裂く汽笛のように、その声は城ヶ崎の耳に届いた。 
 そして一瞬の静寂のあと、勢いを増してふたたび湧き上がる喚声。
 その声は、彼女に立てといっていた。
 彼女に諦めるなといっていた。


35 立て!城ヶ崎!

 大差で城ヶ崎にバトンが渡ると、ハルユキのクラスの興奮は最高潮を迎えた。
 いいぞ、いける。
 クラス対抗男女混合リレーは配点が大きい。
 ここで1位を取れば白組の総合優勝がぐっと近づく。
 だからこその盛り上がりだった。
 その盛り上がりが絶頂を迎えるさなか、全員の注目を集めている中で、城ヶ崎は転倒した。
 カーブの頂点で、残り半分というところで、城ヶ崎は盛大に転んだ。
 クラスのテンションが下がる音が聞こえるようだった。
 決して城ヶ崎を責めてはいない。責めてはいないが、それでも……。
 肩を落としたり、天を仰いだり、ハルユキのまわりの生徒は思い思いに落胆を露わにしていた。
 ここまで来て、これかよ……。
 城ヶ崎も悪くない走りを見せていたのに。
 多少もっさりしてはいるけど、それでも長い足を活かして着実に距離を稼いでいたのに。
 男子の場合、身体の大きさはほぼそのまま運動能力に正比例する。ところが女子の場合には、身体の大きさはむしろ運動能力には逆効果だ。
 それは筋肉量の違いによる。
 筋肉の量が多ければ、骨格の大きさは武器になる。しかし、筋肉量が少なければ、骨格の大きさは重量となり、枷となり、足の運びを鈍らせる。
 城ヶ崎は必死に、その枷を振りほどくようにして足を運んでいた。
 はた目にも、苦しげなのがわかる。
 そのぶんだけ、懸命に走っているのがわかる。
 なのにその道半ばで、城ヶ崎がくずおれるように転倒した。
——なんだよ、なんでそうなるんだよ。
 ハルユキは転倒した城ヶ崎の姿越しに、カーブの向こうの人影に気づいた。
 そこに立っていたのは、城ヶ崎の母親だった。
——あれを見たのか。
 生い茂る葉の下で、影に潜むように佇んでいる母親の姿を。
 ハルユキには、城ヶ崎の動揺が手に取るようにわかった。
 起き抜けに冷水を浴びせかけられるようなものだ。状況が飲み込めず、純粋な驚きだけが頭の中を占拠する。真っ白になる。
 いまの城ヶ崎が、まさにそれに違いない。
 怒るより、悲しむより先に、混乱して、当惑して、自分の中が空っぽになってしまう。だってそんな状況に対処するには、彼女はまだ15年しか生きていないのだから。
——お母さん、おまえを邪魔したいんじゃないんだぜ。
 何十年も生きてきて、オレたちの倍以上生きてきて、期待すること、夢見ることの辛さを知ってしまったんだ。
 知ってしまって、どうすることも出来なくて、せめて自分の娘だけはそんな思いをしないように、願っているだけなんだ。
 それを上手く伝えられる大人もいるのだろう。いや、それが大人というものなのだろう。
——だけど、城ヶ崎のお母さんには出来なったんだ……。
 そう思い至った瞬間、ハルユキの脳裏に一枚の絵が浮かんだ。
 城ヶ崎の絵を知ってから、ハルユキは興味本位で図書館にある美術の本を何冊かめくってみた。
 その一冊に、その絵はあった。
 ダ・ヴィンチやエル・グレコ、フェルメールといったいわゆる美しい絵の中に、まるで間違いで紛れ込んでしまったかのような真っ黒い絵。
 輝かしい名画の光に挟まれた、闇のような絵画。
 初め、ハルユキはそれがなんの絵なのかわからなかった。黒を背景にしたゴツゴツとした褐色は不規則な形をした岩山のように見え、ところどころに白や鮮明な赤が踊っている。
