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下山事件を読む 第2章 躍進する日本共産党

日本共産党の台頭

 1945年(昭和20年)8月30日、GHQのマッカーサーは厚木飛行場に降り立った。GHQが最初に行ったことは、国家主義・国粋主義的なものの排除である。その標的になったのが、旧軍人や官僚、財閥、国家神道、天皇などであった。同年9月、第一次戦犯指名が行われ、同月末、財閥解体が発表された。12月には神道指令が発表され国家神道が廃止された。そして、翌年1月元日、昭和天皇は「人間宣言」を行った。

 その一方で、獄中につながれていた徳田球一たち日本共産党員は1945年10月に釈放された。

 日本を民主化して新しい秩序を構築しようとしたのがGHQの民政局(GS)で、GSを主導したのがハーバード大学法科大学院出身の秀才、チャールズ・ケーディス(課長・次長を歴任)であった。占領当初、GHQはケーディスの意向を汲んで共産主義勢力に対して寛容な姿勢を示した。その結果、共産党が指導する労働組合は力をつけ、全国的に労働運動が盛んになり、日本共産党も党基盤を着実に固めていった。そして、1949 年 (昭和24年)1 月の衆議院議員総選挙で日本共産党は議席数を 4 議席から 35 議席に増やす大躍進を遂げた。

G2の暗躍

 日本共産党の台頭に呼応するように、GHQ内では俄かに参謀第2部(G2)が台頭してきた。具体的にはどうのようにG2は存在感を現わしてきたのだろうか?
 民政局(GS)と G2はGHQ内部で対立していたことが知られている。GHQが日本占領後に容共主義を採用してきたのは前述のとおりだが、国内外で共産主義勢力が拡大していくにしたがってG2やその協力者たちは警戒心を強めていった。そしてG2は、行き過ぎた容共政策を行ってきたとしてGSを敵視するようになるのである。反共主義者で有名なチャールズ・ウィロビー(G2部長)は、コートニー・ホイットニー(GS局長)と激論を交わすことも多かったという。

 ウィロビーについて、どのような人物か少し詳しく見てみよう。

ウィロビーはドイツのハイデルベルク出身。16歳でアメリカに渡り、日本に来たときはすでに数十年にわたる軍務生活を送っていたという生粋の軍人である。「ヒットラー」にもなぞらえられるほどの反共主義者で、GHQ内で共産主義に一定の理解を示そうとする“進歩主義者”やリベラリストたちを「私の敵、アメリカの敵」と言ってはばからなかったという。

出典 諸永裕司 著『葬られた夏』

 大の反共主義者だったウィロビーが宿泊していた帝国ホテル元社長の犬丸徹三は、こう述懐している。
「ウィロビーは帝国ホテルに三つ部屋をもっていて、宿舎兼事務所にしていた。(中略)そこで吉田(茂)さんとヒソヒソ・・・・・・。あのころは、みんな政治家連中は米大使館(マッカーサーの宿舎)には行かず、ウィロビーのとこで総理大臣になったり、あそこで組閣したりしたんだ」(C・A・ウィロビー『知られざる日本占領』)

出典 諸永裕司 著『葬られた夏』

 ウィロビーを中心とするG2の反共勢力は、日本人協力者とともにGSなどに存在する容共勢力の追い落としを図ろうと暗躍し始める。吉田茂(首相)や白洲次郎(吉田の側近)、右翼の面々などがG2側の人々として知られている。松本清張は著書「下山国鉄総裁謀殺論」に、「汚職や赤の理由をつけて本国に告げ口をし、二百数十名の進歩派を本国へ追放してしまった」と、GSに対するG2の策動について書いている。GSのエースであり、人妻(鳥尾鶴代)と不倫関係にあったケーディスにもG2の魔の手が伸びていた。この一件について、松本は同著に、国家地方警察本部(国警)長官を経験した斎藤昇の回想記を引用している。要約すると次のようになる。
 1947年に斎藤は、内務次官に就任して1か月くらい経過した後、某大佐(ケーディス)から呼び出された。某大佐は「日本の警察官が自分の女友達(鳥尾)を調べようとした事実がある」と言って、その警察官の名刺を斎藤に突きつけ、「すぐにその目的を調査して回答をよこせ」と斎藤に命じた。斎藤が調べてみると、久山英雄(内務省調査局長)から依頼を受けた警視庁の警務部長がやらせているものと判明した。その理由について斎藤は次のように述べている。「占領政策立案の中心人物であった某大佐は、その政策が左翼的であるかのように見えたため、共産主義者ではないか?」と吉田内閣の某要人S(白洲次郎)は疑っていた。そして、某要人SはG2と協力して、某大佐を日本から追い出そうとする策略を計画した。そのためには某大佐のスキャンダルを掴む必要があると考えた某要人Sが、久山に警察を動かすよう働きかけていたことが判明した。そのような事実を正直に某大佐に伝える訳にはいかなかった斎藤は、嘘の報告を行ってひとまず逃げた。ところが、約1年後に斎藤は、某大佐から斎藤の報告が嘘であったことや、策謀の犯人(G2と繋がっている白洲や久山など)がGHQの調査によって明確になったことを告げられた。この一件によって、GSとG2の対立がより深刻になったと斎藤は述べている。