 しばらく漠然と眺めて、それがなにを意味しているかに気づいたとき、ハルユキは声をあげそうになった。
 褐色の岩山と見えたものは白髪を振り乱した裸の老人の身体であり、その顔はこぼれ落ちんばかりに目を剥いていた。そして赤は、首と腕をなくした子供から流れ落ちる血の色だった。
 老人は子供の身体を握り潰しそうなほど強く掴み、その指先は背中に深く食い込んでいるようだった。
 喰っているのだ、子供を。
『我が子を喰らうサトゥルヌス』と、タイトルにはあった。
 解説によれば、自らの子供に殺されると予言を受けたサトゥルヌスが5人の子供を次々と貪り食ったローマ神話を題材としたものだという。
 そのストーリーだけでも十分に怖ろしかったが、ハルユキはその下に加えられた一文に戦慄を覚えた。
「殺さなければ、子供たちを殺さなければ。さもなくばもっと怖ろしいものに、子供たちが殺されてしまう」
 そのときは、なにをいっているのかわからなかった。
——どうして子供を殺さなくちゃならないんだよ?
 背景にあるローマ神話なら、かろうじて理解できた。我が子とはいえ、自分を殺しに来られてはたまらない。だから先に命を奪う。
 しかしわからないのはその下の言葉だ。
「さもなくばもっと怖ろしいものに、子供たちが殺されてしまう」
 なぜ?と、そのときは答えが出なかった。
 しかしいま、ようやくわかった。
 どんな時代であれ、いや古代においてはなおのこと、親殺しは重罪だ。だからもし子供が自分を殺すようなことがあれば、その子供は怖ろしい刑罰――おそらくはむごたらしい死刑に処されるだろう。
 火あぶりや磔刑、手足を縛った縄を牛や馬に引かせて八つ裂きにする、生きたまま全身の皮を剥ぐなどという方法もあったらしい。
 我が子をそんな目に遭わせるわけにはいかない。
 そのためにサトゥルヌスは、自分の子供を次々と殺したのではないか?自分の身を守るためというよりも、子供たちを守るために。
 そして同じく古代では、死者を喰らうことでその魂を自分の中に取り込むという考え方があったという。
 それならば、子供たちの魂を自らの中に生きながらえさせようという目論見もあったのではないか。
 もしかしたらサトゥルヌスの行為は、恐怖からというより愛情からのものだったのかも知れない。
 だから城ヶ崎の母親も、と考えるのは甘過ぎるのだろう。世間知らずにもほどがあるのだろう。
 しかし、大人というものが高校生が思っているよりもずっとずっと弱くて、不完全で、不器用な存在なのだとしたら?
 小さな子が泣くことでしか気持ちを表現できないように、大人も自分の感情や心を上手に扱えないのだとしたら?
 だから酒に溺れることでしか、自分を欺せないのだとしたら?
 夢を遠ざけることでしか、子供を守れないのだとしたら?
 それしか術を知らないのだとしたら?
——だったら、そんなものに屈服する必要はないじゃないか。
 城ヶ崎の母親はいっていた。
「あの子、なにをやってもダメなのよ」
——そんなの、親に決めさせなくていいじゃないか。
「わたしと同じで」
——同じかどうかなんて、わからないじゃないか。
 城ヶ崎には、城ヶ崎にしか描けない絵があるじゃないか。
 そんなところに寝転がって、「やっぱりダメだ」を受け入れる必要なんてないじゃないか。
 だから、
「立て!城ヶ崎!」
 ハルユキは全身を声にして叫んだ。


36 絵を描くことは、わたしの全部なんだから

「立て!城ヶ崎!」
 ハルユキの声が、城ヶ崎の鼓膜を震わせた。
 高校生男子にはあるまじき凛とした声が、グラウンドに満ちた喚声を割って城ヶ崎の耳に届く。
 ハルユキの周囲にいた生徒たちが一斉に息を呑んだ。
 すぐ近くで鐘を鳴らされたかのように、耳の中の空気が自ら震えている。そんな感覚が生徒たちを襲った。
——コイツ、なんて声してるんだ……。
 目を見開き、ハルユキを見る。
 その視線を振り切るようにしてハルユキは両の拳を握りしめ、大きく息を吸い込むとふたたび叫んだ。
「立てぇ!城ヶ崎!」
 野山の蝉が一斉に鳴き止んだときを思わせる一瞬の静寂のあと、堤防を乗り越える洪水のように声援が応援席からあふれ出した。
「立って!城ヶ崎さん!」
「がんばれ!」
「まだいける!」
 誰もが城ヶ崎のために声を振り絞っていた。
 その背後には、クラスみんなで懸命に仕上げた白い女神の絵があった。
 それを見て歯を食いしばり、城ヶ崎は立ち上がった。
 胸元から腰のあたりまで、湿り気を帯びた土がこびりついていた。膝からは、血も流れている。
——だけど……。
 いまは立ち上がらなくちゃダメだ。いまだけは、走らなくちゃダメだ。
 あの絵は、みんながわたしに描かせてくれた。わたしに描いていいっていってくれた。
 そしてみんなで完成させた。
 そのみんなが走れっていってる。
 諦めるなっていってる。
 城ヶ崎は転がったバトンを拾い上げると、手をついて立ち上がった。
 すぐ横を2位のランナーが駆け抜けていく。
 その背中がみるみる小さくなっていく。
「行け!城ヶ崎!」
 巨大なうねりのような声援の中、ハルユキの声がピンと張った糸のようにまっすぐに城ヶ崎に届いた。
 その声に背中を押され、城ヶ崎はふたたび走り始めた。
 視界をチラリとかすめただけで思考のすべてを奪ってしまった母親の姿は、もう気にならなかった。
——あの絵は、わたしたちのものなんだから。
 少し足首もひねったかも知れない。
 足の裏が地面につくたびに、右足に鈍い痛みが走った。
 それでも、城ヶ崎は全力で前に進み続けた。
——絵を描くことは、わたしの全部なんだから。
 ようやくアンカーにバトンをパスする頃には、3位のランナーに追いつかれかけていた。
 胸が、焼けるように痛い。
「ごめん」といいたかったが、絞り出した息は声にならなかった。
 しかしバトンを受け取りざま、アンカーの彼は「まかせろ!」というと、弾かれるように加速していった。
 コース外に出た城ヶ崎はその場に仰向けになり、それ以上は彼の姿を目で追うことも出来なかった。
 胸がいつまでも上下し、動悸がおさまらなかった。
——吐きそう……。
 始まる前にこうだったら、走らずにすんだかも知れない。
 しかしいまは、後悔していなかった。
 走ったことも、転んだことも、絵を描いたことも、母親がその絵を見たことも、全部後悔していなかった。
 寝ころんだまま見上げるといつの間にか雲が切れ始め、わずかな青空が顔をのぞかせていた。