 また、松本清張は「斎藤昇(国警長官)罷免問題」についても斎藤の回想記を引用している。要約すると次のようになる。
 ある時、斎藤は「GSが最も嫌っている某要人(白洲)を吉田総理の側近に使うことは得策ではない」というようなことを増田甲子七(官房長官)に進言した。それから2、3か月後の1949年(昭和24年)7月初旬に、増田は「斎藤を辞任させろ」と辻二郎(国家公安委員長)に言ったという。国警長官の辞任には、国家公安委員長の了解が必要なのだろう。それに対して「斎藤を辞めさせる理由がない」と辻が主張すると、「斎藤は国警長官として適任ではないので、政府の要望を聞き入れてくれ」と増田は辻に迫ったという。結局、斎藤自身も辞任する理由がないので辞任はしないという考えを曲げず、増田が負けて斎藤の留任が決まったという。なお、斎藤は「これ(自らに対する辞任要求)は官房長官の発意ではない」と断言している。
 上記の内容は、言うまでもなくG2に繋がっていた白洲のことをGSの誰かが毛嫌いしていた事実を示す出来事であり、白洲自身もGS、あるいはGSに従順な斎藤に反発していた様子を示す出来事である。
 ちなみに斎藤昇罷免問題は、斎藤が日本共産党に対して手ぬるいという理由で吉田茂(首相)が斎藤を罷免するよう命じたことによって起こった問題だと一般的に言われている。しかし上記の事情を知ると、「日本共産党に対して手ぬるい」というのは単なる口実で、個人的怨恨から白洲が吉田を唆してそのように言わせたとも思えるのだ。

GHQによる労働運動の制限

 インフレは進むが企業経営は未だ軌道に乗らない状況の中、労働者・経営者ともに困窮していた時期のことである。GHQが日本の民主化を推進するために労働運動を容認した結果、労働組合勢力は急拡大していった。日本経済の苦境を尻目に、日本共産党の指導のもと労働組合は賃上げ要求を繰り返し、各業界で労働争議が頻発することになった。経営者側との交渉が決裂すると、労働者はストライキやサボタージュを行って対抗するようになった。
 戦後、窮地に陥っていた日本経済において共産党勢力が力をつけてきた状況を、政・財・官を問わず、その上層部の多くが苦々しく思っていたようである。加賀山之雄(第2代国鉄総裁)は回顧録『下山事件の陰』のなかで次のように述べている。
 戦中から戦後において昭和24年という年は苦難の道の頂点であったと加賀山は言い、具体的には次のように述べている。「資金と資材の不足、老衰した施設、超過剰な職員、インフレの昻進」と「戦後労働問題に関するGHQのミスリードに乗ずる日本共産党の戦術にかきまわされしまったこと」が原因で身動きが取れない状態になっていたと述懐している。
 さらに、労働運動が盛んな頃の労働組合との交渉について、加賀山は次のような恨み節を述べている。
 1946年(昭和21年)の夏から秋にかけて、運輸省(国鉄の前身)は7万人強の人員削減を計画していたが、徳田球一(共産党所属の衆議院議員)たちの指導のもとで伊井弥四郎(のちに日本共産党中央委員となる)や鈴木市蔵(のちに共産党参議院議員となる)が猛烈な抵抗をした結果、もう一歩のところで人員削減計画が頓挫してしまった。この計画の失敗は、国鉄建て直しの遅れや、争議に勝利した労働組合の増長をもたらしたと加賀山は述べている。加えて、この失敗が他の民間企業にも悪影響を与え、ひいては日本経済の建て直しを遅らせたとして、加賀山は残念がっている。
 このような状況のなかGHQは、行き過ぎた労働運動が日本経済に悪影響を及ぼすと考えるようになった。共産党系の全日本産業別労働組合会議(産別会議)や、社会党系の日本労働組合総同盟(総同盟)などが支援する全官公庁共闘が1947年2月1日に無期限の全国ゼネラル・ストライキ(二・一ゼネスト)を計画した。この600万人規模のストライキが決行されれば、全国の輸送・通信・生産が停止されることになるので、これを警戒したGHQはスト突入前日に中止命令を出した。1948年(昭和21年)7月31日には、GHQの意向を汲み、芦田内閣はすべての公務員の争議行為を禁止し、団体交渉権を厳しく制限した(政令201号)。これ以降、労働運動が大幅に制限されることになる。
 
 戦後、GHQの民主化政策により国民の権利に対する制限がなくなったことや、急激なインフレによる生活の困窮化などが原因で労働運動が盛んになったことは必然的なことだと思われる。その一方で、労働運動やそれを支える日本共産党に対して政治家や企業経営者、右翼などが危機感や反感を抱いたこともまた必然的なことだと言ってもよいだろう。そのような反共的な感情が下山事件を引き起こす端緒になったことは間違いないであろう。

(つづく)

参考文献
諸永裕司 著『葬られた夏』朝日文庫(2006年)
松本清張 著「下山国鉄総裁謀殺論」(『日本の黒い霧』に掲載)文春文庫(2004年)
加賀山之雄 著「下山事件の陰」(文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』に掲載)文藝春秋社(1955年)

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