37 うん、いってない

「陸上部なめんな!」
 1位で応援席に帰って来たアンカーの生徒が、雲の切れ間にのぞく青空を殴るように拳を突き上げていった。
 驚異の追い上げによって、ハルユキの組のアンカーは1位でゴールテープを切った。
 その瞬間、爆発するように湧き上がる歓声。
 応援席に帰って来たリレーチームは、そのときに負けないくらいの歓声で迎えられた。
「ごめんなさい。わたし、転んじゃって……」
 長い髪で顔を隠すように、城ヶ崎がいう。
「ドラマチック!」
 そういって親指を上に突き出したのは、第一走者だった陸上部の女子生徒だった。
「ドラマチックに勝てた!バスケ部にもサッカー部にも野球部にもバスケ部にも負けなかった。文句なし!」
 小柄で、並んで立つと城ヶ崎の肩まで届かない彼女は満面の笑みを浮かべて抱きついてきた。日焼けした肌に、真っ白な歯が眩しい。
「バスケ部、2回いってるし」と、ツッコミを入れたのはアンカーの男子生徒だ。「おまえ、なんでそんなに他の部活に負けたくないの?バスケ部にフラれたとか?」
 冗談のつもりでいったセリフに、彼女の笑顔が凍りついた。
「あ、ごめん……」
「ちっ、ちがうし!」
 慌てて否定しても、まわりではもう、「そうかあ」「女の恨みは怖いからなあ」と既成事実にされてしまっていた。
「そんなことより、城ヶ崎さん、早く救護席に連れてってあげてよ」
 すっかり保健係であることが認知されているハルユキに、彼女は救いを求めた。
「う、うん」
 その勢いに押されて返事をし、ハルユキは城ヶ崎に肩を貸した。リレー前に腹痛を訴える女子生徒を送っていったときよりは緊張しない。それでも、やはりまた御木元がついて来てくれるのはありがたかった。
——大変だな、クラス委員。
 怪我をしたのが男子だったら御木元もついては来なかったかも知れないが、女子の介助をするのに同じ女子がいてくれるのは気持ち的にも助かる。
 御木元がクラス委員としてクラスの中心的な役割を演じるのと同時に、雑用係のように様々な仕事をしていることを、ハルユキはなんとなく理解し始めていた。
 リレーが始まる前、腹痛を起こした女子生徒を連れて行った保健室で、御木元はかいがいしく彼女の世話をしていた。
 いまも、今度はテント屋根の下の救護席で、保健師の先生を手伝って城ヶ崎の擦りむいた膝を消毒してやっている。
 城ヶ崎は消毒液を吹きかけられるたびに、顔をしかめて「んんん……」と痛みをこらえていた。
 ガーゼの上から包帯を巻き、ひととおり処置を終えると、保健師の先生は「少し休んでから行きなさい」と3人をおいて自分の席に戻っていった。
 少し休んでいけというのが自分のことも含むのかどうかわからないまま、ハルユキはパイプ椅子に座る城ヶ崎の後ろに立っていた。
 グラウンドの喚声は相変わらず響いている。
 しかし、テントの屋根とパイプフレームで縁取られているだけで、それはまるで別世界の風景のように見えた。
 ついさっきまで自分たちがあの中にいたのが嘘のようだった。
 そのとき、前を向いたままの城ヶ崎がポツリといった。
「瀬下くん、ありがとう」
「いや」
 保健係だからな、と続けようとしたハルユキよりも先に、城ヶ崎が言葉を継いでいた。
「転んだとき、瀬下くんの声、聞こえた」
 御木元は城ヶ崎の隣で、2人の会話が聞こえていないかのようにまっすぐ前を見つめて立っている。
「もうダメだって思ったんだけど、瀬下くんの声が聞こえて。そのあとみんなの声も聞こえたんだけど、瀬下くんの声に気づいてなかったら、みんなの声、聞こえなかったかも。
 わたし、転んだとき、パニクっちゃって……」
「ああ……」
 女子の音域に、男子の腹式呼吸、それに加えて元からの声質。他の音を押し退けて届く声にもなる。
「きしょい声が役立ったな」
 自虐的にそういってから、自分がいつものように声を潰していないことに気づいた。
 でも、もういいか。
 みんなの前で盛大に叫んでしまったし、明日からはまたコソコソ笑われるか、わざとらしく気にしてませんよって顔されるかだ。
「きれいな声だと思うけど……」
「そんなことない。御木元にも『きしょい声』っていわれたし」
 決して目の前の御木元にあてつけるつもりでいったわけではなかった。
 ただ御木元の言葉はいまでも滓のように心の底に残っていたし、少しばかりひねくれてみせずにはいられなかったのだ。
 すると、御木元は不思議そうな顔をして振り返った。
「わたし、そんなこといってないんですけど?」
「いったよ。オレが合唱の練習サボろうとしたとき」
 こうやって「いった」「いわない」になるのは、嫌だな。
 御木元はしばらくのあいだ、眉根を寄せて記憶の糸をたぐった。
 そして、パッと顔を明るくすると「ああ!」と声をあげた。
——ほら、いったろ?
 城ヶ崎の母親との一件や、クラスをまとめようとはたらく御木元の姿を見て、ハルユキは御木元が悪い奴ではないのかも知れないと思い始めていた。
 今日だって、朝から駆けずりまわる姿に感心していたくらいだ。保健室や救護席に付き合ってくれたことには感謝すらしていた。
——よかった、御木元がこんなことをごまかすような奴じゃなくて。
 不覚にも、そんなふうに思った。
 だから御木元の口から出た次の言葉には、二の句が継げなかった。
「うん、いってない!」
——コイツ、なんなんだよ……。


38 ボーイソプラノ

「うん、いってない!」
 明るく断言する御木元に、ハルユキは呆れた。
「いや、いったろ?男でこの声はきしょいのは事実だからさ、もういいよ」
 そうだ、この声がきしょいのは自分がいちばんよく知っている。いちばん長く知っている。
「いってないよ?」
 御木元はあくまで自信を持って繰り返す。
 城ヶ崎は2人のあいだでおろおろするばかりだ。
「いやいや、教室でさ、この声聞いたとき……」
「違うよ」
 御木元はため息交じりにいった。
「わたしがきしょいっていったのは、声じゃなくて瀬下くんのことだよ」
 ああ、そうかと、納得がいくわけがない。
 しかし怒り出すには、御木元の言い方はあまりにもストレートで、あっけらかんとし過ぎていた。
「おまえ……」
「わたしがきしょいっていったのはね」
 当惑して力なく発されたハルユキの言葉を、御木元がさえぎる。
「そんなこと気にしてウジウジしてるのがきしょいっていったの」
 椅子の背にしがみついている城ヶ崎はもう泣きそうな顔をしている。
「瀬下くん、よく通るきれいな声じゃん。他の男子が、いいえ女子だって出せないくらい高い音域出せるじゃん。誰になにいわれたのか知らないけど、そんなの気にしてるなんて、きしょいよ」
 城ヶ崎がなにかに気づいたように、顔を上げた。
「この声だぞ?」
「知ってるよ。さっきも城ヶ崎さんを応援してるの聞いたもん」
「男でこの声って、変だろ」
「さっきもいったけど、誰になにいわれたのかは知らないわよ。でも、それって高校に入ってから?うちのクラスでそんなこといわれた?瀬下くんがそう思い込んでるだけじゃない?
 もしそんなこという奴がいたとしても、そんな連中のことなんて無視して、自分のことは自分で決めればいいのよ」
 まるで自分に言い聞かせるように、御木元はいった。
「わたし、そういう人知ってる……」
 椅子の背で顔を半分隠すようにして城ヶ崎が口を開いた。
「中学時代の嫌なことを、全部断ち切ろうとしてて、すごくがんばってて。その人見てると、わたしもがんばろうって思えて。でも、瀬下くんにもいっぱい助けてもらって、瀬下くんの声きれいだと思ってて、だから瀬下くんにもがんばってほしくて……。ごめん、なにいってるかわかんない……」
 いいながら、城ヶ崎は真っ赤になった顔を椅子の背に沈めていった。
——コイツらは、なにをいってるんだ?
 きしょくないのか、オレの声は?
 きれいな声だとは、まるで思えない。
 だけど音楽科の半田がいっていたように、おもしろい楽器と思っていいのか?
 オレは、この声でいいのか?
「来年……」と、ハルユキはつぶやくようにいった。「来年、おまえたちと同じクラスになったら、今度はちゃんと歌うよ」
 それを聞いた城ヶ崎が顔を上げた。
「ほんとに?」
「ああ」
 いますぐに、というのは無理かも知れない。
 だけどゆっくり、少しずつなら、出来るかも知れない。
「その代わり、来年も城ヶ崎がボード描いてくれ」
 城ヶ崎は驚いたように目を見開いたが、すぐうれしそうに「うん」と応えた。
「わたしは?わたしもなにかする?」
「御木元は、そうだな、生徒会長にでもなってくれ」
「わたしの扱い雑じゃない?」
 御木元は頬をふくらませた。
 来年、3人が同じクラスになるかどうかはわからない。確率的には、その可能性は低いだろう。
 しかしそうならなくても、城ヶ崎はボードをまかされそうな気がする。あれだけの絵を見せつけられては、新しいクラスも放っておかないだろう。
——それなら、コンクールに出せとかいった方がよかったかな?
「じゃあ、生徒会長になって合唱祭復活させようかな」
「え?」
「半田先生、合唱祭復活させたいっていってたから、わたしが生徒会長になったら復活させる。瀬下くん、3人が同じクラスになったら合唱祭でもちゃんと歌ってね」
「いや、それは……」
「さっき歌うっていったじゃん」
「いったけど……」
「体育祭だけとはいわなかったよ。ね、城ヶ崎さん」
「うん……」
——城ヶ崎まで!
 ハルユキははめられた気分だったが、「歌う」といったのは自分だ。
「わたしも、来年またボード描くから。今度は自分から描きたいっていうから」
 すがりつくようにパイプ椅子の背を握りしめる城ヶ崎の指先は、力が込められて真っ白になっていた。
 その様子を見せられては、断れない。
 約束は約束だ。
 しかしハルユキは、自分がその約束を守らないだろうとも知っていた。
 もし城ヶ崎が絵を描き、御木元が合唱祭を復活させるなら、3人が同じクラスにならなくても、ハルユキはボーイソプラノとして歌を歌うだろう。

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